青空のその先

手を伸ばしたら、届きそうな気がする。


考えてみたら、朝からアンラッキー続きだった。
目覚まし時計を止めた先から二度寝して、結局20分遅く叩き起こされた。
兄貴がニヤニヤと笑って「遅れるぞ」なんて忠告してくれるが、だったらさっさと起こしてほしい。大急ぎでパジャマを脱ぎ捨て、制服に着替える。
食卓に着くけれど、ゆっくり味わってもいられない。朝食のパンを大きく千切って口に詰め込むと、当然のように咽せた。牛乳で押し込むけど、しばらく喉がヒリヒリした。
洗面台に駆け込むけど、髪を細かくセットしてる暇も余裕も無い。

その上、玄関で靴を履いていたら、紐が切れた。使い古したスニーカーで、紐が弛んでいたのは知っていた。それが今、この瞬間に切れるなどと、不運以外の何と言えばいいのだろうか。
結局、兄貴のお下がりで靴箱の肥やしになっていた運動靴を引っ張り出す。型が古いと敬遠していたが、背に腹は代えられない。
とはいえ、はき慣れない靴は走るスピードに多大な影響をもたらした。
電車は乗り過ごすし、横断歩道は立て続けに赤信号。
脇目も振らずに走り抜ければ、曲がり角で危うく自転車と正面衝突するところだった。コンマ何秒の差で身を捻った己の反射神経を、手放しで絶賛したい。
だが、状況は自画自賛に浸ることを許してくれない。
立ち寄ったコンビニでは、いつも購入している清涼飲料水が品切れだった。
目の前にカラスのフンが降ってきて、これも咄嗟に避けた。
頭上ではバカにしたようなカラスのわめき声が木霊する。
通りかかった黒猫に手を伸ばしたら、毛を逆立てて威嚇される始末。

結局、遅刻寸前ギリギリで星奏学院に駆け込んだ。
妖精の像を目にしても、汗だくの上に酸欠状態の呼吸困難でしばらく挨拶が出てこなかった。
もう見ることは叶わない彼らだけど、何となく心の中で声をかけていた。それが日課だったが、今朝はもうそれどころではない。
今日ばかりは、神頼みならぬ妖精頼みをしたい心境だったのに。

不運は、その後も続く。
授業が始まってから、当該科目の教科書を忘れていたことに気づいた。
宿題として出されていた問題をすっかり忘れていたら、こんな時に限って黒板に書けと指名された。
落とした消しゴムがロッカーの下にある隙間に入り込み、手が届かずに諦めた。
ついつい授業中に居眠りしていたら、その後にある貴重な休み時間まで潰して眠りこけてしまった。
早弁の機会を逸して腹は盛大な空腹を叫び、教師から「火原の腹は、火原のトランペットよりデカイ音が鳴る」と揶揄されてしまった。



運の悪さは今日に限った話ではない。
遅刻しそうになって門に駆け込むなんて、よくある事象だ。
寝坊だって無いわけじゃない。
高校三年間通っていれば教科書や宿題を忘れることもあるし、居眠りしていたら教師に頭をはたかれることもある。
けれど、今日という日は厄日もいいところだ。仏滅大凶その他諸々災いがまとめて降りかかってきた。
いつだって周囲から元気いっぱいと評される顔から色つやが徐々に削り取られていく。
こんな時は、大好物を目一杯食べるに限る。
意気込んで購買に向かえば、パン争奪戦の渦に飛び込む。
あと少しで手が届く、その一センチ先で横から伸びた手がカツサンド最後の一つをさらってしまった。
愕然と立ち尽くす間にも、人気の総菜パンは消え失せていく。
辛うじて卵とレタスとハムのサンドイッチを手に入れるけれど、カツサンドを逃してしまった衝撃は大きい。

もう、今日は呪われているんじゃないだろうか。

嫌味なくらい青い空を見上げて、重くるしく胸に溜まった息を吐き出す。
教室にいたら更に落ち込みそうで、向かった先は屋上だった。
昼の練習をしてる誰かの音を聞きながら、ぺろりと平らげてしまったサンドイッチのゴミを片付ける。
ここに来る途中で買ったコーヒー牛乳を飲んで、もう一度溜め息をつく。

神様、おれ何か悪いことしましたか?
それともリリに挨拶し損ねたから?いやでも、不運は寝坊から始まってたから、ファータは関係ないか。それ以前の問題として、音楽の妖精に人の運勢まで背負わせるのはどうだろう。

