君が走ってくるその靴音を
逸る気持ちを抑えて、耳を傾けたら
「……どうしてかなぁ」
日野香穂子は頬に手を当てて考え込んだ。
悩み事なら毎日入れ替わり立ち替わり襲ってくるもので、例えばニキビができたとか外ハネが気になるとか枝毛見つけたとか爪の形が気になるとかその程度、しかし年頃の女子高生にとっては重要事項に数えられる。
ニキビなら洗顔と化粧水で対策したり、髪型なら念入りにブローしたりと対策は怠らない。
少しでも可愛く綺麗に見られたいという欲望が出所なので、毎日のように変化する肌の調子や髪型や爪のあれこれは半ば恒常的な問題なのだ。半永久的に続く追いかけっこと称しても過言ではない。
今、一番の悩みと言えば自分自身のそれではない。
「お、日野か。いい所で逢ったな。これ、音楽準備室まで持ってってくれや」
廊下の真ん中で見つけた周囲の生徒たちより頭一つ飛び抜けて高い背中に近寄れば、声を掛けるより早く振り向いて名前を言い当てられる。
これが他に生徒のいない準備室に於いても、忍び足で近付いて目を塞ぎ「だーれだ!」と声音を変えても一発で言い当てられるのだ。それが数日前の出来事で、以来脅かそうと足音を忍ばせても、他の生徒に紛れて近寄っても必ず「お、日野」と確認するまでもなくバレている。
はっきり言って面白くない。
「え~、金澤先生、自分で持って行けばいいじゃないですか」
「俺はお前さんが運んでくれてる間に一服してくんだよ。午後の至福の一時だ、いいだろそのくらい。んじゃ、頼んだぞ~」
その上、書類の束を無遠慮に渡される始末だ。
さして重いわけでも嵩張るわけでもないが、確実に放課後の貴重な時間は削られる。
音楽準備室に入り浸り、なおかつ金澤の押しつける雑用をこなすようになって久しく、その書類をどこに置けばいいのか把握していた。それがいいことなのか悪いことなのか、日野には判別できない。
むしろ、都合良く使われてる不公平感が勝る。
せめて一泡吹かせたいと仕返しを企むのに、バレバレではつまらないではないか。
こちらが何を考えて行動しているのか筒抜けになっているようにさえ思える。
そのくせ、乙女心の機微には見て見ぬフリをする。その辺りはかなり狡い。
今だって少しでも長く側に居たいと思っているのに、喫煙を優先されてしまった。
金澤の考えていることも解る。
制服にたばこの匂いが染み着くことを避けるためで、しかも往来する生徒の目を配慮して何でもない態度を取っていることも。
衣替えで冬服をクリーニングに出す際たばこの匂いがした、とそれは何でもない季節にまつわる雑談の一つだった。
しかし金澤なりに気を使って、あれ以来なるべく日野の側で喫煙しないようになった。
他の生徒が居る前では互いに一歩以上近づかないのは暗黙の了解で、交わされる会話は一定以上の親しさを押し隠す。
もともと教師の中でも「ずぼら」と「親しみやすさ」で通る金澤のこと、生徒に雑用を押しつけるくらいは日常茶飯事だ。相手が日野であってもなくても不自然ではない。
けれど、ちゃんと日野に押しつけた言動には裏があって、音楽準備室で待っていろとの意味がこめられている。
そのことに気づかないほど、日野も鈍くはないつもりだ。
「でもなぁ……」
準備室に設えられた棚に書類を置いて、椅子に腰掛ける。机に肘をついて顎を両手に乗せた。
金澤が使う机、そして常時見ているだろう景色が少し高めの椅子から望める。
ぎっしりと書類やら本やらが煩雑に詰め込まれた本棚や譜面台等の備品の並び、そして日野が在籍する普通科の楓舘が見える窓辺。
こんな風に眺めているだけで、胸がきゅっと詰まる。
早く部屋の主が帰ってこないかなと待ちわびながら、刻々と赤みを帯びる日差しに染められた部屋を独占している高揚感も味わっていた。
子供っぽい独占欲とでも言えばいいだろうか。
あの人が関わるものすべて、少しでも感じていたい。
表だってはっきりと告げることのできない恋だから、尚のこと。
そんな気持ちまで見透かされているのだろうか、と思うと切なくなる。
驚かせてみたいなんてまさに幼稚な悪戯だけど、少しでも鉄壁の防御を切り崩してみたい乙女心でもあるのだ。
相手はいつも飄々とのらりくらりと投げつけた言葉をかわすような難敵で、いつも慌てたり顔が赤くなったり恥ずかしくてじたばたするのは自分ばかり。
年齢も経験値も圧倒的不利な状況を少しでもひっくり返せたなら。そんな淡い希望は常に打ち砕かれる。
そして、奴は間違いなく解っててやってるのだ。
あーあ。ほんと、厄介な相手。
大きく伸びをして、広い椅子に背を預ける。身動きする度ぎしりと軋みを上げるが、そんな使い込まれた椅子でも金澤のだと思うだけで愛おしい。
靴を脱いで椅子に足を乗せ、両膝を抱えた。それでもまだ余裕があるほど座面は広かった。膝に顎を乗せて胎児のように丸くなる。
