キスをねだる
君の声を笑顔を見て、髪の香りを感じて
触れた指の感触を知り
それだけじゃ飽き足らなくなった、欲深い己を知る
恋愛に限らず、人間関係は基本的に打算と謀略の上に成り立っていた。
何れ伴侶として迎える女性は釣り合う家柄や年齢などステータスのみで取り決められ、本人らの意思など最初から排除されるだろう。
柚木の家に生まれ家風に相応しくと育てられた以上、人生のレールは最初から定められていて、特段背く理由もなければ甘受して走り続けるより他にない。
玩具を取り上げられることも大人の都合を押し付けられることも、全て飲み込んで笑顔を作れるようになって久しい。
取捨選択の基準は一つで、柚木の家に相応しいかどうか。それだけだ。
それでも歪んでしまった人生観はもう世界を斜めに見ることしかできない。
利益優先の策謀渦巻く社会を見慣れてしまったから、同世代であるはずの高校生が言う友情や恋愛などままごとにしか見えなかった。
高校生活はあくまで通過点でしかなく、フルートも嗜みの一環だ。
そう思っていたはずの薄ぼんやりと陰った世界をたった一人の少女が変えてしまうなんて、一体誰が予想するだろう。
無遠慮にずかずかと人の懐に入り込んだと思えば、極彩色をぶちまけて何もかもを変えてしまった。
計略や駆け引きとも無縁な、泥臭いほど一生懸命に突っ走ることしかできない一つ年下の、普通科女子生徒。
美点を上げろと言われたら、まずは打たれ強さを思い浮かべる。
病気とも縁が無いような生命力溢れる瞳と、白い肌に血色のいい頬はいかにも健康的だ。
物言いから思考に至るまでが直線的でそれを隠そうともしない。
悪く言えば愚直。よく言えば素直。
それは奏でられるバイオリンの音にも現れていて、ひどく判りやすい。
およそ柚木家が理想とする女性像とはかけ離れていて、だからこそ目に付いたのだろう。
それを油断と言われればそれまでだ。
心を動かされることなどないと高を括っていた。
自分とは余りに相反していて、それなのに最も身近な存在になっている。
本性をばらしてしまおうと思ったのは気紛れだと言い訳してみても、今となっては説得力の欠片も見当たらない。
いっそ傷付けてしまえばいいとさえ考えて、けれど何一つ思い通りにならなかった。
こと彼女に関して予定調和などあっただろうか。
予想外の事態に驚くばかりだ。
日野香穂子は柚木から離れることはなかった。
からかって嫌味を投げつけも、一向に懲りない。
顔を赤くして拗ねたり言い返してきたりと反応はその時々で様々だが、決して卑屈になったり被害者意識に逃げ込んだりもしなかった。
バイオリンの技術にしても、柚木独自の審美眼で酷評すると、彼女は真摯に受け取って反省し翌日には欠点を補ってきたりする。
見ていて飽きない。
側にいて楽しい。
そんな風に思うようになるまで時間なんてかからなかった。
いつからなんて知らない。
気付いた時には手遅れだった。
いつの間にか胸に住み着いた思いは、留まる所を知らないように毎日変化する。
いつも探してる。普通科女子の制服の中に、彼女がいるかどうかと目を凝らす。
普通科校舎内の廊下を歩けば期待してる。彼女に逢えるだろうか、と。
その背中を振り向かせて、真っ直ぐな目に自分だけを映して、拗ねたり笑ったり沢山の表情を見せてくれたらと、願っている。
欲求は日々増すばかりで果てがない。
こんなにも自分が欲張りだったのかと、驚くことも増えたように思う。
知識を詰め込んでも、実感が伴わなければ無知も同じだ。
毎日が新鮮で、同時に苦しみも募る。
学内を歩き回っても逢えないことだってある。学年も科も異なるのだから当然と言えるだろう。
休み時間は短く、すぐに次の授業が差し迫る。そんな状況でさえ、未練がましく留まろうとしてしまう。
一時逢えないくらいで、日々はつまらないものへと色褪せる。
明らかに落胆しているのだ。
とは言え彼女の思考回路は至って単純明快で、有る程度パターン化されている。
