それからの君
辿り着いてしまえば焦燥も逡巡も波に浚われて
立ち振る舞いや言動を観察していれば、その人間がどんな種類に属するのか大概のことは判る。
差詰め日野香穂子の場合はお人好しのお節介、が妥当なところだろう。
休日の街中にヴァイオリンを抱えて出てくるあたり、相当の練習好きだ。
確かに楽器の演奏に鍛錬は付き物だが、彼女の場合は酔狂に近い。
今日も片手にヴァイオリンケースを抱えてやってきた。
特にコンサートがあるわけではないが、気に入った曲の楽譜を買っては端から制覇していく作戦らしい。
効率的かつ合理的な手段だ。上手くなるには一にも二にも練習なわけだが、目標がなければモチベーションは持続しない。
明確な目標────コンクールやコンサートが無いのなら、好きな楽譜をやり込むのも一つの方法だ。
聞けば独学で学んだというし、彼女はそのスタイルがよく似合っていると思う。
コンクールで勝利を目指すような完璧さではなく、通りかかった他人がふと足を止めるような耳馴染みのある曲を楽しげに弾くのだ。
それを一番近くで見ている。
自分は主に技術指導の立場で、ケアレスミスを指摘しつつ自由に弾かせる。
すると香穂子は、とても彼女らしい解釈で音を作り上げていく。
その過程をじっくり鑑賞する。一番最初に。
衛藤桐也だけが座る、ここは特等席なのだ。
「あ、この曲知ってる! CMで流れてた」
「うんうん、なんかやっぱ生で聴くといいなぁ」
「香穂子ちゃんが弾くと、楽しそうだよね」
「そうそう、いい顔して弾いてるよ」
だというのに、このギャラリーは何だ。桐也の眉間に皺が寄った。
高校生サーファー仲間が、香穂子の周囲を取り囲む。
冬休みという季節柄ゆえに、暇を持て余しているのだろう。娯楽なら他にいくらでもあるというのに、香穂子がヴァイオリンを弾くとなると、約束したわけでもないのに嗅ぎ付けてやってくる。
桐也の機嫌が急降下していくのも、当然折り込み済みだろう。
「ほら、桐也」
「香穂子ちゃん良かったって、誉めないの?」
からかうような目線が鬱陶しい。非常にこの上なく。
年下と知られてからというもの、彼らの態度は露骨に変化した。
隠していたつもりはないが、こういう展開はおおよそ予見できていたのだ。
年下とか年上とか、そんな基準で物事を計ってほしくない。
ましてやそれが人間関係に関わる事柄なら尚更。
「……ミスがいくつかあったから、まだまだ誉められないね」
ツンと顔を背けると、彼らはやれやれと溜息をついた。
「これだよ」
「相変わらず、きっついね~。そんなんじゃ嫌われるぞ」
「もうちょっと優しくっつーかさぁ」
「はぁ? 何それ」
口々に浴びせかけられる雑言は聞き捨てならない類のものが含まれている。桐也の目がつり上がった。
ヴァイオリンに関する批評なら甘んじて受ける。それがどんなに的外れであろうと、音とは常に主観的で情緒的なものも含まれるからだ。技術に関しては言うに及ばず。
しかし、人となりについてあれこれ言われるのは心外だ。
まして香穂子に関する事項は、桐也にとって最大のタブーと言える。
険悪になりかけた空気を解いたのは香穂子だった。
仲裁するように分け入って、にっこり微笑む。
「あの、私なら大丈夫ですよ! ちゃんと悪い所を指摘して貰えるのは、嬉しいんです」
「香穂子ちゃん、優しいなぁ」
「ダメだよ、桐也を甘やかしちゃ」
「そうそう、付き合い初めが肝心なんだしさ」
周囲は人の気持ちなんぞ慮ることなく好き勝手吹聴する。
上っ面を舐めたくらいで何を知ったような口を抜かすか、と桐也の腸は煮えくりかえっていた。
いっそ彼女の耳を塞ぐか、それとも本格的に周りを追い払うか。
桐也はぐっと拳を握り締める。
睨み付ける眼光に洒落にならない色を察知し、香穂子の周囲を取り囲んでいた男たちは一斉に数歩下がった。
「あ、俺、携帯の新機種チェックに行こうと思ってたんだ」
「んじゃ、そろそろ行くか」
「残念だなぁ、香穂子ちゃんのヴァイオリンもっと聞きたかったんだけどなぁ」
聞いてもいない予定を並べ立て、白々しい態度で桐也から目を逸らす。
腕を組んで殺気を振りまいてる様ではとりつく島もないと踏んだのだろう。
未練がましくも香穂子に向かって「じゃあね香穂子ちゃん」と手を振り、そそくさと逃げ出した。
「あれ? もう帰っちゃうんだ」
頭の上に疑問符を貼り付けた香穂子は、呑気に手を振り返す。
