追い掛けるのは好きじゃない

こんな苦しい想いをするくらいならいっそ無かったことにしてしまえばいいのに


まるで何かに突き刺されたように、胸の中央がずきりと痛んだ。
心臓ではない。二つある肺の真ん中あたりが、確かに酷く痛かった。
何の冗談かと自分を疑いたくなる。胸が痛む、と言うけれどそれは単なる慣用句だと、何かの比喩で実際に痛いわけではないと思っていた。
病気でもないのに痛むなどと、錯覚以外の何があろうか。それも感情に左右されただけで、現実に有り得ないと。
けれど、実際に体は痛みを感じている。
刀か剣か何かに刺された気分、とでも言うべきだろうか。それが、胸の中央から体全体に広がる。
焦りのようなものが喉を這い上がってきて、吐き気を抑えるように力をこめてそれを飲み込んだ。


学校施設にしては随分と立派な講堂の客席で、衛藤は割れんばかりの拍手を遠く聴いていた。自らも手を打ちながら、心ここに在らずと両手が機械的に動くだけだ。
視線は一点に集中している。知り合いが舞台に立ってスポットライトを浴びているのだから、自然なことだろう。
けれどそれがいつもの自分では無いことを、自覚した。嫌でも気付かされた。
アンサンブル形式で行われるコンサートの場合、全体を俯瞰するように聴くのが常だった。
それぞれの楽器を聞き分けて上手いとか下手だとかを評するけれど、一つの楽器の音色をここまで集中して聴くなんて滅多にない。
実際、レベルの高い演奏ばかりだ。衛藤の知り合いである日野香穂子を除いて、よく鍛錬された音をしていた。
その楽器に長く親しんだ者が修練を積み重ね、蓄積してきた深い響き。
日野にはそれが欠けている。出逢った時に奏でていた音で、それはすぐに判った。
肩肘張って力んだヴィヴラートなど、聞けたレベルではない。
星奏なんてその程度だと判断した。小さな誤解は後ほど解けるが、やはり衛藤が理想とする音とはかけ離れている。
彼女が取り憑かれたように練習するのは、少しでもその差を埋めようとしているのだろう。それは理解できるし、尊重もする。
だからって身内贔屓なんて以ての外だ。

今の自分は、その未成熟な音に執着していた。
目が、耳が追いかけるのは、彼女ばかり。視覚も聴覚も感覚全てが埋め尽くされる。

知り合いだから。週末によく顔を合わせて練習に付き合って、そのついでに遊んで。
それが楽しいと思える相手だったから。
――――違う。
それだけじゃ、こんなにも気になったりしない。

敢えて言うのなら、よちよち歩きを始めた赤ん坊を見るような感覚だろうか。
危なっかしくて目が離せない。
どこかで躓くんじゃないかと、気が気でない。

それもあるが、だからと言ってここまで惹き付けられたのは初めてだ。
目を逸らしたくても耳を塞ぎたくても、何もできない。
視線は常に彼女を追いかける。
気付けば放心するように聴き入っている。

確かに、少しずつでも技術は向上していた。アンサンブルの完成度からしても問題はない。
実際、良いコンサートだと思う。それは、前回の創立祭でも感じたことだ。
けれど、それだけじゃない。
バイオリンをこんなに楽しそうに歌わせている音を、他に知らない。

彼女は、ただ音楽が楽しくて舞台に立っている。
バイオリンを弾くことが楽しくて、他の楽器と合わせることが楽しくてたまらない。そんな演奏と表情だった。
演奏を追えて、観客に向かって一礼する。アンサンブルのメンバーと握手を交わす。
その度に零れる笑顔は、眩しいほど輝いて見えた。


客席を渦巻く熱狂とその余韻に背を向けて、楽屋のある廊下へと踏み込んだ。
年上のくせにころころと子供のように表情が変わる彼女をからかって、ついでにさっきの演奏の感想を付け加えて、全て笑い飛ばしてしまおうと思っていた。

前回の創立祭でもそうしていたから。
そして次の練習の約束でも取り付けよう。彼女と会うのは、わりと楽しいから。
他意はない。
深い意味なんてないし、彼女だけが特別なわけじゃない。

