花泥棒の落とし物

白く輝くカサブランカ
凛と香り立つ、この花をあなたに捧げて。


真っ白な紙に包まれたものはやけに大きく、その両腕いっぱいに抱き抱えて精一杯なのだろう。
がさこそと音をたてて運んでいる。
それでいて先程から森の広場をうろうろと落ち着かない風情で歩き回っていれば、十二分に挙動不審だ。
さて、何と言って声をかけようか。
金澤紘人は、無精髭を蓄えた顎を摘んでしばし考え込んだ。
今日は土曜日で、授業はない。
登校してくる生徒は疎らだが、部活動か音楽科の練習か、何にせよ若人らしい熱心さで学内をにぎわせる。
中でも、彼女は色んな意味で熱心だ。
普通科に所属しながら、学院に住み着く妖精に見出され楽器を手にしてから、衆目を集めるようになった。
だが今日はそのヴァイオリンを持っていないようだ。その代わりに大きな花束を抱えていた。
背中に近寄ると甘い香りが漂ってくる。

「……ああ、こりゃカサブランカだな」
「え?!」

思わず声に出ていたらしい。
日野香穂子は驚いたように振り返った。
腕の中には、大輪の百合が咲き誇る。白く匂い立つそれは、金澤の好きな花の一つだった。

「か、金澤先生! お、おはようございます」
「おはようさん。こりゃ立派なモンだなぁ。どうした?」

抱えた花に目を落とす。
一輪だけでも相当な存在感を誇る豪奢な花だが、それが幾つも束になって強い香りをふりまいている。これだけの量になると値も張るし、女子高生の財布からでは苦しいだろう。

「実は、父の会社でちょっとしたレセプションがあったらしくて。父の部署は裏方だったそうですが、その時に贈られた花を貰ったんだそうです。部署の人達で等分に分けたらしいんですが、それでも家の中が花だらけになるくらい多くて」
「なるほどなぁ。っても、お前さん、コンサートで貰いまくっただろうに」
「それはもう皆枯れちゃいましたよ。いつの話してるんですか」

金澤の軽口に、日野が笑って突っ込みを入れる。
一年以上前から築き上げた適度な距離感だ。

「それで、ヴァイオリン持ってないってわけか」
「ああ、えーと。ヴァイオリンは昨日雨が降ったので、置いて帰ったんです」
「そういや、午後になって急に降ってきたなぁ。だったら、吉羅の奴にでも送ってもらえば良かったのに」
────ええ、まぁ……」

朗らかだった日野の顔に翳りが差した。曖昧に口を濁し、目線を逸らす。
明らかに何かあったと思わせる態度だ。
金澤がにやりと笑う。

「なんだ、お前さんたち喧嘩でもしたかぁ?」
「い、いえ、別にそういうんじゃないんですけどっ」
慌てたように日野がぶんぶんと首を振った。遠心力で髪の毛が振り回され、花束の中に落ちる。
「あ……」
「あーあー、こんなに花粉つけて。カサブランカは花粉がすごいんだから、気をつけろよ。服についたらなかなか取れないんだぞー?」
「……すみません」

白衣のポケットからハンカチを取り出し、髪についた花粉をふき取る。
不意に近付いた距離は予想より近いものだった。胸の奥で、用心深く鍵をかける。
さわり心地のいい滑らかな髪に触れながら、油断なく慎重にブレーキを踏みこむ。
その一方で、こんな場面を誰かさんに目撃されたら誤解されかねないと苦笑した。
誤解どころか、後々まで根に持つだろう。ああ見えて嫉妬深いし、執念深い。ついでに相当の意地っ張りで、プライドも天に昇る勢いだから扱いが難しい。
そんな男を恋の相手として選んだのだから、日野香穂子も難儀なものだ。

