きっとこの先、一生。

この時間が続くのなら永遠だってかまわない


「じゃーん! 超特売お買い得セール品、ゲットしてきました!」
ビニール袋を高々と掲げ、日野香穂子は誇らしげに笑う。

「近所のスーパーで偶然安売りしてたんですよ~。これって普段はちょっとお高めだから、チャンス! と思って」

森の広場の一角、木立が程良く日陰を作っているベンチを陣取り、昼下がりの貴重な喫煙タイムを満喫していた金澤は片方の眉を上げて咄嗟の返答に窮する。
そんな音楽教諭の様子など気にも留めず、日野は当たり前のように金澤の隣に腰掛けた。
渋々、金澤は半分も吸っていない吸い殻を携帯灰皿へと押し込む。

最近は随分と喫煙量も減ってきたように思う。禁煙すると意気込むほどではないにせよ、取り出した一本を堪能する間も無く消す回数が格段に増えた。
学院内での喫煙スペースは限られていて、金澤自身の根城である音楽準備室と森の広場の奥にあるこのベンチでのみ、堂々と煙草を堪能することができる。
しかしその貴重な機会を悉く潰して回る強敵が現れた。
敵は難攻不落で、かなり手強い。

「チャンスってなぁ……、お前さん、そんなに喜ぶことか?」
「だって、先生ばっかりずるいんだもん。私だって猫さんたちと仲良くなりたいのに」

ぷうっと頬を膨らませ、日野香穂子は上目遣いに金澤を睨む。
かと思えば、思い切り顔じゅういっぱいに笑ったりする。ころころと、面白いくらいに表情がよく変わる。

そう、これがいけない。
全くの天然素材で混じり気のない言動がどれほど相手を揺さぶるものなのか、彼女は露ほども知らないだろう。
実際、金澤は頭を抱えたくなる心境だ。

猫と仲良くなりたい、というのは本当だろう。
彼女は足繁く広場に通っては餌を与え、野良の彼らに触ることを許されるほど、猫との交流を深めている。
しかし、それだけが目的ではないと、金澤はちゃんと気付いていた。

「あ、来た来た! 今日はごちそうだよ~」

気配を察してか、丸々とした猫たちが音もなく近寄ってくる。
ビニールから猫缶を取り出して、日野はいたく上機嫌だ。鼻歌まじりにプルトップ蓋の缶を開ける。
この年頃なら箸が転がっても面白いものだと言う。確かに彼女はよく笑う。
楽しそうにころころと、涼やかな声を出す。メゾソプラノとソプラノの中間にあって、高すぎず低すぎず耳に心地良い。
その声が紡ぐ言動はじつに前向きで一生懸命で、そのくせ自由闊達で次に何をしでかすか解らない危なっかしさがあって、目が離せなくなってしまった。




「先生、教えて下さい!」
日野は目をきらきらと輝かせて音楽準備室のドアをノックする。
学内コンクールに巻き込まれてからというもの、頻繁に出入りするようになった。
初めは気の毒に思ったのだ。学園に取り憑いた妖精に愛されてしまったらどうなるか、金澤はよく知っている。何も、彼らの言うことを真に受けなくてもいいのだ。彼らは純粋無垢な存在だが、人間社会は彼らが考えるよりずっと複雑だ。
無論、音楽に親しみを持ってくれるのは嬉しいし、喜ばしいことだと思う。
だからと言って、今まで楽器と無関係に過ごしてきた一介の普通科女子高生を巻き込まなくてもいいではないかと、同情した。
音楽科と普通科にある微妙な軋轢、両者の言い分と気持ちを理解できるだけに放っておくのも忍びない。
それでもコンクールに参加すると決めた以上、全員を平等に扱うのは当然の判断だ。彼女だけ特別扱いはできない。

ただ、日野を選んだ妖精の気持ちも解らなくはないと、最近は考えを改めた。
構ってられないと突っぱねても、のらりくらりと詭弁でかわしても、彼女は一向にめげない。ねばり強く踏ん張って交渉し、結局は金澤の根負けだ。期間限定だと割り切って耐えることにした。
ところが、学内コンクールが終わっても音楽準備室への突撃は止まない。
ヴァイオリンの練習は怠らないし、楽典の勉強にも熱心だ。解らないことを後回しにせず、単刀直入に金澤へと質問をぶつけた。
他の教員まで勉強熱心な日野を誉める。外堀まで徐々に埋められていく。
そんなことを繰り返していつのまにか、一生徒から飛び抜けて金澤の視界に入り込むようになっていた。


