笑顔でいたいから
あなたが好き
だから、今は笑顔でバイバイ
「私、やっぱり神戸に行くことはできません」
その台詞を言うのにどれくらいの勇気が必要だっただろう。
上手く言える自信なんてこれぽっちも無かった。
けれどちゃんと伝えなきゃと足を踏ん張る。
相手の顔を見る勇気は流石に挫けてしまって、視線はきっちり結ばれたネクタイの辺りを彷徨う。
まっすぐ目を見るなんて、太陽を直視するようなものだ。
彼の視線はいつも突き刺すように鋭いから。
「かなで」
「私、地元はここじゃなくて遠い、田舎の方なんですけど。でも一念発起で出て来たんです。ここでしか掴めないものがあるんじゃないかって。それでオケ部に入って……優勝できて。でもまだまだやりたいこと、沢山あって」
喉が干上がったようにカラカラだった。
言いたい事は次から次へと溢れて止め処もなく、言葉がいつになくごちゃごちゃになる。
それでも精一杯の想いをぶつけるしかない。
今の私に出来ること。
「それを途中で放り出すなんて出来ません」
迷いに迷った。
神戸に連れて行くという彼の台詞はとても魅力的だったから。
側に置いておきたいと言ってくれた。それが例えばペットを愛玩するような種類の感情から吐き出された言葉でも構わない。
神南の土岐や芹沢とも仲良くなったし、音楽教育は最高水準だと言う。
何よりも、行ったらきっと楽しいだろうと想像できた。
それくらい東金千秋という人に惹かれていた。
けれど地に足を着けて考えてみたら、やはり無理がある。
星奏に来てまだ二ヶ月と経っていない。まだまだやりたい事があって、覚えたいことも山ほどあった。
それは神戸でも手にはいるのかもしれない。
けれど最初に選んだ星奏を蹴ってまで行くことは中途半端だと思った。
その選択が彼との別れになると判っていても。
「……やっぱりな。お前ならそう言うと思ってた」
暫しの沈黙の後、東金のそんな言葉が溜息と共に吐き出された。
「え?」
やっと目線を上げて顔に行き着く。
日に焼けた精悍な顔立ちに苦笑を浮かべ、彼は真っ直ぐかなでを見ている。
「どんなに言葉を尽くしたって叶わないことがあると知ってたつもりだが、改めて断られるとへこむもんだな」
「ご、ごめんなさい」
「謝ることはねぇよ。それに」
両手をすくい取られ、大きな手に包まれる。骨張ってゴツゴツしていて筋の浮き上がった、けれど暖かくて優しい綺麗な手だと思う。
そしてすっぽり包まれてしまった自分の手がこんなにも小さかったのかと改めて驚く。
「こうして想いが繋がってるって確証がもてたから、無理強いはしない」
彼の親指が手の甲をそっと撫でた。
そんな風に触れられる経験のない私は、ひたすら恥ずかしくなって俯く。
頭の上からくすくす笑う声が降ってくる。
「離れてる間に、そういう所はもう少し成長してほしいもんだな」
「そういう所って」
「ほら、俺の目を見ろよ」
「え?」
顔を上げると思ったより近くに彼が迫っていた。
「ったく、自分からキスしてくるくせに、何恥ずかしがってんだ」
「だってあれは……」
「でも、ま、そんなお前だから可愛いんだけどな」
「も、もう、東金さん、からかわないで」
「ホントのことだろ」
言いながらも彼は面白そうに笑ってる。
つられて自然と笑みがこぼれた。
「そうそう、そうやって笑ってろ」
そして指から力が抜け、二人の手は離れた。
菩提樹寮の門は来る者を受け入れた時と同じように去る者を見送るために開かれる。
他の寮生たちと別れを済ませ、今は東金と向かい合って立っていた。荷物は先に送ってしまったらしく、彼の荷物と言えばヴァイオリンケースが一つだけ。
同じように身軽な土岐と芹沢は、気を使って距離を取っている。
「それじゃ」
「はい。……メールしますね。あと電話も」
「ああ。お前も星奏で頑張れよ」
「はい、東金さんも」
「……ああ、そうだ」
「え?」
「東金さん、じゃなくて名前で呼べ。いいな」
「えええっ」
「今度逢う時までの宿題な」
「……もう」
人を困らせることばかりで、けれど本人は少年のように笑う。
でもやられっぱなしなのも悔しい。
「宿題なんて残しません。もう、今言います、千秋さん!」
「……この馬鹿」
前髪を掻き上げ、彼は苦笑する。
「離したくなくなるだろ、そういう事言ってっと」
「……離れてても、ずっと思ってて欲しいですから」
「は、言うじゃねぇか。お前もそうしろよ」
「と、当然です!」
ムキになって言い返すと、唇に人指し指が押し当てられた。
「約束だぜ? ちゃんと守れたら次逢った時に沢山キスしてやるよ」
「~~~~っ」
どうして貴方はそう恥ずかしい台詞をぽんぽん言えるんですか!
言い返したくても指で唇を塞がれて出てこない。
トドメとばかりに彼はその指を外すと、片目を瞑って自身の唇に当てた。
ああもう、なんて恥ずかしい。
「じゃあな、かなで」
華やかな空気を纏った人は最後まで自信に溢れた笑顔で去っていく。
その背中を見送りながら、心に誓う。
きっとこれから心が潰されそうなくらい寂しくなったり辛くなったりするのだろう。
けれど挫けていたらやっていけない。
次に会った時にがっかりされないような自分でいたい。
胸を張って隣に並べるように。
だから今はバイバイ
また逢うその時まで──────
Comment
東金がかなでに対して神戸行きを本気で口説いたら、こんな展開になるんじゃないかと妄想して。
初出:2010/04/08