決して嫌いじゃない。ただ、それだけ。

言い訳を用意し、予防線を張って近付いたはずだった。
何事も面白ければそれでいいと思っていた。

だが、実際に彼女と会って言葉を交わし、挙げ句逃げ出すように講堂を出て来た。
校門が見えて、ようやく一息吐く。
背後の校舎からはワルツの軽妙な三拍子が微かに聞こえてくる。
顔が熱くなって、誰が見てるわけでもないのにごしごしと手の甲で頬を拭った。

ウィンナ・ワルツなんて、無縁のものだ。少なくとも今日までは、シュトラウス・ファミリーに代表される幾つかの楽曲を見知っているだけだった。どれも華やかだがコンクールには使わない、その程度の。
ワルツにしたって精々、ウィーンフィルのニューイヤーコンサートのお約束くらいの認識だ。ヨーロッパ、特にウィーンで舞踏会は常識だが、日本人には縁遠い。
この学校ではそれを後夜祭として行うという。流石、音楽科と普通科併用の面白い学校だ。普通じゃない。
そして彼女もワルツを踊るというから、からかい半分で申し出たのだ。

手に触れたのも初めてなら、彼女の体温をこんなにも近く感じたことだって初めてだ。
こんなに接近するものだとは知らなかった。
彼女がこんなに細くて小さくて、優しい香りに包まれた女だとは、知らなかった。
片手を軽く握りあい、もう片方は相手の背中に回る。その柔らかな桜色のドレスは背中が開いていて、うっかり素肌に触れそうになって、内心焦った。
かと言って触れないでいるのも手の置き所がない。
結局、ほっそりとした腰の少し上に添えられる。それだってかなり、色々と際どい感じだ。
言われた通りに動くけど、どこかぎこちない。
リードは全て男に委ねられ、女はそれに身を任せると言う。
その関係性は、いらない妄想まで掻き立てられて困った。
自らの顎のすぐ下に彼女の顔があり、あと少しでも近付いたらと考えると頭が真っ白になった。

日野香穂子は、こんなに綺麗な女だっただろうか。
二つも年上とは思えないほど子供っぽくてがむしゃらで、確かに可愛いと思ったけど。
こんな、思考の何もかもを塗り潰してしまうほど、その存在を感じたことはなかった。
別に、女に対して免疫がないわけじゃない。アメリカに居たときだって、ここ日本でだって好意を持って近寄ってくる女はそれなりにいた。興味があれば付き合いもした。
長続きがしなかったのは、つまらなくなったからだ。
面倒ごとは嫌いだし、日々の生活の中で何よりもヴァイオリンが一番だった。それを理解しない女なんて、どんなに見目がキレイでも願い下げだ。
周囲は冷たいだの淡泊だのと好きなように評する。
違う、単に合理的なだけだ。
理屈と自らの欲求を優先しただけのこと。

なのに、今は感情の全てが日野に向かっている。
全神経で彼女を感じている。
それが信じられなかった。


結果、訳の分からない妄言と、脱兎の如き逃走ときたもんだ。

自分がこんなにも愚かに思えたのは初めてだ。
馬鹿じゃないのか。
妙な熱に浮かれて、何を口走ってんだか。

外の冷たい空気を吸って、幾分冷静さを取り戻してきた。
講堂は熱気が渦巻いていたから、それに当てられたのだ。そうに違いない。然もなければ、あんな言動は有り得ない。
今度は今までの出来事が一気に溢れてくる。思い出したくもないのに、勝手に脳味噌がぐるぐると映像を垂れ流す。

今頃、彼女は別の男とワルツを踊っているのだろうか。
あの距離で見つめ合って、ステップを踏んで。
彼女の控えめだけど芳しい香りと、少し高い体温を感じて。
瀟洒な校舎を見上げて、また馬鹿な妄想をしていると自らを嘲笑おうとした。
失敗したのは、その想像が思ったよりずっと自分にダメージを与えたことだった。

握っていた手を開くと、少し汗ばんでいた。

あんな演奏を聴くんじゃなかった。
さっきからずっと頭の中で鳴り響いている。
ワルツなんて踊らなければよかった。
腕の中の彼女を知って、その香りを体温を感じて、どうしようもなくなる。

重い鉄の塊でも飲み込んで胃の底に沈めてしまったかのような気分の悪さが拭えず、顔を覆った。何度かごしごしと擦って、その両手を頭の後ろへと追いやる。
見上げた空は暗く、幾つかの星が小さく瞬いた。


【終わり】

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文化祭後の衛藤イベント。ここで完全に落ちました。衛藤、可愛すぎる! ってんで、勝手に自己補完。

初出:2009/04/03

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