練習室の予約をチェックして先回りし、偶然を装って声をかけてみれば酷く驚いた顔が「柚木先輩!」と叫ぶ。
次に、何の嫌味が降ってくるのかと構える様子を見せ、練習を見てやると提案すれば怪訝と歓喜を交互に浮かべて躊躇する。
「でも……先輩だって、練習とか勉強とか」
自分が嫌だとは一言も言わない。
鬱陶しいほど柚木の事情を慮って余計な気を回そうとする。
「俺が、見てやってるって言ってるんだよ。余計なこと考えてないで、練習の成果を見せてみろよ」
わざとらしく接近して花のような香りのする耳元に低く囁いてみれば、案の定、日野香穂子は顔を真っ赤に染めた。
「わ、判りましたよ! それじゃ……どうぞ」
慌てて距離を取って逃げるくせに、練習室へは簡単に通したりする。
男と二人きりになるという危機感は、どうやら皆無のようだ。
これが他のアンサンブルメンバーだったとしても、彼女は同じように通したりするんだろう。
そこに確かな苛立ちを覚えて、聞こえないように小さく舌打ちする。
自分勝手な感情だと思う。
一方的で独りよがりだ。
自分が想うように、相手にも同じように想って欲しい、なんて。
つい半年前の自分なら嘲笑って切り捨てていただろう感情が渦巻く。
恋なんて下らないとさえ思っていたのに。
「愛の喜び」と名付けられた曲を、彼女のヴァイオリンが高らかに歌う。
甘くて優しい音だった。
どこまでも高く澄み切った空のような、降り注ぐ春の陽射しのような。
例えるなら神への帰依を祈るような愛。
神聖な誓いを立てるような、敬虔と無垢。
少し前の柚木なら、そんな解釈もあるだろうと思っていた。
見るからに初で男女の機微に疎い日野の思い描く恋愛なんて、紙面か画面の中が精一杯だろう。
雑誌や本や、ドラマや映画や携帯の中にさえ、他人が描いた恋で溢れているのだから。
それらは大概、甘く楽しげに輝いている。
外側から傍観して見たものと、自ら体験するものとでは違う。
彼女は知っているのだろうか。
こんな感情があること。
白い肌に健康的な赤みをほんのりと加えて柔らかな曲線を描く頬と、赤くぷっくりと熟れた果実のような唇が絶妙に配置された日野の横顔を注視する。
柚木の視線などまるで気付かないまま、彼女は目を閉じて音に没頭していた。
口元には微かな笑みが浮かぶ。
優しい音色はその甘みを深めていく。
柚木でさえ知らなかった。
自らの身に降りかかって初めて実感した。
その感情は酷く身勝手で強情で、何一つ思い通りにならない。
様々な言葉が過ぎった。
技術の上達を喜ぶ反面、解釈の相違に戸惑う。
音の甘さはそのまま日野の感情を表すようで、歯痒く感じた。
まるで身にすぎた毒のように、じりじりと喉の奥を蝕んでいく。
一通りの演奏を終えて、日野は瞼を開けた。
睫毛がふわりと浮きあがり、現れた瞳が柚木を捕らえる。
にこ、と日野香穂子が微笑んだ。
その時に感じた衝動を、何と呼べばいいのだろう。
体内温度が一気に上昇するような熱が生まれ、いてもたってもいられない。
口元を抑えて、危うくこぼれ落ちそうだった言葉を飲み込む。
今の感情は到底まともとは言えない。
先走りそうになる気持ちを寸前で抑え込む。
何一つ顔色に出さなかったのは、せめてもの意地だ。
例え日野相手と言えど────いや一番内心を悟らせたくない相手とは、日野のことなのかもしれない。
「どうですか?」
「────ま、俺の好みじゃないけど」
感想を求められて天の邪鬼な台詞を突っ返せば、日野は困ったように眉を寄せて縮こまった。
それまで尻尾を振らんばかりに期待の眼差しを向けていただけに、大層な落ち込みようだ。
柚木は大きく溜息を吐いた。
「好みじゃないけど、悪くないな。技術に関しての助言なら俺より適任がいるだろうけど」
補うように付け足した言葉に日野は顔を上げた。
ぱっと輝くような笑顔を横目で確認して、顔を背ける。
柄になく染まった頬など、見せられるもんではない。
