胸が痛むその理由を

それは突き刺されるような、
身動きが取れなくなるほどの、
痛み。


無条件に受け入れられていると、どこかで信じていた。
生まれ落ちた子供が父母の愛を疑わないように、与え賜り恵み受ける様々な感情は胸の内に宿るそのままの色形をして交換されていると、根拠もなく思い込んでいた。
自分の外側には他人しか居らず、感情を伝えるには会話が必要だ。
なのに言葉を重ねても行き違いや誤解があれば、思い込みと先入観が目を曇らせ、結局好きと嫌いの感情に揺さぶられる。
そう長く生きたわけでもないが、この16年で少なからず経験していた。
言葉はそう便利でも多機能でもなく、ニュアンスや意味の受け取り方一つとっても両極端の結果が生じてしまう。

それなのに彼女だけは違うと、頭のどこかで区別していたように思う。
彼女一人が他の誰とも違う特別な存在で、友達や家族さえ敵わないほど心を占領している。
会話を交わせば笑って頷いて、それがもっと見たくて側に近付いた。
磁石が吸い寄せられるように、彼女の言葉は自分の中に吸い込まれ、放った自分の言葉は彼女の笑顔を引き出した。

自分は、彼女の側に居たい。
彼女もきっと、側に居たいと望んでくれている。
それは希望的観測でしかなく、実際に確認したわけではない。
何一つ、本当は言葉にしていなかった。

「…………!」
日野香穂子はただ目を見張り、呆然と口を手で覆っている。
隠されてしまった紅い唇は、たった今触れたばかりだ。己の唇で。
一瞬前まで暖かかったそれは、もう冷えてしまった。
じっと注視していると彼女の頬が一気に紅く染まる。見開かれていた目が不意に潤んで揺れた。
そのまま志水の視線から逃れるように俯いてしまった。


何の変哲もない住宅地を抜けて下校する通学路の途中だった。
凍える手を繋いで、いつものように何気ない会話を交わしていた。笑顔があって真面目な顔があって、困った顔もあれば、はにかむような笑みがある。
肩先にそれを眺めているだけでも幸せだった。
しかし、それも長くは続かない。
美しい旋律が余韻を残して終わるように、幕は下ろされる。どんなに素晴らしい演奏であろうと、終演の瞬間は必ず訪れるものだ。
それはまるで、子供が駄々をこねて玩具を強請るような我が侭だと自覚していた。なのに、走り出した気持ちが制御できない。
分かれ道に差し掛かった所で、この手を離したくないと思った。強く、締め付けられるように。
そのまま手を引いて顔を傾けて、掠めるような触れるだけのキスをした。

離したくない。
ずっと側に居たい。
頭の中を埋め尽くす想いの、1%さえ言葉にならなかった。

後悔が苦く胸を浸食した。
何もしなければよかったのだろうか。そうしたら、彼女はこんな顔をしなかった?
それでもこの想いを形にしたらこんな行動しかなかったと、言い訳じみた思考が過ぎる。

同じ想いを抱いていたと思っていたのは、自惚れなのだろうか?

けれど、繋いだままの片手は離れていない。肩を並べて歩いていた時もキスの時も繋がっていた、彼女の右手と自分の左手。
細くて小さな手だった。あまり力を入れすぎると壊れてしまいそうだと錯覚するほどに。
細心の注意を払って少しだけ力を入れると、同じように握り替えしてきた。合わさった掌で熱を分け合い、伝えている。

それでも、別れの瞬間は来てしまう。
手を離して挨拶を交わしたらそのまま志水は真っ直ぐに進んで最寄り駅を目指し、日野は左折して自宅を目指す。
昨日まで繰り返してきた些末な日常の一部だった。
なのに二人はその分岐点に立ち竦んだまま動かない。

離れたくないと、想ってくれたのだろうか。
今、自分がそう想ったように、彼女も。
ずっとこのまま。

それを確かめる言葉が、今の志水には見付けられずにいた。


【終わり】

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志水→←日野の片想い。

初出:2008/01/12

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