愛と恋の違い
今までそんなもの考えたこともなかったのに
夕食後の寮内は騒がしい。
食堂に残って談笑する者、ラウンジでゲームに興じる者、携帯で長々と喋る者と様々だ。
数少ない女生徒はそこに居るだけで目立つが、過剰に干渉する者はいない。
無視するでもなく、互いの存在を認識していながら己のテリトリーを最低限に守る。
向こうから話しかけて接触を試みるなら無条件で受け入れ、個々の自由を制限しない。
来る者拒まず、去る者追わず。菩提樹寮の空気は誰が入ろうと一貫している。
小日向かなでが入寮した当初こそ衆目の的で人だかりが出来たものだが、その光景が今は昔と懐かしく思えるほど寮の日常に溶け込んでいた。
コンクールの半ば、至誠館や神南の生徒たちが宿泊するようになってからは騒々しさが倍に跳ね上がったが、原則として各々好き勝手に行動している。
偶に宿題やバーベキューなどイベント事で一致団結して盛り上がるが、今晩は糸が緩みきったようだった。
そんな空気をかき集めて凝縮したようにかなではラウンジの片隅でぼんやりしていた。
一人掛けのソファに体育座りして膝を抱え、視線はどこへとも定まらない。
胸と腿の間に雑誌が挟まっているがそれを読んでいるわけでもない。
「どうした? 我が盟友よ。何をそんなにぼんやりしてるんだ?」
突然背後から秀麗な顔が現れ、頭の上からかなでを覗き込んでくる。長い髪がさらさらと音もなく降ってきた。
かなでは驚くというより夢から覚めたような顔で、パチパチと瞬きを繰り返す。
「あれ? ニア?」
「なんだ、今まで目を開けて寝ていたのか? 夢でも見たような顔をして」
「ん、別にそういうんじゃないけど」
ニアの視線がかなでの顔からその下に移動した。
「ん? これは」
「あっ……」
かなでの胸に抱えられた女性向けファッション雑誌は、ごくごく普通の女子高生なら愛読していても可笑しくはない物だろう。
しかし、友人に奪い取られてかなでは大いに慌てる。
「ふーん、絶対恋愛主義、カレを落とすファッション&テクニック……」
「ちょ、ニア、返して~」
奪い返そうと伸びてくるかなでの腕をひょいひょいと面白いようにすり抜け、ニアはぺらぺらと無遠慮に雑誌を捲る。
「ほうほう、片想いの相手を射止める10の小技ねぇ」
「やだやだ読まないで~」
悲鳴のようなかなでの声が響く。さすがにニアも驚くほどの大声で、しかし発した当人はそれどころではない。
ニアが動きを止めた隙に取り返し、雑誌が折れ曲がるほど強く胸に抱きしめた。
「おい、かなで?」
「どうかしたのか?」
珍しく女子が起こした騒動に、如月兄弟までがラウンジに顔を出す。
「な、なんでもないの! ちょっと、ニアこっち!」
「気にするな、女子は内緒話が好きなんだ。覗き見なんて野暮はするなよ」
慌てたかなでがニアの腕を引っ張る。ニアは集まってきた面々にひらひらと手を振り、二人はテラスへと消えた。
「は~、もう、焦った」
かなでは大きく息を吐く。
ニアは呆れたようにかなでを眺めた。
「なんだ、そんなに読まれたくなかったのか? だったら部屋に戻って読んでいれば良かったのに」
「それは……そうなんだけど」
「大体な、その手の雑誌に載るような文言は本気にするもんじゃない。テクニックなんて言ったって、人間は十人十色だ。その通りに実行したって、通用しない事はざらにあるぞ?」
「うん……それも判ってる」
ぎゅっと胸の雑誌を握り締める。
「書店で見かけて、ちょっと買っちゃったの。読んでみても、何だか別の世界のことみたいで」
「それはそうだろう。他人は他人、自分は自分だ」
「でも……!」
ニアを振り仰ぎ、しかしかなでの視線は弱々しく下に落ちた。
言い募ろうと出かかった声は喉につっかえてそのまま消える。
「……ふふ、可愛いな」
「え?」
「恋をすると女は綺麗になると言うが、強ち俗説でもなさそうだ」
唐突にニアが笑った。
嫌な笑い方ではない。優しく包み込むようなもので、かなでの眉間の皺が解けていく。
ニアはふと思案するように視線を逸らし、顎に手を当てた。
「ふむ、東金千秋か。確かにアイツは一筋縄ではいかない相手だな」
「えっ、どうして?」
心に思い描く人物をぴたりと当てられて、かなでは驚いたように目を丸くした。
「どうしてもないだろう。昨夜の優勝祝賀パーティで熱烈なダンスを見せつけていた癖に」
「あ、あれはっ……」
全国学生音楽コンクールが終わってまだ一日だ。慌ただしい日々が終わって日常を取り戻したと言っても、かなでの頭は状況に追い付いていなかった。