桐也がその手を掴んで引き寄せた。
「衛藤くん?」
「あのさぁ……」
「ん? なぁに?」
俺たちって付き合ってるんじゃないの、と喉元まで出かかったのは詰るような言葉ばかりだった。
なんで俺の前で、他の男たちに優しい言葉をかけられて笑ったりするの、とか。
彼女が悪いわけじゃない。それは判っている。
追い払えなんて言わないけど。もっと俺を構ってよ、俺だけ見ててよ、なんて。
正気とは思えない言葉が、物わかりの良さを偽った体裁をボロボロと剥がして溢れてくる。
理性とは別の場所で子供が駄々をこねるような感情が吹き上がっては、内蔵を焼くのだ。
実年齢よりも上に見られることに、否はない。むしろ、喜ばしいとさえ思っていた。
アメリカはともかく、日本には儒教的思想に基づく年功序列って奴が意識・無意識に関わらず存在して、桐也を中学三年生という枠に当て嵌めて扱おうとする。人間性や能力の如何に寄らず。
だから年齢に関してとやかく言われるのは好きではない。
ちゃんと、衛藤桐也という人間を見て、相応の対応をしてほしいと常々思っていた。
しかし、年齢と共に積み上げる経験値の差というものも、純然と存在する。
それは意思の伝達能力であったり、躓いた時の対処能力だったり、総じて恋愛偏差値と称されたりするのだ。
桐也は今の今まで自分が不器用だと思ったことは無かった。
何でもそつなくこなす能力があって、相対する人間がどういう感想を持って桐也を見ようと、例えそれが悪感情であろうとも興味なんて一切無かった。
自分は自分だと思っていたし、いつだって胸を張り地に足を着け、肩で風切る歩き方さえしていたはずだ。
しかし、今、突き付けられているのはまるで見たこと無い己の姿だった。
まるで幼稚な独占欲と我が儘が胸の内に膨れ上がり、嫉妬と呼ばれる形を伴っている。
自覚するという作業は酷く困難だった。
みっともないし、醜いし、無様だ。
そんな姿、誰だって見たくない。
ましてやそれが自分自身を映した鏡だというのなら、尚更だった。
先程まで香穂子を取り囲んでいたサーファー仲間の言葉が、今更のように頭の中をぐるぐると巡った。
彼女に優しくしてやりたいとか、嫌われたくないとか。
そんなの、当たり前だ。
でも実際に出てくる言葉は想いと逆の形をしていた。
天の邪鬼で、不器用で、反発と焦燥が混ざり合って痛みになる。
香穂子の手を握ったまま何も言えず、顔を直視することもできないまま立ち尽くした。
細くて柔らかくて少し冷たい手だった。
しかしそれも二人の体温が混ざって暖まる。
「────ねぇ」
「え?」
どれくらい呆けていたのだろうか。
香穂子に声を掛けられ、夢から覚めるように目が合った。
桐也の顔を見上げて、彼女はやけに清々しい笑みを浮かべている。
「お腹空いちゃった。どこかに食べに行こうよ」
なんだそんな事かと脱力するが、ふと繋いだ手に目をやる。
先程からずっと、繋ぎ合ったまま離れない自分の左手と、彼女の右手。
一方的に握ったのは桐也だが、香穂子はそれを拒むことなく受け入れ、そのまま繋いでいたのだ。
その事に気付いて、体中が一気に熱くなった。
桐也が何を考えて悩んでいたのか、香穂子はたぶん知らない。
興味ないのかもしれない。
しかし、桐也が香穂子を見るまでずっと待っていた。考えがまとまって、ちゃんと地に足をつけるまで。
そしてどんな結果になろうとも受け入れようとするのだろう。
この繋がれた手のように。
「────そうだね、なんか食いにいこ。何がいい? イタリアンとか中華とか」
「中華いいね! 飲茶とか食べたいなぁ」
「OK。いいとこ知ってるから、案内するよ」
「わ、楽しみ!」
晴れやかな笑顔を浮かべ、香穂子がぴょんと跳ねる。
こんな単純なことでいいのかと苦笑しかけて、それでいいんだと思い直す。
厳しい事を言っても、彼女はちゃんと受け入れてくれる。
簡単なことで笑顔になったり、ちょっとしたことで躓いたりする。
そうやって二人、積み上げていくものがあるのだと、桐也はまるで憑き物が落ちたような気分を味わっていた。
これからも悩むことはあるだろうけど、今はこうして手を繋いでいたい。
強く、そう思った。
【終わり】
Comment
衛藤と日野、付き合ってる設定。コルダ2f直後で、アンコールfとは別の時間軸ってことで。
初出:2009/09/06