隣にいるのに
青いあおい空、眩しい風が二人を追い越して
ガラスの自動ドアを二つほどくぐり抜けると、むせ返るような湿気と熱気が体にまとわりついてきた。
頭上から照りつける陽射しが眩しくて目を開けていられない。
額に手をかざしてみるけれど、空の青ささえ確認できないほど世界がぐるぐると回る。
ふいに足元の影が広がった。
「暑っついねぇ」
すぐ隣からかかった柔らかな声にどきりと心臓が高鳴る。
「香穂先輩」
「暑いから日傘、持ってきたんだけど……邪魔だったかな」
「いいえ、少し涼しくなりました」
「そっか、良かった」
レースの日傘から洩れる光と影が、優しい笑顔の上で薄い模様を描く。
思いがけず縮まった距離に、上半身から汗が噴きあがるような心地に陥った。
知らず、身を固くする。
本当はちっとも涼しくなっていない。
それどころか、体内温度が二・三度上昇したような気分だった。
日傘は小さくて、二人並んでも太陽から逃れることはできない。
右肩は陽光の餌食で、じりじりと焼かれるような心地だ。
己の左肩すぐ近くで、日野香穂子の長い髪が揺れる。
近寄りすぎてはいけない気がして、歩一歩に緊張を強いられた。
「お昼、どうしようか。適当にカフェか、ファーストフードにする?」
ベーグルサンドが美味しい店と、行きがけに割引券を貰ったイタリアンランチ、フレッシュなレタスとトマトが売りのハンバーガー店に、安さが売りのファミリーレストラン、一皿200円均一の回転寿司と日野が指折り数えていく。
背の低い闊葉樹が並ぶ歩道を抜けて、食品店の並ぶアーケードに出た。
日野が日傘を畳んで、志水はほっとしたように息をついた。
「志水くんはどこがいい?」
「どこでもいいですよ。先輩の食べたいもので」
「それじゃあ、ベーグルサンドにしようかな。具沢山でおいしそう!」
昼はカフェ、夜はアイリッシュバーになるという店は、煉瓦化粧と木の梁が剥き出しになった英国情緒溢れる内装だった。
色あせた写真やタペストリーが雰囲気を醸し出しているが、店の奥にはいきなり近未来的な薄型テレビモニターがこれ見よがしに設置されていて、どこかちぐはぐな印象を与える。
先ほどから録画でサッカーの放送を流しているところを見ると、スポーツバーの役割も兼ねているのだろう。
「私は、ハムとバジル入り卵とチーズのサンドと、三種のベリーサンドにしてみたよ。志水くんは?」
「僕はスモークチキンとパプリカとレタスのサンドと、クリームチーズとポテトサラダのサンドにしてみました」
ベーグルサンドの皿とカフェオレボールが乗ったトレイを持って、空いている席を探す。
昼時の店はどこも人で溢れ、食事と歓談に時間を費やしている。
目に付くのは男女の二人連ればかりで、内緒話でもするように顔を寄せあって笑う。
奥に二人分の空席をみつけ、志水と日野はそこに落ち着いた。
「志水くんが助言してくれて、ほんと助かったよ。夏休みの自由課題でレポートって言われても、ピンとこなくて。天文なんて、皆既日食のニュースがなかったら、興味持ってなかったし」
「面白そうで羨ましいです。音楽科にはそういうの無いですから」
「実技中心だもんね。普通科はレポート中心だよ」
うんざりしたように、日野がベーグルに噛みつく。
とたんに「美味しい!」と目を輝かせた。
「志水くんのも美味しそうだね! どう?」
「はい、とても」
乗り出すと頭がふれてしまいそうなほど狭い。
今日はずっとこんな調子だ。
制服で居る時よりずっと日野を身近に感じて、志水は動けなくなる。
「でも、そのレポートのおかげでプラネタリウムをバッチリ鑑賞できたんだから、一石二鳥かも。志水くん、つきあってくれてありがとね」
「いいえ。僕も楽しかったですから……」
子供のような満面の笑みを浮かべ、日野が再びベーグルにかぶりつく。
夏休みの宿題が片付きそうで嬉しいとか、ベーグルサンドが美味しいとか。
些細なことでもその笑顔に直結するなら、苦労なんて厭わない。
今、目の前で楽しそうな様子でいることが、何よりも嬉しい。
胸がいっぱいで、ベーグルはちっとも喉を通らなかった。
もちもちした食感や、挟まれた具がどれだけ多彩で美味であろうと、味を感じることができない。
そんなことよりも、手狭なテーブルと席のせいで距離が近いとか、結構豪快に口を開けて食べる様子だとか、膝が触れてしまいそうとかそんな事が気になってしまう。
ふと、赤い唇のそばにパン屑が付いているのが見えた。
「先輩、口元」
「え?」
無意識に手を伸ばす。差ほどの動作を必要としなくても届いてしまった。
人差し指で顎に触れ、親指でパン屑を拭い、艶やかでぷっくりと膨らんだ唇をかすめた。
