ニア×かなで
「Butterfly」

「さ、かなで。何か弾いてくれ」
「うん!」
ベンチに置かれたケースから大切そうにヴァイオリンを取り出す。
立ち位置を替えてニアがベンチに腰掛けたのを見届けると、気取って一礼した。
「それじゃあ、課題で出たやつだけど、パガニーニから一曲」
人間離れした超絶技巧ゆえに「悪魔に魂を売り飛ばした」と言われる作曲者の曲は、なるほどと頷けるほど派手で激しい。
かなでは難しい顔をして弾いているが、それが何となく初めて楽器を手にして苦労している子供のように見えた。
当然、紡がれる曲は子供などと言えないレベルだが。そのギャップがおかしくて、面白い。
ニヤニヤしながら聴いていると、かなでが弓を下ろしてぷうと頬を膨らませた。
「何笑ってるの、もう~」
「いや、すまない。顔が面白くてな」
ニアは立ち上がってかなでに近づき、額に指を当てる。
「ほら、眉間に皺」
「うう~、だって難しいんだもん」
「そうだろうな。素人目にもそれはよくわかる」
「でも、超絶技巧ってだけじゃないんだよ。曲もいいから凄いよね、パガニーニ」
「演奏中に次々と弦を切って、最後にはG線一本で弾いたりしてたそうだな」
「木靴に弦張って楽器にしてみたりとかね。逸話の多い面白い人だなぁ」
「君もやってみたらどうだ? 興行師的なパフォーマンス」
「ええっ、それは無理!」
「ああ、運動神経がネックか……」
「もう~、ニアの意地悪っ」
軽く肩を小突かれた。悪かったと宥めつつ、ニアの笑いの発作は収まらない。
そのうちかなでも声を上げて笑い出した。
一通り笑った後、再び練習を開始する。ニアはベンチに戻って拍手しつつ、かなでが躓くたびに小言を挟んでは笑う。ニアがからかって、かなでがむくれてみせる。そして、すぐに笑顔になる。
この親しみやすい雰囲気が彼女の人気の秘密だろうなと、ニアは足を組みその上に肘をついてかなでを観察する。
馴染みやすく、話やすい。人懐っこいし、表裏が無い。
そのくせ、ヴァイオリンを演奏させれば、衆目を集めて光り輝く。舞台は練習室でも屋上でも街角でも一切問わずに。
彼女は蝶だ。ひらひらと舞い、花から花へと移る。羽の美しさに目を奪われ、人は手を伸ばそうとする。
ニアはそれを撮影する傍観者でいるはずだった。
手にしたいと思っても、一線を越えずに。蝶は綺麗だけど、追い掛けてもそう容易く手に入らないと知っている。だから、いつも遠くから見てるだけ。
それでいいと思ってた。
けれど、ニアの手はカメラに伸びない。目はかなでを追いかけ、耳はその音に浸っているというのに。
この瞬間を、シャッターひとつで留めておくことはできる。動画撮影で音も録れる。
しかし、胸に沸き上がる思いはどこにも留めることはできない。デジタルな記録媒体はなく、ただ時間の中に置き去りにされる。
曲が終わるとかなでがこちらを見て、ニアの拍手に対して照れたように笑う。そんな顔を記憶できるのは、自分だけでいい。
留めようとしたら色褪せる。流れていく時間だからこそ、大切だと思えるのだろう。
初出:2010/10/02