帰り道を照らす夕陽
何もかも始まったばかりの二人だから
きっかけは些細な好奇心だった。
二学期の途中から下校ルートを変更するようになり、寄り道が増えた。
興味本位から逸脱し始めたと気付いた時には遅く、その迂回ルートが見慣れた巡回コースとなって定着していた。
明らかな遠回りでも、帰宅時間の遅延を家人に怪しまれない言い訳ならざっと両手で足りるほど用意してある。
それが習慣ともなってしまえば横槍もないだろう。
同校生徒らが放課後に闊歩する地域とは重ならない辺りのカフェに目星をつけ、新作メニューを餌に呼び出し、時間の許す限り席を占領した。
あと少しもう少しと進み続ける時計に配慮を乞いながら残された猶予を最大限に利用する。
しかし、当店ナンバーワンだの某番組で紹介されただのと些か大袈裟な宣伝文句のついた無難な味のホットチョコレートとパニーニも食してしまうと、手持ち無沙汰に不自然な間が増えた。会話の底がつき始めてる。
「大したことないじゃん」と衛藤が言い捨てると、「衛藤くん厳しいね」と日野が笑った。そんなやりとりも遥か彼方に遠ざかってしまった気がして、少し切ない。
カップの底に残ったチョコレートを飲み干すと甘ったるさに苦みが加わって冷たく舌に広がった。眉を潜めてそれをやりすごす。
対面に座った日野の顔を見ていたいと思っても、真正面から視線が合うとどうしていいのか判らない。
日野は居心地悪そうに身動ぎし、衛藤も髪をしきりにかき上げた。
「それじゃ」と前置きして伝票を持ち上げると、すかさず「あ、私が」と日野香穂子が腰を浮かせた。
試しにオゴリだと言ってみても律儀な日野は首を縦に振らない。
所詮は中学三年の経済状況なんてたかが知れていて、衛藤桐也の懐事情からもそう無理に押し通すわけにもいかず、勘定は折半になる。
店を出ると冷え切った夕方の風が体を縛り付けた。
「うわ、寒っ」
先に店を出ていた日野も寒そうに腕を組んで縮こまっている。
マフラーとコートを着装してこれ以上ない防寒対策でも、暖かい店内に慣れた皮膚感覚は無防備だった。
咄嗟に考えたのは手を繋いで体温を分け合うこと。
しかし側を通りかかったカップルが腰に手を回して抱き合うように歩く様子を見て、またも思考にブレーキがかかった。
俺と香穂子があんな風に、なんて。
想像するだけでこっ恥ずかしい。
結局ポケットに手を収めたまま日野の隣に並ぶ。
ビルの合間を縫って西の空から夕陽が差し込み、街をオレンジに染めていた。
歩道の並木はすっかり葉を落とし、寒々とした枝には電飾が絡まって葉の代用を務める。
煉瓦化粧が施された人工の地面に落ち葉は一つも見当たらず、刻々と変化しつづける空だけが人の手の及ばぬ力を見せつけていた。
「冬は日が暮れるの早いな」
「ほんと、もう夕焼けだね」
それは自動的に、この時間が終わることを指し示す。
いつまでも一緒にいられないことは判っていて、明日か明後日かまたその後か互いの都合をすり合わせて約束を取り付ける。
そうして一歩ずつ近付いていく作戦に抜かりはないのに、気持ちは先走ろうとしていてバランスがとれないでいた。
逢いたい気持ちは常にあって、だから遠慮無く逢いに行くしメールもする。
話したいことも沢山あって、聞いてほしいこと聞かせてほしいことが山積みだ。
もっと相手を知りたいと願い言葉を交わす。
本当はその手に、頬に触れたいなんて欲望が腹に溜まっていくけど、どう切り出していいものか悩んでは言い淀み、結局伝えられずにいるのだ。
一番、肝心なことなのに。
気を揉んで勝手に苛立ち、何かに急かされるようで落ち着かない。
「衛藤くん、今日はなんか……ひょっとして機嫌悪い?」
「え? なんで?」
しばらく歩いていると日野が遠慮がちに切り込んできた。
見透かされたようで、ぎくりと肩が固まった。
「何となく、だけど。あまり楽しそうじゃなかったし」
「んなことないって」
「それならいいんだけど。……学校で何かあった?」
「────全くこんな時ばっか」
気付いてほしいことにはさっぱり鈍いくせに、変な所で鋭いのだから始末に負えない。
「え?」
「いいや、何でも。……うん、でも学校で色々あったのは本当かな」
頻繁に二人で逢ってカフェで茶を啜るなり街を散策するなりしていれば、知人の目にも触れる機会はあるだろう。
互いの学校に距離があると言っても市内なのだ。制服で連れ立っていたら判る者には判るだろう。
