振り向いて
その背中を見る度に、こっちを見てと念じてる
真っ青な空に、白い雲がふわふわ浮いている。
「あっちぃ……」
開襟シャツの襟元を持ち上げてぱたぱた振ってみるけど、じっとりと暑い空気が動くだけでちっとも涼しくならない。
高校三年ともなると夏休みに遊び呆けるわけにも行かず、今日も見慣れた通学路を歩く。
普段よりは少し遅めの登校で、目覚ましに急き立てられることなく余裕たっぷりに朝食をとってきた。
その分太陽は高く昇り、容赦なくぎらぎらと地上を照りつける。
一歩進むごとに汗が噴き出しシャツを濡らす。
いつもより遠く見える校門が、蜃気楼のようにゆらゆら揺れていた。
あとどれくらい歩いたら辿り着くのか。
十分歩いた疲労感ばかりのし掛かるのに、ちっとも近付いた気がしない。
夏は大好きな季節だけど、こうも暑いと気が滅入る。
一体、何本ペットボトルのジュースを消費したら涼しくなるんだろう。
出かけに買った分は既に飲み干してしまった。
校舎内に入れば完全冷暖房完備の天国が待っていると判っていても、このむせ返るような湿気と暑さはどうにかしてほしい。
いっそのこと駅から学校までアーケードの屋根でもつけてガンガンに冷房かけてほしい所だ。
ああでもそうしたら地球に優しくないのかな、電気代も凄いことになるんだろうな、等と頭の中は半ば現実逃避に入り込んでいた。
だからこそ、軽い足音を立てて近付く気配にさっぱり気付かなかったし、ぽんと肩を叩かれて跳ね上がるほど驚いた。
「火原先輩! おはようございます!」
「あ、か、香穂ちゃん!」
一学年下の普通科に通う彼女は、この春から晴れて火原の「彼女」になった。
科が違うから出逢えたことは奇跡に近い。
学院に住まう妖精に見出されたというのだから、カツサンド一年分をリリに捧げたい気分だ。当然、三つ程まとめ買いした中の一つで、残りは全部自分が食べること前提だが。
「今日も暑いですね」
「ほ、ほんとだよ、もう汗びっしょ」
自然と隣に並んで歩き出す。
開口一番天気の話になってしまうのは仕方がない。それだけ暑いのだから。
しかし、火原の体感温度は一気に上昇していて、先程とは明らかに種類の異なる汗がどっと噴き出す。
寄りそうような距離感が妙にくすぐったい。
見下ろせば己の肩先にある彼女の頭と笑顔に、鼓動は高鳴るばかりだ。
白い半袖シャツのセーラーから白い腕が伸びている。
火原と同じくらい日に照らされているのに、肌は透き通るような白さを保っていた。
さすがに暑い暑い言い合っているこの状況下、手を繋ぐわけにはいかない。
はたと我に返って、汗くさくないだろうかとか、髪型おかしくないだろうかとか、そんなことが妙に気になってしまう。
しっかり制汗スプレーをしてきたけど、不安になる。
彼女に少しでも嫌と思われるのが怖かった。
だから、今も必死に口を動かす。話題が尽きてしまうのが怖くて、つまらないと思われるのが辛くて。
テンションを無理に上げていると、自分でもよく判る。
今までは外からの暑さに茹だるような心地だったが、今は体の内側から妙な熱が発生して頭と口を動かしていた。
「え? 普通科って冷房つけてないの? まじで?」
「設備はあるんですけど、楓館は普段はつけられないんです。ガンガン効いてるのって、音楽科と桜館の特別教室くらいですよ~」
眉を寄せて彼女は大きく溜息を吐く。
「うわぁ、それは辛いね。おれ達って、実は恵まれてたのか!」
「もう、三年間通って知らないなんて! ……まぁ、エコとか省エネとか、理由は判るんですけど」
「あははは、音楽科は防音してなきゃだしね」
それなら今すぐ音楽科に転科したらいいのに。口をついて出そうになった希望は、すぐにも叶えられるものではない。
叶えられたとしても、一年後の自分はもうこの学院にはいないのだ。
「でも、夏休み中は練習で音楽科棟に居られるからいいんです」
「そっか。お互い、頑張ろうね!」
「はい!」
隣で彼女が笑う。それがとても嬉しい。
この瞬間が続けばいいのに。そう願っても、彼女は普通科に用があると言って、妖精の像前で別れることになってしまった。
「それじゃ、また後で」
「うん。おれ、メールするから!」
「はい」
手を振って、彼女はくるりと向きを変えると火原に背中を見せた。
明るい色の髪がさらさらと揺れてる。
ああ、行っちゃう。
思わず手を伸ばした。喉元まで彼女を呼ぶ声が出かかって、焦った。
別に呼び止める理由なんてない。
すぐに逢えることは判っているのに、胸のあたりがちくっと痛んだ。
火原にも練習室の予約時間が迫っている。それぞれにやるべき事があって、立ち往生している暇もそうあるわけではない。
なのに、置いて行かれて寂しいなんて。
そんなのわがままだ。小さな子供が駄々をこねる、そのままに。
判っているのに、その場から一歩も動けなかった。
ほんの微かな希望を懐いた。
振り向いて、と願った。
例えば靴を履く時、左足からと決める願掛けやおまじないのような密やかな望み。
少しずつ遠ざかっていく、小さくなっていく姿を目に焼き付けながら、確かに念じていたのだ。
ちょっとだけでいいから。
こんなにも想っていること、気付いてほしいと。
降り注ぐ陽射しが視界を白く染める。
煉瓦化粧を施された歩道がきらきら光っている。
白昼夢でも見ているかのようにゆらゆら揺れる景色のなかで、明るい髪がふわりと踊った。
まるでスローモーションでも見ているかのように、彼女がくるりと回った。
「────っ!」
呆然と立ち尽くす火原を見て驚くように目を丸くした日野香穂子は、しかしすぐに頬を緩めた。
小首を傾げるような仕草と、満面の笑みを浮かべて。
彼女は大きく手を振った。
体の中から沸き上がる、この感情は何だろう。
わーっと大きな声で叫んでしまいたい。
きみが好きなんだ。
何度言っても足りないくらい、好きなんだ。
なかなか伝えられなくてもどかしい。
それでもこんな時、言葉以外のもので繋がっていると実感する。
きみもきっと同じ気持ちでいてくれるって。
思いっきり手を振り返す。
今、自分はどんな顔をしているのか。はっきり自覚できる。
頬の筋肉がやわやわに溶けちゃうんじゃないかと心配になるくらい、思い切り笑っている。
嬉しくて、幸せで。
ほんの少し切ないけど、それも幸せの一つだと思えるのだから、我ながら不思議な心地だった。
今度こそ、普通科棟エントランスへと吸い込まれる彼女を見送る。
私立星奏学院は音楽の妖精に祝福された学校だ。
だから奇跡だって気合いで起こる。
────たぶん。
【終わり】
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そしてリリに「音楽関係ないのだ!」と突っ込まれる。
初出:2009/07/30