音楽は今もこの学院を暖かく包んでいて、妖精の恩恵を目一杯受けている。
それを知らずとも、ここに居たらよく解るのだ。
防音設備が整っていてもどこからか漏れる音は、柔らかな日差しと爽やかな風に溶け込んで伝わってくる。
ああ、この柔らかな音はヴァイオリン。今弾いている曲はモーツァルトだ。
モーツァルトは好きな作曲家の一人だった。明るい曲がキラキラと光って踊るようで、聞いていてもワクワクする。

そういえば、あの子が弾くモーツァルトはどんな感じだろうかと考えて、胸が少しだけ軋んだ。

「…………会いたいな」
こんな時はとくに思う。あの笑顔を見たい。あの声で呼ばれたら────

「火原先輩?」
そう、この明るい日溜まりのような声と笑顔を。

────え?」
振り向いたら、思い描いたそのままの姿がそこにあった。
普通科のセーラージャケットと白いスカート。長いサラサラの髪が風に遊ばれてそよぐ。
「あ、やっぱり先輩だ! こんにちは、火原先輩!」
幻じゃないと脳味噌が認識するまで誤差が生じた。
現実はそんな火原を置いてきぼりにするように進み、日野香穂子は火原の元へ小走りに近寄ってくる。

「かっ……じゃなかった、ひ、日野ちゃん! ど、どうしたの?」
「えへへ、時間が空いたのでちょっと遊びに来ちゃいました。先輩は?」
ぴょんと軽く飛び跳ねて、火原の隣に並ぶ。
その動作が可愛いな、なんて呑気に思っている場合ではない。
火原がそうしているように鉄柵に寄りかかり、日野は小首を傾げて火原の言葉を待っている。

「ああ、お、おれ? えーと……」
何だか、胸がいっぱいになって言葉がうまく出てこない。
不運続きだったから突然の幸運に喜ぶより先に驚いて、しどろもどろになってる。

今日彼女に会ったら、今日起こった不運の愚痴でも捲し立てて、全部笑い飛ばしてしまいたかった。
なのに実際に会ったら急に気持ちが萎む。

こんな格好悪いおれを見せたらガッカリしちゃうだろうか。
愚痴なんてらしくないし、今日起こった出来事は半ば自業自得でみっともない。
彼女にはもっと元気で格好いい自分を見てほしい。

そう考えたら、いてもたってもいられない居心地の悪さが足先からジワジワとはい上がってくる。

「……なんか、元気ないですね。何かあったんですか?」
「わわっ、べ、別にそんなんじゃ……っ」
顔を覗き込まれて、思わず仰け反った。
けれど相手は手強かった。逃げた分にじり寄って、真剣な眼差しを向ける。
「火原先輩」
心底心配してるんだと、眉間に皺を寄せた上目遣いの顔が訴えてきた。

「あ…………うん、別に大したことじゃないんだ、ホント」
列挙したらくだらないことばかりだ。
「寝坊しちゃったとか、遅刻ギリギリだったとかさ……カッコ悪くて、おれ」
色々省略してしまったのは、せめてもの意地。
「お昼のカツサンドも最後の一個を逃しちゃって、それでちょっとへこみ気味」
それでも、へへっと笑ってみせる。
力の抜けた笑顔だったけど、当初の予想通り何となくすっきりした。
格好悪いけど、嘘をつくのも躊躇われた。
ありのままの自分は、どう見繕ってもこれしかないのだから。


すると彼女は顎に指を当てて何事かを考えるような素振りを見せた。

「そうだ、先輩! 放課後、ヒマですか?」
「え? ああ、うん。何も予定ないけど」
「それじゃあ、一緒に帰りましょう。私の使ってる通学路のコンビニに、カツサンドがあるんですよ!」
「え?」
「学校のカツサンドほどじゃないですけど、けっこう美味しいんです。二人で食べに行きましょう?」

そうしたらきっと元気が出ますよ!
朗らかに、日野香穂子が笑う。

まるで大陽を仰ぎ見るように眩しい笑顔だった。
頭上に広がる青空そのままに、自分を導いてくれる気がした。
自分でも単純だって解ってる。さっきまで空が青くて悔しいくらいだったのに、心持ち一つで世界の色まで変わって見えた。
それもこれも、全部一つの結論に結びつくんだ。

「う、うん! 一緒に行こう!」
「約束ですね、先輩」


彼女が笑うなら、どんな災厄だってきっと乗り越えられる。


【終わり】

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ネタが降ってくるまで時間かかりました。でも書き出したらサクサク進んで、サクサク仕上がりました。火原を書く楽しみを見つけたのかも。

初出:2009/04/02

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