今も、その目はキラキラと輝いている。
興味は音楽でもヴァイオリンでも学内に住み着くノラ猫でも、何でもいいらしい。じつに若者らしい好奇心旺盛さだ。
自分もその中に入っていることを面映ゆく感じながら、心の片隅で喜んでもいた。
誰だって、誰かの視界に入りたいと思うものだ。それが双方向なら申し分ない。

問題は、教師と生徒という立場だけ。

あと二年待てばいい。彼女が卒業してしまえば何て事はない。多少の年の差はあれど、禁忌には触れないのだから。
けれどその二年が遠い。

彼女はまだ年若く、金澤からみれば幼いほどだ。
しかし、その分だけ可能性がある。前途洋々、未来は無限に等しい。
世界は広くて、吸収するだけでも手一杯だろう。
そんな時期の二年は、じつに長い。過ぎ去ってしまえば何て事なくても、当事者にしてみればとてつもなく貴重だ。
それを待ってくれ、なんて言えるだろうか。

例えば、年齢も相性も申し分のない出逢いが彼女にあったとして、そのまま恋に落ちることを一介の教師が責められようか。
学業を疎かにするな、という程度しか口出しなんて出来ない。したところで、聞く耳など持たないだろう。
己を振り返ってみても十代はみっともなくてがむしゃらで、いい加減で奔放で、終ぞ我慢などしたこともない。
頭ごなしに押さえつけられれば反発したし、ルールは破るためにあるなんて巫山戯た題目を半ば本気で唱えていた。
恋に落ちれば電光石火で、無我夢中だった。周囲などまるで見えていなかった。
そんな時期に我慢を強いて自制を強要するなど、誰が言えるだろうか。

好奇心の対象が、そのキラキラした目が自分以外の誰かに向く可能性は、ゼロではないのだと。
自らに言い聞かせる。
胸の淵に沸き上がる言葉を一つずつ踏みつぶしていく。
最初から無いのだと言い聞かせることは、大人の自分にこそ出来る全てではないのか。
自制すべきは己なのだと。





丸々とした猫の背を撫でていた日野は、気が済んだのか、徐に立ち上がった。
短いスカートを払って振り返る。
長い髪がさらさらと揺れた。真上から降り注ぐ午後の日差しが、その一房に弾かれて零れるのを見た。

「えへへ、けっこう懐いてくれましたよ、猫さん。ひょっとしたら猫神さまが願いごとを叶えてくれるかも!」
金澤をまっすぐに見つめて笑う。

「……どんな願いごとしたんだ?」
「先生が、逃げずに私の質問に答えてくれること!」
頬をほんのりと赤らめて、悪戯っ子のような顔をする。子供と大人の中間を彷徨う仕草に、心臓が大きく高鳴った。

どんな種類の表情をすべきなのか、金澤は咄嗟の判断に迷った。迷う時間、日野がじっと反応を伺っていることを解っていて、その猶予を与えてしまった。
結局、口元を押さえて最低限の表情を隠すに留める。顔全体を覆いたくなるが、それはもう降参と手を挙げるに等しい。
せめてもの意地だった。

たぶん、彼女には一生かかっても敵わない。


「……その願いは叶わないだろうなぁ」
「どうして?! 先生の意地悪!」
「だって猫神さまも気まぐれだし」
「……いいもん、先生がその気なら、この前のサボリを職員室でリークしてやる」
「え、ちょっ、ま、待て、それは無いだろう」
「あ、やっぱり森の広場をうろうろしてたのはサボリだったんですね」
「……うわー。日野、お前さんいつからそんな外道に」
「逃げずに答えて下さいね、先生!」
────はい」









──────こっちは手段なんか選んでられないっつの」
「ん? 何か言ったか? 日野」
「いーえ、何にも!」


【終わり】

Comment

へたれ大人な金やんでした。当初の予定よりも書き進めていくうちにずるずるとへたれになってしまったような気が。対して日野さんがけっこう強気。

初出:2009/02/28

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