パン屑はこぼれて皿に落ちる。
「し、志水く……!」
「あ……」
唇の色と同じくらい顔全体を真っ赤に染めた日野と目が合って、初めて志水は己の行動を認識した。
「す、すみません……」
「う、ううん、いいの! えと、その……ありがと」
にこりと笑ったのも束の間、日野の目が泳ぐ。
細く整えられた眉毛がハの字に下がっていた。
それから二人は黙ってベーグルを消費した。
半ば、カフェオレで流し込むようにして飲み込む。
砂糖を入れ忘れていたと、空になった後で気づいた。
店を出て息をついた。
再び蒸し暑い空間に放り出されたというのに、冷えた店内に居るよりも自由に思えた。
会話は、あの時を境に蜃気楼のように消え失せる。
あの時。
ぎゅっと右手を握りしめた。
まだ指に感触が残っているような気がする。赤くて、柔らかで、暖かな。
唇に触れた瞬間、体中にビリっと電気が走ったような気がした。
触れてみたいなんて、前からずっと思っていた。
けれど同時に罪深い気がして躊躇い、閉じこめていた欲求だった。
日野の、驚いた顔が忘れられない。
まん丸に見開かれた瞳は、すぐに潤んで揺れた。
真っ赤に染まった後は俯いて、長いまつげがその表情を隠してしまった。
そんなはずは無いのに、彼女の視線はまるで志水の罪を暴くようだった。
後ろめたさを糾弾されたような心地だ。
触れたいと思う、その気持ちの裏側を。
今日、プラネタリウムに誘ったのも、その前に天文のレポートを出してみたらと水を向けたのも、全部下心が無いとは言い切れない。
学内コンクールをきっかけに出会った二人は、言葉を重ねて近づいた。
側に居ると、相手の色んな面が見えてくる。
それらを好ましいと思う気持ちが増えていくのに、時間はかからなかった。
もっと知りたいと欲し、側に居たいと願う。
その距離を維持するためには、音楽だけでは足りなかった。
学年も違うし、夏休みともなれば、逢うための口実が必要だった。
宿題の手伝いなんて一番オーソドックスな手段さえ利用する。
そうしてここまで来たのに。
白い雲がゆっくりと青い空を這う。地上には生ぬるい風が流れ、木立がそよぐ。
辺りから蝉の鳴き声がステレオで響きわたり、耳をつんざく。
アーケードを抜けて、ケヤキ並木の歩道へと出る。
日野が日傘をさした。沈黙は未だ重くのしかかる。
なにも言わずに歩き続けて、やがて今日が終わってしまうのだろうか。
どこに行くとは言えなかった。
言ったら、「じゃあここで」と切り出されて、別れが来てしまう。かと言って会話の糸口も見つけられずにいた。
何でこんな苦しい思いをしてまで、ここに居るのだろう。
楽しいことを期待して来たはずなのに、今は苦い気持ちでいっぱいだ。
どうして笑っているだけじゃいられないのだろう。
なによりも笑顔が見たかっただけなのに。
どうしてこんなに。
「あの、ね? 志水くん」
隣を歩いていた日野が、思い切ったように顔を上げた。
「この後、志水くんは何か予定がある?」
「え?」
「私、この後図書館に行って、レポートまとめようと思うんだけど、志水くんもどうかなって……。その、何か予定あるなら、仕方ないんだけど!」
しどろもどろになりながら、日野が手を振る。
胸いっぱいに溢れた気持ちはまるで暖かいお湯のようで、その湯気が喉をふさぐ。
「僕、予定なんて何もないんです。だから、先輩がよければ、一緒に」
絞り出した声は掠れていた。それでも伝えたい言葉はなんとか形になっていたと思う。
日野の顔から緊張がほどけ、ふにゃっと笑みになる。
それを見て、志水の全身から力が抜けた。
「それじゃあ、図書館に行こう!」
空は青いはずなのに、強い日差しを受けて白く焦げる。
蝉の声がじりじりと焼き付く。
世界のすべてが眩しくて、目を開けられない。
そうして猛威を振るった夏もあと少しで終わる。
小さな日傘の下、汗を拭いながら志水はそれでも隣との距離を縮められずにいた。
私服の彼女をあと何日見ていられるだろう。
ひらひらと蝶のようだと思った。
レースやリボンなどがついたキャミソールにジーンズ、裸足にミュールという格好は、昨今の女性に珍しいものではない。
けれど、日野香穂子がしているというだけで、志水には特別に思える。
眩しくて、直視できない。
焼き付けるような陽光の眩しさのせいにしようと、志水は顔を上げた。
日傘の向こうの青空は、澄んだ水色をしていた。
【終わり】
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恋愛EDにならなかったコルダ1後。夏休みの二人、志水→←日野の片想い同士。
初出:2009/09/30