本当に厄介だ。
未だ、体内の熱は収まらずにむず痒いような感触まで沸き上がる。
襟元を指先で拭う。今日はどうも本調子ではないようだ。
スカーフを直してジャケットの襟を正す。
長い髪をかき上げ、後ろに流した。
「……柚木先輩って、優しいのか意地悪なのか判らなくなってきた」
ヴァイオリンを片づけながら、ぽつりと日野が呟く。
柚木に語りかけるというよりは思わず出た独り言のようだ。
それを聞き逃す柚木ではない。
「何だい? 藪から棒に。……そんなに苛めて欲しいのかい?」
「ちっ、違いますよ! 断じてそんなんじゃありません」
「……なら、何だっていうんだ」
まさか独り言を聞き咎められるとは思って無かったらしい。
柚木の追求に日野は動揺している。
暫く言葉を選ぶように俯いた後、口を開いた。
「こんな風に練習見てもらったり────先輩だって三年生だし、色々忙しそうなのに」
まだそこに拘っているのか。
練習室に入る前、彼女が口にして躊躇した事案────柚木の都合を慮った件を、未だ引きずっているらしい。
柚木は小さく微笑む。
「阿呆だね、お前も」
確かに暇ではない。高校三年ともなると様々な事柄で時間に縛られる。
その時間を割いてみてやってるのだ。
手を煩わせていると思うのなら、もっと別の言葉があってもいい。
他の何よりも日野を優先に考えている理由。
この練習室に、更に言うなら日野の側に居られるようにと行動しているその動機。
馬鹿馬鹿しいくらい単純明快な答え。
「────俺の方こそ訊きたいね。ちゃんと俺の言葉を聴いて理解する頭はそれなりにあるのに、時々ひどく鈍感になるのは何故だ?」
仕掛けた罠は、獲物を舌なめずりして待ちかまえる。
そしてその「獲物」には自分自身も含まれていた。
今まで踏み込んだことのない深みまで切り込み、暴き出すものは互いに触れなかった核心部分だ。
おそらく無傷ではいられない。
「ど、鈍感って……」
「例えばこんな風に」
一歩一歩と日野に近付く。怖じ気づいた彼女を壁まで追い詰める。
「俺がお前に迫ってもいつも通りで、キス一つねだらない」
「キ、キキキキスって……!」
顔全体を真っ赤に染めて日野は動揺した。
完全に逃げ腰の体勢で、両手の甲を顔の前に持ち上げる。まるで柚木から顔を防ぐように────拒否するような仕草に見えて、柚木は眉を一瞬しかめた。
「────なんて、本気にした?」
その頭をぽんと軽く叩いて、発言を撤回する。
逃げ道は常に容易するものだけれど、今回ばかりは落胆を隠せない。
「またからかって!」と日野は憤慨するが、「面白いね、相変わらず」と返す軽口もどこか白々しく流れる。
吹っ掛けたジャブは空を掻きむしるだけで対象を見失った。
自分を守るために冗談へと逃げた。
互いに無傷で済んだが、同時に何一つ掴めなかった。
おそらく日野はいつもの揶揄だと判断しただろう。二人の関係は一ミリも動いていない。
それでいいと、半ば自暴自棄的に投げ捨てて日野から離れようとした。
腕を掴まれ、日野の真っ赤な顔を見るまでは。
強引に腕を引っ張られた。
暖かく柔らかな感触を感じて────それが彼女の唇だと判ったのは、頬に口吻を受けた後だった。
「ほっ、本気にしますよ! 先輩の言う通り阿保ですし!」
真っ赤な顔を伏せて日野が叫ぶ。
そのまま回れ右して逃げ出そうとする右腕を捕らえた。
たった一瞬の接触。
それだけで理性が焼き切れるような気がした。
互いに無傷でいられなかった、と自嘲気味に仕掛けた柚木は笑う。
甘く苦く、狂おしいほどの気持ち。
そんなものを自覚してしまったら、無事でいられるわけがない。
「────キスってこうするもんだろ?」
【終わり】
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木日コピー本「INFATUATION」で描いた木日漫画&小説の柚木Side。
初出:2010/02/03