そして校内に於いても衛藤は色んな意味で目立つ。こちらが知らずともあちらは知ってるなんて事は頻繁で、大概の煩雑な噂や評判はそんな所から発せられることもよく判っていた。
だから正直、選択授業で顔を合わせる程度の同級生から「星奏の子と付き合ってるんだって?」と言われた時ほど腹がたったこともなかったのだ。今の今までは。
顔と名前も一致しないような連中の好奇心を満たしてやる義理もないと黙っていると、周囲はそれを是と解釈したらしい。
「年上かよ」とか「やるなぁ」など好き勝手に評している。
自分に対する批評ならまだいい。対応も心得てる。
けれど、事は一人で済む問題でもない。日野香穂子がいるのだ。彼女を好奇の目に晒すなどと、耐えられないと思った。
眉根に皺を寄せて睨み付けると、相手は「何だよ、マジになんなよ」などと薄ら笑いを浮かべる。
「何、それは彼女に対する侮辱?」
事態はつかみ合いの喧嘩寸前にまで発展した。衛藤の友人数名が仲裁し相手を諫めてくれなかったら、今頃顔に青痣の一つや二つは作っていたかもしれない。
本人を前に言うことでもないのでなるべく伏せていたかった。
「ちょっと、同級生とトラブってさ。まぁ、よくある口喧嘩ってヤツなんだけど、結構むかつくこと言われて」
歩きながら掻い摘んで事情を説明する。微妙な部分を慎重に取捨選択し、話の筋が通るようにと心掛けながら。
いっそ笑い話として片づけてしまえと、声音は自然と上がっていた。
「仲いいやつが止めてくれなかったら、マジ喧嘩になってかも」
「そういう事は初めに言えば良かったのに!」
しかし、日野香穂子は予想より重く受け止めたらしい。
足を止め、正面に回り込んで衛藤を真顔で見上げる。
「そしたら、私のどうでもいい話なんてしないで、そっちを聞いたのに」
「別にどうでもいいってワケじゃないだろ、香穂子のだって」
今日何があって誰がどうしたという取り留めのない日野のお喋りは、それで楽しかったのだ。
嫌な気分を取り払ってくれたのに、何を言い出すのだろうか。
「衛藤くんが経験したこと、良いことも悪いことも聞きたいよ。もちろん、話したくないことだってあるかもだけど、嫌なことあったら話してほしいよ。私、聞くだけでアドバイスとかできるわけじゃないけど。それで楽になることもあるんじゃない?」
ちゃんと受け止めて一緒に泣いたり笑ったりしたいよ、と小さく日野が呟いた。
驚いた。
日野がそこまで考えてくれてたなんて、知ろうともしなかった。
「付き合う」とか「彼氏」「彼女」なんて言葉に惑わされて、肝心なことを忘れていたのだ。
相手を思うだけでなく、それを言葉にして交わし、伝え合い繋がること。
漫然とした普遍的な日常を切り取っただけの情報交換だけでなく、その時に何を思ったのか。何を感じたのか。それが重要なんだと彼女は言う。
それを共有した所で、決して同じ見方ができるわけではない。
けれど心を繋ぐということは、言葉と情報だけでは駄目なのだ。
胸を塞ぐ重石のような蟠りが溶けて消えていく。ドライアイスのように冷えて凝り固まったものが水を得て気化していくように。
「うん……サンキュ」
小さく呟くと、それを聞き取って日野が微笑んだ。
暖かなもので体内が満たされていく。
その笑顔一つだけで、こんなにも嬉しいなんて。
愛しいと思う気持ちが全身から溢れ、強く心を揺さぶる。
きっと彼女に出逢わなければ知り得なかった感情だった。
「今日はもう遅いから、送ってく」
「うん、ありがと。……明日、また逢える?」
「勿論。星奏まで迎えに行ってやるよ」
「え、でも」
「何? 何か不服?」
「私も衛藤くんの学校見てみたいなぁ」
「それは絶対だめ」
「ええっ、だって何時も来てもらってばかりじゃ悪いし」
「別に。俺が好きでやってんだし。それに」
星奏の生徒達に対する保険と牽制、なんて言えるわけがない。
4月から入学するとは言え、今から主張しておかなければと強く思う。
「同級生に香穂子を見せたくないし、冷やかされたくない」
「そんな事言うなら、私だってクラスの子とかに冷やかされてるんだよ?」
日野はぷうと頬を膨らませるが、そんな可愛い顔をしたって駄目と言うと真っ赤になって俯いた。
【終わり】
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スペシャルであった放課後デートまだ数回目
初出:2010/04/06