君は何も知らない

こんなにも強く焦がれるほどの想いを何一つ


まだそこに夏が残っているかのように、通学路は強い日差しに晒された。
朝からセミの鳴き声も聞こえて、夏休み気分も抜けきらない。
昨晩遅くまで譜読みに耽っていた日野香穂子は、欠伸を噛み殺す。
普通科在籍ながら学内コンクールで優勝してから随分と日が経つ。
遥か遠く昔のことのようで、周囲から向けられる好奇の目は減っていた。
人の噂も七十五日と言うが本当だなぁと、妙に実感する。

日野は日常を取り戻し、学内に主立ったイベント事もないまま二学期を迎えていた。
とは言え、ヴァイオリンを放り出すなど言語道断で、音楽科生徒に混じって練習室に足を運ぶことも日常に組み込まれてしまった。
自分で選んだことだから、それに否はない。
周囲の生徒も慣れたもので、取り立てて騒がれることもなくなった。

今日も、普通科のセーラーをなびかせてヴァイオリンケース片手に颯爽と学院を目指す。
普通科音楽科それぞれ男女別に計四種類の制服が、一つの門を目指して歩を進める。
見知った顔があれば挨拶を交わし、あちこちで談笑が響く。

肩からずり落ちた鞄を背負い直し、日野は視界に入ってきた校門を眺めた。
学内全体的が西洋風の趣に統一されているが、最たる装飾の施された門へと皆が吸い寄せられる。
ぐるりと周囲を緑で囲まれ学校設備も学業環境も抜群だ。そして近隣の他校生から最も羨望の眼差しを受ける対象が制服だったりする。
中学三年の三学期に星奏学院合格の知らせを受け取った時、周囲のクラスメートは真っ先に制服がいいと誉め、羨ましがっていた。ほんの一年と半年ほど前の出来事なのにやけに懐かしく思い出される。

ふと見知った背中を見つけて、日野の歩調が速まった。
コンクールで出会った奏者は皆、技を競ったライバルであり友人だ。
中でも技術面中心に多く言葉を交わしたのが一学年下の志水桂一だった。
個性的な面子それぞれに親交をもったが、志水と過ごした時間は他の誰と比べものにならないほど強く脳裏に刻まれていた。
それは決して長く濃く親密な時間だったわけではない。
客観的に見ても顔見知りから友人へ格上げされた程度だろう。
それでも、その限られた日々は大切なものだった。
コンクールを終えた今でもこうして会って話をしたいと思う。

小走りと言うには遅いが、それまでの漫然とした足運びより忙しない。この距離を埋めたくて、気持ちは逸る。
高校一年にしては少々上背の低い、けれど真っ直ぐな背中を観察する。
ふわふわと柔らかそうな髪が、寝癖のままなのかぴょこぴょこと跳ねていた。
思わず吹き出しそうになって、片手で口元を押さえる。

ふと、日野より先に志水に近づく人影があった。
まだ声をかけるには遠く、日野の足が速度を失う。
二人の女子生徒は音楽科の制服をまとい、リボンの色から三年生だと解る。
志水が夢から覚めたような顔をして二人を見た。
挨拶だろう言葉を志水が発する間に、二人は畳み掛けるように言を継ぐ。
熱心に話しかける女生徒から目線を外し、志水は考え込むように顎を摘んだ。

日野は足を止め、遠く三つの人影を見つめる。
入り込む隙間が見あたらなくて、ぎゅっと胸が詰まったような感覚に狼狽えた。

これではまるで。
志水くんはきっと、単なる先輩と後輩の関係だと思っているのに。
私ばかり、こんな。
一方的に。

頭を振って、足を前に一歩踏み出す。
挨拶でもしようと思ったが、それは止めておこう。
話の邪魔はできないし、今は顔を合わせてもきっと何でもないフリなんて出来ない。

そう思って、人混みに紛れてしまおうと歩きだす。
しかし、最後に一度でも志水の姿を見ておこうと目線を上げ、澄み渡った真っ直ぐな瞳と出くわしてしまった。
こちらを振り返った志水と、視線が合う。
どこまでも透き通る水のような目が、にこりと微笑む。

ずきんと音を立てて心臓が軋んだ。
とっさに微笑み返すこともできず、呆然と立ち尽くす。
その間に志水が両脇を挟むように立っていた上級生を振り返った。
風に乗って三人の声が日野の耳に届く。

「すみません、先輩方。お誘いはとても光栄ですが、いい返事ができそうにありません。どうか、他の方を誘ってください」
「え、そんな」
「志水くんがいいのに」
「申し訳ないのですが、他にやってみたいことがあるので」
「そう、残念ね」
「すみません」
「いいえ、私たちも無理言ってごめんなさいね」
「それじゃ……」
「はい」