このまま眠ってしまおうかとさえ思う。
「おーい、日野? コーヒーあるから適当に」
「あ、先生」
のんびりとした声と同時にドアが開いた。若干猫背ぎみに現れた金澤の顔が、日野の方に向けられる。
その表情がぎょっとしたように固まった。
「先生?」
「ん、いや……」
金澤はやけに不自然な仕草で目をそらす。
主が帰ってきたので日野はひょいと立ち上がった。少しほっとしたように金澤が扉を閉める。
「コーヒーですか?」
「あー、うん。適当に入れてくれや。あ、俺の分も」
「はーい」
ここに入り浸るようになって最初にしたことと言えば、日野専用のカップを持ち込んで金澤の隣に並べることだった。周囲に怪しまれないよう、ごくごくシンプルな形をしつつ微妙なラインで来客用に見えない部類のものだ。
かぐわしい湯気をたててコーヒーを二つのマグカップにそそぎ込み、日野は自分用にクリームを取り出す。
背中越しに「そういえば」と前置きして金澤が声をかけてきた。
「俺の椅子に座るの、禁止な」
「ええっ、なんでですか?」
乱暴にコーヒーを机において、椅子の主をきっと睨みつける。
これで何個めの禁止事項だろうか。春先に行われた学内コンクールから今日まで、二人で取り決めた約束ごとは既に二桁に上っている。
「お前、この部屋は生徒も教員も出入り自由なんだし、誰が急に入ってくるかも解らんし。そんな所でくつろぐなよなぁ」
「それはっ」
言葉につまり、少しうつむく。
確かに気を緩めすぎたかもしれない。しかし、この部屋にいられる幸福を味わっていたいというのは欲張りなのだろうか。
唇を噛むと、金澤はため息をついて頭を掻いた。
「それじゃあ、譲歩。ちょっと座るくらいならいいけど、さっきみたいにくつろぐのは禁止。解ったな?」
「……はーい」
不満げな声を上げて言外に主張しつつ、素直に聞いたふりをする。
それで空気が多少なりとも緩和されるのなら安いものだ。
本気で納得したわけではないが、「よし」と頷いて笑う顔には敵わない。
これ以上禁止事項を増やして面倒になるよりは、どこかで妥協と折衷を受け入れるしかないだろう。こんな所で意固地になってもこちらにメリットはない。
パイプ椅子を持ち出して金澤の対面に座った。傍目には音楽教師に呼び出された生徒、の構図に見えるだろう。コーヒーは余分だが、書類作成の手伝いとその褒美という言い訳なら用意してある。
隙の無さが少し切なくて、日野は真っ直ぐ金澤を向かず、斜めに体を動かして窓の外を見た。
沈黙の間にも音楽室からオケ部の練習が聞こえてくる。学院の放課後に静寂という言葉は一切当て嵌まらない。
斜めに差し込む陽に透けて金色に煌めく髪の毛と白い横顔を見つめる。
「……少しは男心を解ってくれよ」
「え?」
「何でもない」
コーヒーを飲むふりでごまかしたが、日野には聞こえなかったらしい。
少しは聞いてほしいと思って独り言に紛れ込ませた本音だった。
自分が座る椅子に膝を抱えるような体制で座られたらどう思うのか、あまり考えてなかったらしい。
しかも、金澤の目線から何が見えていたか、なんて想像すらしないのだろう。そういう幼さ故の無防備さが少し恨めしい。
今の距離を保つことで精一杯で、多くを望まないと言い聞かせながら吹き出てくるものを一つずつ潰していく。
厄介なことに、それは独占欲とか嫉妬とか不安や心配など様々な意味を含みつつ、擬態して別の言葉の中に潜伏することもできる。そのまま自分を誤魔化すことまでできた。
例えば学業の質問を持ち込んだ生徒と相対するような状況なら問題なんて無い。
けれどその相手に特別な感情を抱いてしまったら、様相は一変する。根底から覆される。
だから慎重に距離を保っていたのに。
判っていたつもりだったのに、どこで間違えたのだろう。
この自問自答は既に何十回と繰り返してきた。そろそろ飽きてもいいだろうが、毎回の如く頭を悩ませる。
「そういえば先生」
「んー?」
「私が近寄ってくるの、よく解りますね」
「あー……」
「さっきだって、声も掛けてないのにばれたし」
「あれな。まー、音楽教師の耳をなめるな、って所だな」
「何それー」
日野は不満げに唇を尖らせた。
愛らしい仕草に思わず口元が緩む。が、日野は笑われたと思ったのだろう、むむっと目をつり上げて「狡い」だの何だのと呟いている。
「そりゃー、お前さんの足音くらい聞き分けられんでどうするよ」
それが恋しい相手なら尚のこと。
弾むような軽い足音が真っ直ぐ自分へと向かってくる。嬉しさを抑えきれない様子が可愛らしくて、本当なら抱きしめてしまいたいくらい。
いつだってその音を待ち焦がれているのだ。
「私、そんなに凄い音立ててますか?!」
憤慨したような日野の抗議に、金澤は今度こそ声を上げてげらげらと笑った。
【終わり】
Comment
振り回してるようで振り回されてる。
初出:2010/04/06