「好き」と「嫌い」の駆け引き

好きなんて、絶対に言えない


顔を見たら何か言わずにいられない。
それも毒気の多い揶揄や嫌味や皮肉の羅列だ。ごくごく普通の感性を持った人間なら、そんな言葉を投げ掛ける人間なぞ嫌悪するだろう。
自分だったなら頭から存在を無視して黙殺するか、完璧に整えられた外面と笑顔で追い払うかのどちらかだ。
相手にするだけ面倒だし、関わり合いになろうと思わない。我ながら厄介な人間だと自覚している。
だからこそ日野香穂子という存在は、有る意味貴重だった。
本音を見せても、毒のある言葉を幾つ投げ掛けても逃げなかった。
皮肉も揶揄も聞き流すことなく小気味良いほど一つ一つの言葉に反応する。
真っ直ぐで嘘が下手な彼女は、適当にあしらうなんて芸当を端から持ち合わせていないように、投げ掛けた言葉を真っ正直に打ち返すのだ。

「日野さん、こんな所をうろうろしてどうしたんだい?」
「さっきから見てたならもっと早く声かけて下さいよ」
「僕はつい先程、森の広場に来たばかりだけど」
「それ嘘ですよね、私が困ってるのを見て楽しんでたんですよね?」
「まさか。日野さんが近衛さんたちと楽しそうに話をしていたから、邪魔しちゃ悪いなと思ってたんだよ」
「それも嘘ですよね、明らかに高みの見物ですよね?!」
日野は顔を真っ赤にして、少し恨めしそうに上目遣いで柚木を睨む。
拗ねたような幼い顔が面白くて、声を殺して笑う。
こんな、腹の底から面白いとか楽しいと感じて笑うことなど、何年ぶりだろうか。
久しく忘れていた感覚だ。

彼女に出逢ってからというもの、こんな感情が自分の中にあるのかと驚くことが増えた。
顔を見たいと願い、顔を合わせたら声を掛けずにいられなくて、どんな言葉でもいいからと算段や策略から遠く離れた素の言葉が次々と沸き上がってくる。
どんな皮肉にどんな表情をするのだろうと想像しては、一人笑いを堪えたりする。
気取らない態度を晒して、ストレス解消している。

そもそも、それだけ自分がストレスを抱えていたのだと、後になって気付く有様だ。
人当たりのいい優等生という皮を被るのに苦労はしなかった。柚木家の人間として恥ずかしくないようにと求められ、そうあるべきと育てられてきたのだから。
しかし、本音をぶつけるような人間関係は望むべくもなく、交流は比較的希薄なものになりがちだ。
自分で思う以上に嘘ばかりの生活に疲れていたのだろう。
染みついた性分や形成された人格を、そう簡単に変えることはできない。

日野香穂子と関わるようになって明け透けな態度を見せても拒まれないと知ったとき、何かから解放されたような気がした。
重い鎖が解けて、体が軽くなったような開放感だ。
ストレス解消という字面は知っていても、それまで本当の意味で理解していなかったのだと、今なら判る。
そう、これは歴としたストレス解消なのだ。
打てば響くような日野の素直な反応を見て、日頃の鬱憤を晴らす。
人の良い笑顔を作らなくていいし、上っ面を浚っただけのな言葉を選ばなくても済む。

サンドバックに選ばれてしまった日野には同情する。
面倒な男に捕まって一方的に憂さ晴らしされているのだから。
しかも周囲からは多分に誤解され、今し方も親衛隊と名乗る女生徒たちから警告(と言う名のいびり)を受けている。

「それは心外だな。────まぁ、面倒な事態になるようなら仲裁に入ろうと思ってたけど」
「既に面倒な事態でしたよ、私にとっては」
「何があったんだ?」
「それが……うーん、どこから説明したらいいのか」
珍しく、日野が言い淀んでいる。
語尾は不明瞭で言葉の大半はごにょごにょと口の中で掻き消えた。
「なんだ、俺に隠し事か? それは大変興味有るな」
「う、うわ」
一歩踏み込んで顔を寄せると、日野は真っ赤になって後退る。
「や、やだな隠し事ってほどじゃ」
「お前は嘘が下手なんだから正直に言ってしまえ」
「うっ」
額をピンと指先で弾く。
「痛いです」と日野が額を手で押さえて上目遣いに睨んできた。
こんなやりとりも日常茶飯事だ。
柚木が日野をからかい、日野の素直な反応を得て柚木が悠然と笑う。

それでも日野が離れていこうとしないのは何故か。疑惑は常に付いて回る。
そして無意識にも答えを都合良く解釈していた。
日野は柚木から離れないばかりか積極的に関わろうとしている節がある。そう思うのは自惚れだろうか。
廊下ですれ違えば笑顔で挨拶を交わし、練習室で会えば互いの練習成果を披露するかのように演奏を聴かせ、柚木が恒常としている登下校の送迎車に乗せて登下校を共にするようになった。面倒ならその全てを拒否したっていいのに、律儀に誘いに応じたりする。

本人に問い質したことはない。そこに踏み入れることを意識的に避けていると気付いたのはつい最近だ。
無意識下に押し込めて蓋をした。見ない振りを続けたまま、問題を先送りにしていた。
二人の間に引かれた一本の線。
境界を明確にするための、戒め。
そこに踏み込んでしまったら戻れなくなる。