手を振って、二人の女生徒が立ち去った。
遠ざかる上級生とこちらへ向かってくる一年生を、日野は言葉を忘れたかのようにぼんやり見つめる。
とっさに逃げ出したいと思った。
けれど逃げ場なんてどこにもない。校門への道は一直線で、門と日野の間には志水がいる。
道幅は適度に広いが、すでに目が合ってるのだから無視するわけにはいかない。
不審に思われるだろうし、誤解されてしまう。
何でそんなことを考えたのか、自分の脳味噌が信じられなくて日野は軽く混乱する。
そうこうしている間に、志水が目の前までやってきた。

「日野先輩、おはようございます」
真っ直ぐ日野を見つめ、小首を傾げて微笑む。
なんて綺麗な微笑なのだろう。
ふわふわの髪に朝陽がこぼれ落ちて金色に輝くのを、息を詰めて見つめる。

「……っ!」
おはようと声をかけられたのに、返事のタイミングを失って日野は慌てた。
息を吸い込むのに、声が喉でつっかえる。
全身からどっと汗が噴き出し、頬が火照って視線が泳ぐ。舌が縺れて、目の前が滲む。
なんて醜態だろう。
最後に残った勇気を振り絞る。
生唾を飲み込んで、もう一度。

「お、おはよっ、志水くん」
少し嗄れた声になったけれど、辛うじて挨拶の形になった。
遅くなった返事にも志水は気にした風もなく微笑む。
体中から力が抜ける気がした。
すると凝り固まっていた舌も滑らかさを取り戻す。

────今日も暑いね」
「はい、セミもまだ鳴いてますね」
「夏休みと勘違いしちゃいそう。朝起きるのが大変だったよ」
「正直、僕もです」
ようやく、会話らしい会話と笑顔をつくれるようになった。
心の底から安堵する。
志水に気づかれないようにほっと息をついた。

肩を並べて校門を潜り、校舎を目指す。
少ない距離に再び焦りが首を擡げるが、それはもう仕方ない。
また休み時間や放課後に会えないだろうかと、仄かな期待と願いを胸に顔をあげた。
志水と視線が合う。

「……さっき、上級生から合奏してみないかと誘われたんです」
志水が切り出した言葉に、日野の胸がずきりと痛んだ。
はっきりとそれは痛みであり、自覚を回避していた気持ちでもあった。
ぼんやりと形をなさなかった想いを、こんな形で突きつけられるなんて恋とはなんと残酷なんだろうか。

「そ、そうなんだ」
「はい。でも、それは断りました。興味はあります。でも、それはあの先輩たちではなくて……」
「え?」
志水の視線が力無く泳いだ。
少しうつむき加減に伏せられ、長いまつげが頬に影を落とした。
「誰と音を合わせてみたいかと、想像してみたんです。そしたら……」
言葉を選びながら慎重に話す志水の語尾が、迷った末に掻き消える。
何事かを逡巡するように、数秒間口を閉じた。
思い切ったように顔を上げ、日野と目線を合わせる。

「日野先輩。放課後、空いてますか?」
「え? う、うん、空いてるよ」
唐突に質問され、日野は慌てて頷いた。
志水のペースはゆっくり歩いているかと思えば突然方向を変えるかのように予想がつかない。
「僕、練習室を予約しているんです。一緒に音を合わせませんか?」
「え?」
「あ、でもその前に曲を決めないと。……そうだ、昼休みに一緒に弾く曲を決めませんか。僕、先輩と弾いてみたい曲がたくさんあるんです」

きっと日野の心臓が壊れてしまいそうになっても気づかないだろう。
志水はとても楽しそうに微笑んで、特大の爆弾を放り込む。
そういえば最初からそうだった、と日野は春先のコンクールを思い出した。
誤解を恐れない発言は、あの頃からだった。

「僕、先輩の音が好きです」
真っ直ぐに目を見つめて、堂々と直球を言い放つ。
受け取る側がどんなに恥ずかしくても、彼は綺麗に笑うだけなのだ。
ああ、完敗だ。
胸の内で白旗を上げて、日野は笑顔をつくる。
「それじゃ、昼休み、図書室で会おうよ」
「はい、解りました」

どんな些細な約束だって構わない。
君とつながっていられるのなら。

きっと君は何も知らない。
でもいいの。

恋も音楽も命がけ。
諦めるなんてできないから、がむしゃらに走るだけ。
その先に君がいたらきっと幸せ。


【終わり】

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ベーシックな水日で日野さん片思いの回。

初出:2010/03/18

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