捨てたはずのもの

とうの昔に失くした物、
手放して届かなくなったもの。


────若いなー、青いなー。
何を言う、若いってのはそれだけで財産なんだぞ。
ま、がんばれや、若人。




生徒の背中を押す手は慣れたものだ。
教職に就くと決めた以上、鬱陶しくてもガキの面倒を見なければならない。
己のキャパシティをよく判っていたから、真面目な教員になれるはずもなく、適度な態度を一貫して貫く。すると周囲は心得たもので、「のらりくらりの不真面目教師」というレッテル(自分にとっては有難い免罪符)を貼り付けてくれる。
真面目な生徒はそれでも何やかんやと教師らしさを求め齧り付いてくるが、それを躱すのも一種の技術だ。
「いい加減な教師にも齧り付いて質問するような熱心さがあれば、その生徒は成長しますよ」
他の教員にはこれくらいの屁理屈をかまして異論をねじ伏せておけばいい。
そうやって、星奏学院でのポジションを維持してきた。

何がどうなって、脱線してしまったのだろう。
それなりの入念さで敷き直した人生の線路だった。失敗を重ねて大人になった分、慎重さと用心深さを経験値に加えていたはずだ。

それが、今まさに崩れ落ちようとしている。
女生徒のたった一言が、ぐらりと立ち位置を揺らした。

「例えば、好きな人の話とか」

在り来たりな恋の相談、にしては聞き捨てならない。
無理矢理担当させられた学内コンクールで注目を浴びた普通科生徒であり、それが縁で個人的に親交をもつようになった相手だ。
今は学内に留まらず、コンクールメンバーとアンサンブルを組んでコンサートを開く準備に追われている。
何かと相談に乗るうち、根城にしていた音楽準備室へ頻繁に入り浸るようになった。
今日も無邪気にやってきた彼女と交わした雑談のなかに、その一言────あまりに破壊力のある爆弾が、さり気なく投下された。
危うく煙草を落とす所だった。

失敗した。
咄嗟に出てくるはずの言葉に躓いて、間が空いてしまった。
微妙な空気が追い打ちを掛ける。今更笑い飛ばすにもいかなくなって、ますます立場がなくなった。

音楽で躓いたと泣き言を言われる方がマシだった。解決策を模索し、先が見えたのなら背中を押してやればいい。
なのに、今の状況で押してしまったら。

「……ふーん? それで?」
一つ咳払いして先を促した。やけに低い声が出てしまったが、彼女はとくに気にした様子もない。
「例えばの話です。この先そんな事があったら先生に相談しようと思って。なんせ人生の先達者ですから」
あっけらかんと彼女が笑う。
体中から力が抜けた。なけなしのプライドが、辛うじて体勢を保つ。

「お前さんなぁ、生意気言って教師をからかうなよ。コンサート前に何を言い出すのかと思えば」
「すみません。でも、前フリにはなったと思うんですけど」
「前フリなんぞいらんよ。色恋沙汰は専門外だしな」
「そうなんですか?」
「そうなんだ」
「それじゃあ」
言葉を一端切って、彼女は不意に真っ直ぐな視線を寄越してきた。
「先生は今好きな人っていないんですか?」

生徒の好奇心を満足させる義理なんてないのに、この視線は色んな意味で堪えた。

まるで、深い湖のような目。
澄み切っているのに、陸地からはその深さをうかがい知れない。
吸い込まれそうな、目。

参ったなぁと、ぼやくかわりに煙草を口にくわえた。
煙を吸い込んでも、この胸に渦巻くものを取り去ることはできないだろう。
どう動くべきなのか考え倦ねて、結局「さぁな」なんておきまりの誤魔化しに終始せざるを得ない。

全部、過去に捨て去ったと思っていたのに。
今更何をどう言えばいいのだろう?


【終わり】

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金やん自爆気味のお話。たぶん金やんは、直球勝負に弱い人なんだと思う。

初出:2007/12/21

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