多くは望まない

今この瞬間に笑うその顔を見ていたいから


全く予見しなかった事態に不意を衝かれ痛手を喰らった気分、とでも言えばいいのだろうか。
高校最後の夏休みともなれば浮かれてなどいられず、全国一を目指すなら尚のこと気を引き締めて臨んだはずだった。
少なくとも七月は予定調和のように物事が淀みなく進み、順調に駒を進めていたと思う。
何もかもがひっくり返されてしまったのは8月に入って以降だろう。
とはいえ、平坦すぎる道に面白味を感じないのも性分で、立ちはだかる壁が高ければ高いほど気分が高揚した。
横浜で行われる本選が、東金千秋の楽しみに見合うものだと期待して乗り込んだ。
そうして出逢ったのが星奏学院オーケストラ部の面々で、小日向かなでというヴァイオリニストだった。敵として認識するには力不足だと感じた。

勝負事において絶対は無い。そう判っていてもどこかで優位を感じていたのだろう。勝つのは俺たちだと。
迎えたセミファイナルで全てをひっくり返され、いっそ清々しいほどだ。
譜面通りになぞったような演奏で縮こまってばかりいたと思っていた音は、花弁の一枚一枚を開くように輝きを増した。
太陽の光を存分に浴びて鮮やかに咲き誇るヒマワリのような存在感。
親しみやすく万人から愛される花。

出逢ってからの十日ほどの日々を振り返れば、その芽は既に伸び始めていたように思う。
そして、逢う度に挑発と憎まれ口を投げつけながらも直向きな姿勢に好感を抱いていなかったか。
打たれ強さと敵に立ち向かう根性を好ましく思っていなかったか。
子犬が短い足で懸命に立ち上がろうとする様を見ているようだとも感じていたけれど。
踏ん張って威嚇の唸り声を上げても所詮は子犬と侮ってもいたけれど。

憑き物が落ちたような気分で夜の横浜に繰り出す。
日が落ちたというのにじめじめと肌にまとわりつく暑さは如何ともし難いが、不思議と気分が良かった。
そして今夜は花火大会が催されるという。見る間に駅という駅から人が溢れて流れ、交通規制で道が封鎖されていく。
祭が始まる前の騒然とした空気は嫌いではない。
どこもうんざりするほど人だらけなのも、花火見物の宿命だろう。蓬生あたりはそれを嫌ってさっさと寮に戻ってしまったようだ。
さてどうするか、と思案は数秒で事足りた。
今、会って話をしたい人物なんて一人しか思い浮かばない。
早速人混みの中に当該人物を捜すが、広範囲に渡ってみっしりと人間が詰まった歩道を見ていると砂漠の中から砂金を見つけるような絶望的な気分に陥る。
しかし、不思議と諦めて帰る気にはならなかった。
途中にすれ違った星奏学院の生徒に声を掛け、見かけたという証言を得て方向に当たりを付ける。
案の定、見知った明るい髪が人の波に紛れ、ふらふらと漂う。
どこへ行くともなく流されているそれを捕まえてみれば、何となく歩いていたと言う。

一人で花火見物など味気ない。聞けば彼女も一人のようで好都合とばかりに連れ出す。
頭に叩き込んだ市内の地図を辿り、人気のない高台へと辿り着いた。
真っ暗な空を埋め尽くす大輪の花火に、小日向かなでは嬉しそうに笑った。
きれいきれいと同じ言葉を連呼して子供のようだ。
ドンと腹に響く音を立てて咲いた花火は次々と花びらの色を変えて散っていく。
「あ、ほら見て」
くいっと東金の袖を引っ張り、小日向が空を指差した。
その先で、大きな花火が散った瞬間小さな花が一斉にパチパチと咲いていく。
「すごーい」
まるで親兄弟にでもするような仕草を全くの無意識に行っている。
つい先程まで敵として相見え、戦った相手に対して気を許しすぎじゃないのか。
呆れ半分、むず痒いような妙に照れ臭い気分が半分。

「花火を讃えるお前の語彙はそんなもんか」
「え、そんな事言われも」
つい憎まれ口を叩いてみると、眉毛をハの字に下げて困ったように首を傾げる。
一度敵という認識から解けてしまうと彼女は徹底的に無防備になるようだ。
そもそも小日向は競っているという認識ではないのだろう。
自分に足りない物は何か、彼女はずっとそれを模索していた。
東金が幾つか与えた助言が後押ししたと言うのなら、その時から負けは決まっていたのかもしれない。
唐突にそう思った。
誰かと争うための舞台ではなく弾くことが楽しくて仕方がない。小日向はずっとそんな顔をしていたのだから。

「キラキラしてるとか、次々に色が変わって面白いとか?」
「子供みたいだな、お前」
「う……よくそう言われます」
女としての範疇と言うなら、彼女は対象外だった筈だ。
好感を持てると言っても男女のそれではなかったつもりだった。
けれど塵も積もれば何とやら。
折り重なって厚みを増した気持ちを好感の一言で片づけるには足りなくなっている。

「ま、こればっかりはどうしようもねぇか」
「?」
「お前はお前のままでいいって事だ」
小首を傾げて東金を見上げる小日向のきょとんとした顔を見て苦笑が洩れた。
見つめ合う視界の端で花火が散っていく。
つい先程、花火ばかり見るなと釘をさしたばかりだと言うのに、彼女は再び夜空を見上げる。
「わぁ、凄ーい! いっぱいの花火! クライマックスなのかな」
「たぶんな」
次々と瞬きの暇すら与えないとばかりに色とりどりの花火が乱発した。
夜空を埋め尽くすように光が迸る。
一際大きな白い白い花火が咲く。七色に変化しながらそれは黒い空に焼け跡を残して散った。
きらきらと目を輝かせてみていた小日向の顔から笑みが消える。

「終わっちゃった」
「寮に戻るぞ。今日はもう疲れただろ」
祭の後はいつも寂しさが残る。夜空に残る白煙が名残惜しさを象徴するようだ。
しかし、どんなに名残惜しくても留まる事は出来ない。時間を止めたいと、どんなに願っても出来ないように。
背を促すと、小日向は素直に頷いた。
「はい。……東金さん」
「何だ?」
名前を呼ばれて振り向く。真っ直ぐ東金を見つめる瞳に出くわし、心臓が一つ大きく鳴った。
「今夜はありがとうございました。一緒に花火を見て、とても楽しかったです」
ぺこっと頭を下げ、小日向は満面の笑みを浮かべる。

後日、恋に落ちた瞬間というものがあるのならそれはいつだろうと何度も反芻した。
セミファイナルの舞台であることは間違いないが、それはまだヴァイオリニストとして認めた程度だと思う。
止めを刺されたという意味ならまさに今、この瞬間なのかもしれない。

この笑顔を見ていたい。今は何も望まないから。
だから、せめて寮に帰り着くまでは、と。
心の底からそう思った。


Comment

東金が恋に落ちたタイミングはどこでもいいと思うけど、花火の段階で既に甘かったのでそこに設定してみました。
もちろん、ほっぺにチューで落ちたのもアリかな。

初出:2010/04/08

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