水底を泳ぐ魚のように

深い深い青の底、
ゆらゆらと揺らめく光。


そこは深い水の底だった。
降り掛かる水圧と浮力に挟まれ、ゆらゆらと押し流されていく。
深海魚の気持ちとはこういうものだろうか。
重い瞼の向こうに、青い闇が揺れる。

力の抜けた四肢は解放と抑圧の狭間に置き去りにされていた。
水圧に流されるまま、けれど己の意思では指一本動かすことが出来ない。
それでも投げ出した手足は神経の支配を逃れ、皮膚と外界の境界線が滲み混ざり合い、そこから肢体が広がるような感覚だけを脳に送り続けていた。
身体を包む水圧と、解放された肉体。
全ての感覚が麻痺した闇を漂いながら、辛うじて残った聴覚が一つの音を拾った。

それは弦から奏でられる柔らかく力強い波長だ。
ヴァイオリンの、芯の強い艶やかな音。繊細な波が輪となってどこまでも広がる。
それは闇の中を旋回してゆっくりゆっくりと上昇していく。共に水圧の底にいたはずの身体まで持ち上げた。
上へ上へと昇る音と、それに引っ張られるように上体が浮かぶ。
ゆるやかな変化は、けれど確かに状況を変えていく。
頭上に一点の白い染みが浮かんだ。闇はその色を失い、新たな色を加えた。
それは光だ。頭上から照らし出し、全てを白日の下にさらす。
次第に透明度を増す水圧の中を泳いで、そこを目指した。決して肉体の力が戻ったわけでもなく、藻掻くこともできないまま、音だけが見えない力となって身体を包む。

揺らめく波が乱反射してきらきらと光を弾いた。波の波長に合わせるようにヴァイオリンは高く低く歌い続ける。
水圧と泡に紛れた水底では聞こえなかった音が、今は耳鳴りのように反響していた。
どこか懐かしさを覚える音だった。
昔、どこかで聴いたことがあるような気がした。
正確な日時など覚えていないほど遠くの記憶のようで、つい昨日のことのようにも思える。
まるで己の手足のように身近なようで、手が届かないほど遥かなものを仰ぎ見る気分だった。
愛着と憧憬に、胸がいっぱいになる。
どんな演奏家の音をきいてもここまで心が千々に乱れることなどあっただろうか。
完璧な技術をもって弾きこなす修練された音ではないのに、求めずにはいられないのだ。
もっとずっと聴いていたい。
だから、手を伸ばす。もっと音のする方へと、泳いでいく。

頭上にぽっかりと浮いた点は、次第に大きく広がっていた。
同時に投げ掛けられる光は徐々に強く眩しく、目を瞑っていても目蓋越しにその色を焼き付ける。
今までは青い闇だった。何もかもを覆い隠し、水の底に沈めてしまう色。
けれど透明を増す光は白だ。何もかもを暴いて、白日の下にさらす。

手を伸ばして、光を仰ぐ。
目を開けて直視できないほどの光が溢れた。


まず見えたのは、青く広がる空だった。どこかの部屋の天井かと思えるほど、青い色が全面に塗り潰されている。
ここはどこだろうかと疑問を持つ前に、見慣れた模様の床とベンチと、花と緑に溢れたプランターが見えた。
清掃の行き届いたそこは、ちょっとした屋上庭園と言って差し支えない。学校の施設とは思えないほど美しく整えられている。
太陽は空の天辺にあって、今が昼休みであることを指し示す。
非常口横の辛うじて生まれた日陰に寄りかかっていた背中や肩は、長らくその姿勢を保っていた筋力から解放されて軽い痛みを訴える。
首を回すと、普通科女子の制服が見えた。音楽科とは異なるセーラーにヴァイオリンを挟み、伸びやかに弓を操る。長い髪を風に靡かせながら彼女は演奏に没頭していた。

「……日野、先輩……」
「あ、志水くん」

手を止めて、日野香穂子が振り返る。思わず洩れてしまった声は決して呼びかけるためではなく、まして演奏を止めるつもりなど毛頭無かった。けれど彼女は律儀に弓を下ろしてしまう。
少しだけ後悔する。もう少し、その演奏を聴いていたかった。その細い肩から伸びやかに立ち上る音は、空に吸い込まれるようだった。
けれど、にこりと微笑みかける日野の貌を見ていると、音を聴く以上の喜びが沸き上がる。
胸いっぱいに溢れる気持ちを、志水は不思議な心地で感じた。
彼女が自分の名を呼んで笑った。それだけで、こんなにも幸せだと思う。
それはどんな魔法なんだろう。つい先日までまるで無かった感覚なのに、体中充満している。
水底から浮き上がる、あの夢によく似てると思った。

「先輩、続き……弾いて下さい」

心地良さに浮かれた口が更なる悦楽を求めて強請る。
一つ年上の少女は、後輩の懇願に笑顔で頷いた。


【終わり】

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志水の居眠りネタでワンパターンですが、自分なりにアレンジを加えまくってこね回してみました。

初出:2007/09/10

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