トロフィーを届けに学校へ足を運んだ後は完全オフとなって元町通りへと足を伸ばすが、特別何をする気にもなれない。
空っぽになったように呆けた頭に過ぎるのは、昨日起きた出来事の様々な場面だった。
決勝の緊迫した舞台とそこで演奏した一つ一つの音色を細かく覚えている。アンサンブルメンバーの音も、息遣いや仕草、癖までも詳細に。
不思議と観客席の様子は記憶に無かった。天井から降り注ぐスポットライトは眩しいくらいだったけれど、意識はなぜかその他まで白く塗り潰してしまったように曖昧だ。それほど集中していた、ということなのだろう。
鳴り止まない拍手喝采は今でも耳に残っているし、手にした優勝トロフィーはとても重く感じられた。
部員達に担ぎ上げられもみくちゃにされて尚も体中から喜びが溢れ、どうにかなってしまいそうだった。
そしてその後。祝賀パーティでドレスアップしたかなでは東金千秋とダンスを踊った。
とろけてしまいそうな甘い台詞を豪雨のように浴びて、足元がふわふわと浮いているような心地を味わった。
「わざと見せびらかして、面白かったぞ。お前は気付いていないだろうが、他の男達の顔色と言ったらもう阿鼻叫喚とはこの事かと」
「で、でもね。なんか、私……」
楽しそうなニアの述懐を遮り、かなでは不安に揺れる瞳を伏せた。
信じられないの。
まだ夢の中にいるような気がして。
小さく小さく吐き出された本音は、今日一日中考えていたことだった。
東金が自分に向ける言葉も感情もまるで別世界のようで実感を伴わない。
なのに今、東金のことを思い出すだけで胸がズキズキと痛んだ。
息が詰まったように苦しい気持ちに戸惑う。居座りが悪くて落ち着かない、何かに急き立てられるような気がした。
少しでも何かを掴みたくて、ふらりと立ち寄った書店で目についた雑誌を買う。
なのに、読んでみてもまるで頭に入らない。
自分の頭がおかしくなっちゃったのかと疑うほど、考えがまとまらなかった。
片想いの相手を振り向かせると言ったって、今の状況は片想いではないだろう。
かと言って恋人かと問えば、何と答えようもない。
そうなのかもしれないが、まだ何もない二人なのだ。
キスとか何とかは生々しくて記事を読むことさえ出来なかった。
「東金が気になるんだろ?」
「それは────そうなんだけど」
セミファイナルで出逢ってから決して長くはない日々だった。実際あっという間だったというのに、なんて濃密な時間を過ごしただろうか。
「ソロで優勝したとき、とても嬉しかった。もっと音を聴いていたいと思ったの。でも……」
「なるほど、お前は愛情は知っていていても、恋情には慣れてないのだな。」
ふわと頭上に何か触れた。
よしよしと撫でるそれはニアの細い手だった。
「まぁ、お前の周囲にいた男があの如月兄弟だった事を考えると、それも仕方ないのかもしれないがな」
「べ、別に律くんと響也はそんなんじゃ」
「お前のその免疫の無さの話さ。……な、東金千秋」
「……え?」
台詞の後半はかなでの後ろに対して発せられた。
その名前にかなでの心臓はどきりと大きく鳴った。
恐る恐る振り向くと、開けっ放しのガラス戸に凭れ掛かった東金千秋が居た。
真っ直ぐな視線がかなでを貫き、それだけでもう頭が真っ白になる。
「ほら、行ってこい。自分の感情を信じて行動すればいい。この雑誌は私が預かるから」
かなでの腕から雑誌を抜き取り、ニアがトンとかなでの背を押した。
「じゃあな、おやすみ」
「……あ、うん、おやすみ」
かなでの返事は小さく頼りない。
ラウンジに入って少し振り向くと、ガラス越しに東金とかなでの二つ影が見えた。
互いに見つめ合う。しかしかなではすぐに俯いてしまうし、そんなかなでを見つめる東金からは普段の強引な態度が消え失せていた。
ニアは呆れたように微笑む。
「何だ、まだ距離があるな、あの二人は。ふふ、前途多難だな」
本気の恋だからこそ立ち竦んで戸惑う。
それでいい。二人の関係は、二人にしか築けないのだから。
衆目を集めたいがために過激なだけの文言で人を煽る胡乱なマニュアルなぞ、読んだ所で百害あって一利もない。
「がんばれよ、我が盟友。時は金なり、だ。時間は限られているんだからな」
今度こそ二人に背を向けて遠ざかる。
夏の夜空に秋の気配が近付いていた。
【終わり】
Comment
スペシャルの観覧車を含め、東金とキスするのは珠玉EDで通常は未遂、と妄想して。
初出:2010/03/21