「んで、それ、理事長室に持っていくんだろ?」

髪からすっかり花粉をふき取り、一歩後ろに下がって充分な距離を作ってから爆弾を投下する。
勢いよく顔を上げた日野の目はまん丸で、思わず吹き出した。

「~~~~っ!!」
「ああ、判った判った。からかって悪かった」

頬から耳に至るまで真っ赤に染め、涙目になった日野が何事かを叫ぼうと口をぱくぱくさせるが、声にならないようだった。

「何で判るかって? そりゃあ、見てれば判るってもんだ」
「……そんなに私って判りやすいんでしょうか」

落ち着きを取り戻したかと思えば、不安げに俯く。
そんな一つ一つの反応が如実に語るのだと、彼女は気付いていないのだろう。

「まぁ、お前さんより歳くってるからなぁ。経験値の差って奴だ」

納得したのかしないのか、彼女はしばらく考え込む仕草をした。

────先生」
「ん? 何だ?」
「ちょっと訊いてもいいですか?」

面倒ごとはゴメンだぞと言いかけて、結局口を閉ざした。
日野の縋るような目は、途方に暮れた迷子のようだった。


森の広場という名称から想像できるように、学校施設とは思えないほど鬱蒼と木々が生い茂り、中央には煉瓦化粧が施された歩道沿いに手入れの行き届いた芝生が広がる。
昨今の土地事情などまるで慮ることなく、住宅街の一角を惜しげもなく占領してこの有り様だ。
贅沢だと言われれば、そうですねと頷くしかない。
奥には小規模ながら池があり、日野を座らせたベンチから一望できる。
ベンチの側に立った金澤からは、さらに広場全体が見渡せた。
聞かれたくない話をするなら、なるべく開けた場所がいい。
誰かが近付こうものなら察知できるし、周囲からこちらも伺える。
何もやましいことは無いと主張するには充分だった。

「それで、聞きたいことってのは」

傍らに花束を置いて、膝の上は現在日野自身の組んだ両手が乗っている。
俯いたまま動かない彼女のつむじを数秒眺めて、視線を広い空へと放り出す。

「吉羅のこと、か」
「……はい。先生、気付いてるんですよね?」

何がと訊くほど野暮ではない。
互いに探るように投げつけた言葉は、的を正確に射抜いている。

「まぁ、お前さんたち見てりゃ、なぁ」

方や十数年の付き合いになる鉄面皮で憎らしいほど沈着冷徹な男と、出逢って一年半になるが喜怒哀楽を惜しみなく表情に出す少女だ。
第三者だからこそ、その視線がどこを向いているのかさえ把握できてしまう。

「あの……でも、卒業までは伏せるようにって言われてるんです。受験もあることだし、理事長室にはもう入るなって言われてて」
「あー、吉羅なら言いかねないな、そりゃ」

今まで散々理事長室に招いておいて、突然ぱったりと止めてしまった理由はそれかと納得する。
吉羅の性格からして公私の区別をはっきり線引きしたかったのだろう。

理事長室に二人きりと言っても、色っぽい意味を欠片も含まない辺りは流石だった。
もう自分には見えないが、常にあの妖精もふわふわ飛んでいるだろう。
金澤が無遠慮に立ち入っても拒まれない空気のまま、吉羅は執務机に向かい、日野は応接セットのソファ近くでヴァイオリンを奏でているのが常だった。
とはいえ、下校が遅くなればあの派手なイタリア車で家まで送り届けている。一介の生徒に対する処遇としては特別すぎるだろう。
それを、今更のように封じるという。
奴としては単なる「線引き」で「区別」なのだろうが、年頃の女子高生にとってはどうだろうか。
一目で初恋と判るほど、この恋に対して右往左往と振り回される彼女のことだ。理性で納得できても感情が追い付かないだろうことは、想像に難くない。

「……だからこの花、どうしようかと思って」

花を譲り受けて、誰に贈ろうと考えた時、真っ先に吉羅暁彦を思い浮かべたのだろう。
しかし、彼からは現在立ち入りを禁じられている。
それで森の広場でうろうろと挙動不審に陥っていた、と事の顛末は理解した。

「だったら、そのまま理事長室に持っていって奴を呼び出しちまえ」
焦れったさに舌打ちしたい気分だ。

「で、でも!」
「さっき俺に説明した台詞をそのまま言えばいいだろ」

顔を合わせた時、彼女の口からは練習してきたようにすらすらと状況説明が出て来た。さながら、金澤はリハーサルと言ったところか。

「そうなんですけど……」

そこまでしておきながら、躊躇っている。
おそらく、怖いのだろう。
想いが実ったのに、今更のように拒絶されることが。

そうではない、と説明していいものか。
金澤は逡巡する。
後輩の色恋沙汰に首を突っ込むのも気がひける。
しかも相手は学院の生徒だ。今のままでは誰しもが祝福するカップルとは為り得ない。
だからこそ、彼は教育者として卒業までという線引きをした。それは正しい。
理事長が判断した以上、教職員という立場である金澤が何を言えるだろう。