────普通科の同じ学年の男子に呼び出されて話を聞いてたんです。そしたら、近衛さんたちが通りかかって、話をしていただけです」
「…………」
予想外の事態に柚木は面食らう。同時に胃が締め付けられるような感覚が襲ってきた。
嫌な予感ばかり脳内をぐるぐると巡る。
「だから、別に柚木先輩は関係ありません」
「……関係、なくないだろ」
「え?」
「彼女たちが口を挟むって事は俺に関係あるってことだろう」
「そ、それは……」
日野の視線は、柚木から逃げるように彷徨う。

これ以上追求してはいけないと理性が囁いた。
保っていた関係を崩壊させる原因となるぞ、と。
しかし、じりじりと身を焦がすような感覚が神経を苛む。
焦燥感とでも言えばいいのか。
何かに追い立てられるように手を緩めない。
「その男子生徒に何を言われたんだ?」
「えーと、その。前の教会での演奏、良かったって。音楽は詳しくないけど感動したって言ってくれて……」
「それでつきあってくれとでも言われたのか」
弾かれたように日野が顔を上げた。
嫌な予感ほど何故こうも的中率が高いのか。
口元が歪みそうになる。眉間に皺が寄ってしまったが、辛うじて感情の発露を最小限に留めた。

胸中に吹き荒れる嵐は怒りにとても近いものだった。
そんな風に感じた自分に戸惑った。
あと少し理性の発動が遅かったなら、無様な姿を晒すところだったのだ。
それほど、一瞬にして感情が発火する心地を味わった。
一つ息を吐く。
平静を装い、喉を慣らして質問を声に乗せた。
今、一番問い質したいこと。
「……お前は何て答えたんだ?」
「い、いえ、全然知らない人だったし、申し訳ないけどって」
答えを聞いて、体中から力が抜ける気がした。
もう一度息を吐く。
額に手を当て、そのまま長い髪をかき上げた。

ふと、再び日野に視線を戻した。
「それで、近衛さんたちは何を?」
「い、いえ、ですから、その」
どうも日野の様子がおかしい。
平静を取り戻し頭脳を働かせて状況を観察してみると、疑問がわき上がる。
件の男子生徒に関して日野はちゃんと説明できていた。
しかし、柚木が目撃した近衛ら三人の音楽科女子生徒たちとの話題に移ると、日野の口は一転して重くなる。

近衛・津川・新見の三名は柚木親衛隊を名乗り熱烈な柚木の信奉者だ。
日野が彼女らと関わる時は十中八九柚木絡みと断言していい。
それなら男子生徒から告白されたという日野と彼女らと何の話があったと言うのか。
柚木に関係ないとは言わせない。

「その男子生徒からの告白話がどうして近衛さんたちの逆鱗に触れたんだろうね?」
「ううう……っ」
態度を軟化させて嫌味に転換してみれば、追い詰められた日野は縮こまる。顔が赤い。
それは柚木が顔を近付けて迫った時の反応と同じものだ。

状況を都合良く解釈しようとしてる。
否定的要素を排除し、仮定の段階にあるにもかかわらず結果を楽観視して気分が高揚する。
糠喜びすまいと自制しようにも、浮ついた心はもう地から離れている。

「ここからは俺の想像だけど」
勿体ぶった態度は虚勢に近い。けれど獲物を追い詰める快感には抗えないのだ。
目前に立ち竦む小動物を捕らえて我が物にするためには。
「こんな事言われたのかな。柚木先輩にまとわりついてるくせに、とか。折角告白されてるのに断るなんて、とか?」
指を立てて数えてみせる。
「それとも、俺とつきあってるから断ったんだろう、とか?」
「し、知りません!」
悲鳴に近い叫び声を上げ、日野はくるっと背を向ける。明るい色の髪がさらさらと跳ねた。
そのまま走って逃げてしまいそうな体勢に、柚木の手は自然と動いていた。
全くの無意識に近い。
けれど確かに望んだ結果でもある。
その両腕を掴んで引き寄せ、日野を後ろから抱きしめた。
がっちりと両肩を押さえ込んで逃げ場を封じる。
「ゆ、柚木せんぱっ」
「やっぱり嘘が下手だね、お前は」
「ち、ちがいます」
「何が違うって言うんだ」
「別に……先輩なんて好きじゃないです」
ぎゅっと柚木の袖口を掴み、腕に頬を寄せて日野はそんな事を言う。
全く、態度と言葉がちぐはぐだ。

「だから言っただろ、お前は嘘が下手だって。それにお前がどんなに抵抗したって無駄だ」
「え?」
「俺はもう自分に都合良く解釈するって決めた。お前は俺のものなんだから」
だからこの手は絶対に離さない。

「ええーそんなぁ」などと日野が抗議の声を上げる。
けれど現在の彼女は至って大人しい。
ちゃんと柚木の腕に収まっている。

「彼女たちに言ってもいいぜ、柚木先輩なんて嫌いだって。でも、一つだけ約束しろ」
「え?」
「こんな人気のない所で、男から告白なんて受けるなよ」
「……はい」
日野が小さく頷く。柚木は満足そうに笑った。互いの顔が見えなくて良かったと内心安堵しながら。
そして殊勝な返答の褒美に、優しい香りのする後頭部にそっと唇を寄せた。


【終わり】

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素直じゃないのはどっちだっていう話

初出:2010/03/18

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