その手に触れて

踊る指は軽やかにダイナミックに繊細に


まず思ったことは、その手に触れてみたいって事。
手の甲は骨と血管が浮かび上がる男のひとの手だった。
器用に動き回る指は骨張ってゴツゴツしているのに、やけに繊細な音を出したりする。
大きく躍動するかと思えば、小さく動き回って器用に鍵盤を叩いていく。
サッカー部レギュラーさえ手中にする普通科男子学生が星奏学院一のピアニストだったなんて、神様は色々と不公平だ。
間近で演奏を聴ける分だけ幸運なのかもしれないけど、と日野香穂子は溜息を吐く。

抽選に洩れて練習室が使えず音楽科棟屋上にでも行こうかと、日野はしばし思案していた。音楽科の廊下で立ち往生していたら、通りがかりの土浦が練習室へと通してくれた。
彼の演奏が聴きたいと言い出したのは日野だった。

「俺は別に構わないが、いいのかよ? お前の練習時間を削ることになんだろ」
「練習室は土浦くんの予約で取ったんだから土浦くんが弾くのが筋ってもんでしょ」
「でも」
「グダグダ言ってないでちゃっちゃと弾く! 私は観客役になるから、いい音聴かせてよね」
「ったく、人の気も知らないで……」
ブツブツ何事か呟いた後、土浦は観念したように座った。

役得だと、日野はしみじみ思う。
鍵盤を前にした横顔は、音へと全神経を集中させる鋭さを秘めて引き締まる。元から精悍な顔立ちだと思うけど、ピアノを弾くときはまた格別だ。
上背があって背中は広く、筋肉質な腕は長い。鍵盤全体に覆い被さるようで、ダイナミックというのならまさにそうなのだろう。
弾かれた音はずしんと腹に来るような重さがあった。
フォルテの衝撃は耳から入り込むだけではなく、ビリビリと肌を震わせる。
転じてピアニシモは儚く繊細で、どこからそんな音が出てくるのか不思議で堪らない。
ただ単に強く弱く弾くだけではない何かが彼の手で引き起こされているのだろう。
同じ曲でも弾き手によって違う曲のように聞こえることは知っていても、土浦の演奏は格別に思えた。
重量感というものだろうか。先程から肌が粟立って止まらない。
空気を震わせた音が渦を巻いて天へと昇っていくような、そんなイメージを思い描く。
一音一音が波紋となって土浦を中心にして、空気に波を起こす。ピアノの傍ら、土浦の邪魔にならない距離を取って椅子に座った日野の背筋を伝って体の芯を揺さぶる。世界の全てを巻き込んだ音は、キラキラと天へ還っていく。
思わず、両腕を抱きしめた。手の下で、肌がざわめいている。

なんて情熱的で、感傷的で繊細で、そしてドラマチックな音なんだろう。当の本人にその要素が見当たらないくせに、音が人を揺さぶるくらい訴えるなんて卑怯だ。
惹かれて止まらなくなる。

「……狡いなぁ」
「何がだよ?」

余韻を充分に味わうように、土浦の手が止まってから暫く沈黙が続いた。不意に漏らした日野の独り言を、土浦が目聡く拾い上げる。
楽譜をまとめる手が止まった。
「なんでもない」
「何だそりゃ。言いたいことあんならハッキリ言えよ」
些か強い口調で詰問するような土浦の態度は、彼が周囲に与える印象の幅を無意味に広げてしまっていると日野は思う。
こんな事で怯んだりはしないが、摩擦や誤解は少なからず生まれる。だから女子生徒から敬遠され、本人は嫌われているとさえ思い込んでいる。
生憎とそこで引き下がるような性格でもなければ、食って掛かるだけの覚悟は出来ていた。
でもその分だけ異性として意識してないような気がして、そこが悔しい。自分ばっかりこんな気持ちになってる。
「はっきり言っちゃっていいの?」
「お前らしくねぇな、その勿体ぶった言い方」
「らしくないって言われてもなぁ」
これでも一応、片想い相手を目前に心臓ドキドキ状態の女子高生なんですが。心の中で付け加えながら、見上げてばかりいる土浦の顔を覗き込んだ。ピアノの前に座った彼はそれはもう格好いいけど、こうしていると別の面が見えるような気がした。

悪戯を仕掛ける子供の気分だった。
どんな反応をするのかわくわくしながら、けれど捕まる気もないから予め引いた線から出ないように心掛ける。
その綱渡りが楽しいからこそ、今の二人があるのだと思う。

「ピアノ弾いてる土浦くんが格好良くてドキドキしっぱなしで、狡いって話だよ」

さり気なく彼の手を上から抑えて、囁くように小声のけれど冗談にも聞こえるような口調で爆弾を投下する。
予想通り土浦の顔が赤くなるのを見届けて、さっさと練習室を出て行く。これ以上は練習の邪魔をしたくないし、自分自身の練習だってしたい。
彼が頑張ってる以上、負けたくない。楽器は違えど同じ所に立って同じ目線でいたい。今はまだそこに居られないから、今日の勝負は痛み分けって所だろうか。
ピアノを堪能できたし、手まで触っちゃったし、私が幾分不利かもしれないけど。

「ともかく、頑張らなくっちゃ!」

鼻歌交じりで音楽科棟廊下を進む日野香穂子は気付かなかった。
練習室に取り残された土浦は額を抑え、そのまま前髪をかき上げる。それでも居心地悪く何度も顔面をさすった。
咄嗟に捕まえようとした手をすり抜けて、小さな背中はさっさと練習室を出てく。逃げ足が早くて、追いかけるのはいつも自分だ。

「……つーか、俺の完敗だろ、これって」

熱く火照った頬を抑えた手の中に、独白は不明瞭な音となって吸い込まれた。


【終わり】

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弾いてる曲はご想像にお任せします。個人的にはチャイ様のピアノ協奏曲だといいなぁとか思いながら。

初出:2008/01/16

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