聴こえる音、聞こえる声
目を閉じ耳を澄ませ
静寂の胸に波打つ波長をこの手に
校舎にはいつも、音が溢れてる。
人の声、弦楽器・管楽器に鍵盤楽器、打楽器。様々な音階を奏でては、体の芯をじりじりと振るわせる。
音楽に無関係な授業をしている間でも、どこかの教室から微かに音が洩れ、日の当たる時間はいつも必ず何かが鳴ている状態だ。
防音に優れた建物であろうと、耳は勝手に何かの音を拾う。
数式を解くよりも先に指が楽器を求めて疼くなんてことも日常茶飯事で、作曲者の時代背景に思いを馳せると誰かに起こされて授業の終わりに気付く。
聴覚が敏感なのは楽器の鍛錬と共に身に付けたスキルで、自分のそれが特別だとは思わない。子供の頃から楽器に親しんでいれば絶対音感は身に付くものだし、意識せずとも音を求めて耳を峙てるのは癖のようなものだ。
放課後の練習室はまさに音楽の渦で、分厚い扉越しから様々な作曲者の様々な音楽が流れてくる。
明るく跳ね回るような曲から、重厚で深い泥濘に潜っていくような曲まで。音楽は様々な事象や感情を物語り織りなして無数に存在し、演奏者は様々な解釈を得て技巧を凝らし奏でていく。
例えば同じ曲・同じ楽器でも人が異なればまるで違う曲に聞こえるから、不思議だ。
ヴァイオリンは艶やかで高らかな音を奏でる楽器だけれど、「それ」はまるでキラキラと光り瞬くようだと思う。
そうだ、枝をいっぱいに広げた巨木の、無数に宿る緑の葉。それも一色ではない。光に近い明るい緑から海底のような深い緑まで、一枚一枚、個性を持つ。
それらが折り重なって繊細な点描画を描くその隙間から、太陽がキラキラとこぼれ落ちる。耳には清らかな風の音。これも無数の葉が重なり合い奏でる音だ。
大きく枝が撓れば、つられて葉が泳ぐ。
光は飛沫のようにぱらぱらと散らばって降ってくる。
その先には真っ青な空が広がっているのだろう。
ああ、こんな音は彼女しか出せない。
長い廊下にうっすらと、けれど確かに白く輝く道筋が見えた気がした。端から二番目の扉。そこに彼女が居ると、何よりも音が語る。
逸る気持ちを抑えて、一歩一歩を踏みしめて進む。
微かながらに近付いてくる音に耳を澄まし、導かれるようにその練習室の前まで辿り着く。
扉に取り付けられたガラスから覗き込むと、この校舎では珍しい普通科の制服が見えた。
息が止まるような気がした。
その横顔は演奏に没頭して曲調のままに、全神経を音に注ぎ込むように目を瞑る。
ぴんと張った細い背中で、明るい髪が踊る。
大きく伸びやかに動く腕と、繊細に震える指先。
扉一つ隔てた廊下と練習室に明確な差異などないのに、まるで別世界のようだ。
キラキラと光の粒が充満し、彼女を包んでいる。
胸を締め付けられるようで無意識に制服を握り締めた。
体の芯を振るわせる音色。
ずっと聴いていたいと願うのに、胸は動悸と痛みを訴える。
何故と問い掛けても、どこにも答などなかった。
理由さえ分からないまま、音色に翻弄される。
荒波に揉まれる小舟のようだった。
それでも判っていることが一つだけ、ある。
「あ、志水くん!」
「……こんにちは、日野先輩」
目と目が合うと朗らかに笑う、その笑顔が好きだった。
自分の名前を呼ぶその声を、ずっと大切にしたいと思った。
【終わり】
Comment
志水くんの誕生日にあわせてアップしましたが、内容は1後、恋愛未満な感じです。
初出:2007/08/26