「あいつも、頑固だからな」
つい零れた愚痴とも付かぬ独白に、日野が顔を上げた。

「昔の吉羅さんもそんな感じだったんですか?」
「んー、昔とは随分性格も変わったな。それはお互い様って奴かもしれんが。でも、こうと決めたら梃子でも動かない所は、基本的に変わってないかもな」
「……やっぱり持ってこない方が良かったのかな」

しょんぼりと日野は肩を落とす。
朗らかで笑顔の似合う少女から、生彩が消えてしまった。

「おーい、早合点すんなって。理事長室への出入りはできなくても、逢うなって言われてるわけじゃないだろ?」
「それは、そうなんですけど。……逢えたら、また逢いたくなっちゃうから我慢しなきゃって」

ああ、もう。
金澤は目を覆いたくなる。
何事にも一生懸命に取り組む彼女が、恋をしたらどうなるのか。少し想像力を働かせたら判るだろう。
真っ直ぐ相手を見つめて、健気に一途に突っ走るだろう、と。
恋の相談なんて受けるべきじゃなかったと今更後悔するが、おそらく金澤以外にこんな愚痴を吐ける相手はいないだろう。
そもそも吉羅と日野は金澤を通じて距離を縮めていったのだから、片棒を担いだと言われても否定できない。
毒を食らわば皿まで、の心境だ。

「でもなぁ。あいつ、お前さんに花を贈られたら喜ぶと思うぞ」
「え、あ、そ、そんなこと……!」

俯いていた顔が再び金澤を仰ぎ見る。
期待と不安に揺れる大きな瞳に、本日幾度目かの苦笑を漏らす。

「花束抱えて学院来ておきながら、自分の所に来なかったって知ったら、後が怖いしな」

そのとばっちりは間違いなく金澤に向けられるだろう。
想像するだけで面倒だ。
日野は判らないらしい。困った顔をして顎に手を当てる。

「そうなんでしょうか」
「そうなんだよ、あいつは」
「……なんというか、私の知ってる吉羅さんと先生の見てる吉羅さんに大きな齟齬があって、それがちょっと悔しいです」
「それは、まぁ、仕方ないな」

足元から、小さな鳴き声が聞こえた。
いつの間にか野良猫がすり寄ってきている。

「おー、ハナさん。残念ながら今は餌を持ってないんだなぁ。後でまた来てくれや」

しゃがみ込んで、その丸々とした背中を撫でてやる。
猫はそのまま気持ちよさそうに前足を伸ばした。
どうやら、しばらくここに居座る気らしい。

────判ってます。今のはちょっとした愚痴です」
「そうか」
背中越しに、はっきりとした日野の声が聞こえてきた。少しだけ気が晴れたらしい。

「それじゃあ、少し助言な。俺の独り言だと思って聞き流してもいいぞ」

勿体ぶって前置きしてみたが、彼女は真剣な面持ちで金澤の言葉を待っている。
こほんと咳払いして、情報の取捨選択を改めた。
言うべきことと、言わずに伏せるべきこと。それを間違えてはいけない。

「あいつは、基本的に警戒心が強いからな。だから今は少しピリピリしてるかもしれん。だが、お前さんから何かアクションがあった時は、絶対に拒んだりはせんよ。なんせお前さんは唯一のウィークポイントだからな」
「ウィークポイント、ですか……」

撫でられることに一通り満足したのか、猫は金澤の手をすり抜けて生け垣へと消えていく。
よいしょ、と声を掛けて立ち上がる。

「色んな意味で、弱点なんだよ」
「はぁ……」

合点がいかないと、彼女の反応は曖昧だ。
それはそうだろう。その辺りは性差もある。30過ぎの男に弱点があるって事は、女子高生が考える以上に大きな問題なのだ。
しかし疑問符を目一杯表情に浮かべる彼女には、言っても理解できないかもしれない。一から説明していたら日が暮れそうだった。
あやすように、頭をぽんぽんと撫でる。

「ほら、ごちゃごちゃ考えてないで行ってこい。お前さんは頭で考えるより先にまず行動だろう」
「わ、酷い言われよう! それって、まるっきり私がバカっぽいじゃないですか」
「あれ? そう聞こえたか? 誉めたつもりなんだがなぁ」
「誉められた気がしません」

金澤の軽口に乗ってくるくらい、日野の精神状態は安定してきたらしい。
けらけらと声を上げて笑っていたら、彼女も釣られたように笑みを零した。

「それじゃ、大丈夫だな」
「はい。ありがとうございました」

立ち上がった日野はまず金澤に頭を下げ、大切そうに花束を抱えて木々の向こうに立つ柊館へと視線を向けた。
背中をぽんと押してやると、金澤を仰ぎ見て笑顔になる。

「行ってきます!」
さらさらの髪をなびかせ、日野は真っ直ぐに歩き出した。


他人の恋を応援してやるなんて酔狂だと思っていた。
それが、教え子であり憎からず思う相手なら、尚更だ。
ほんの少し前までなら、片想いさえ性分ではないと切り捨てていたのだから。
あんたがあたしのものにならないなら、あたしがあんたを好きになる。恋は野の鳥、手なずけることはできない、か。有名なアリアの歌詞を思い浮かべて金澤は苦笑する。
オール・オア・ナッシング、とまでは行かないにしろ、自分のものにするか諦めるか、大概はその二択に絞られるだろう。
もっと狡い手段を選ぶとしても、それは相手があってのことだ。
彼女の真っ直ぐな気性に当てられた今の自分には、到底選べそうにもない。

相手が吉羅暁彦というのも大きいだろう。
運命という言葉は好きではないが、使いたくなってしまうのは彼の特異な「体質」ゆえだろうか。
彼女にも背負わせてしまった、「妖精が見える」事実。
とてもじゃないが、30過ぎの男が公言できるような代物ではない。
日野が口にする分には可愛らしい夢物語として片づけられるだろうが、大人は色々憚られる。
そして大人は面倒で厄介で、見栄っ張りな生き物だ。恥をかきたくないし、傷付きたくない。
子供が思う以上に、それらをいかに回避できるか、計算して生きている。

吉羅の恋愛遍歴は、さすがに金澤も正確な情報を把握していない。
高校から圧倒的にもてたのは確かで、バレンタイン時にチョコレートの数を競った事もあった。(僅差で負けたなんて思い出したくもないが)
金澤が知りうる限り、吉羅という男は女性に対して常に誠実でありながら、一方で突き放してもいた。
吉羅は、絶対に口にできない秘密を抱えている。
そして女性は概ね、男の秘密に敏感だ。心を開いていないことを察知して、疑心暗鬼に捕らわれる。
斯くして男と女の溝は目に見えて深まる。コミュニケーションで解決できる問題でもなく、差違は広がる。
手放すことには慣れていると彼は嘯くが、本心でないのは明らかだ。
その傷を知っているからこそ、日野の存在は奇跡なのかもしれないと、金澤は思い始めていた。
最初から、一番高いハードルを越えてしまっているのだから。

吉羅も、随分と不器用で憶病な男だ。
理事長室に来るなと釘を刺したって事は、裏を返せば本気になったという事だ。
しかし、齢17・8の少女にそれを察しろと言っても無理があるだろう。
増してや、想いが通じ合ったことを素直に喜ぶような初な子相手だ。
相当の長期戦を睨んでの対策だろうが、彼がそう我慢強い質でもないことも、金澤は知っている。

さて、あのカサブランカを見て、奴はどんな顔をするだろうか。
想像するだけで笑いが込み上げる。

不意にポケットを探って、はたと我に返った。
日野の髪についた花粉を払った後、ハンカチをそのまま無造作にポケットへ突っ込んだような記憶がある。

「あー、これ、染み抜きしないとやばいかなぁ。ポケットだからいいのか?」
黄色い花粉が付いた指先を眺め、どっちにしろ洗濯しないとなぁ、と大きく溜息を吐いた。


【終わり】

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コルダ2では金やん相手に恋愛第三段階まで行ってコンサート成功ED、アンコールは吉羅ルートを辿ってコンサート成功ED、その後、という裏設定。

初出:2009/07/12

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