君という名の
表示される名前、ただそれだけで
遠距離恋愛なんて柄じゃないと、少なくとも夏休み前までは思っていた。
側に居たって音楽や学業を優先してほったらかしにすることがあるくらいなのに、何を好きこのんで距離の離れた相手にメールだの電話だの手紙だのと気を使わねばならないのか。
寂しいなんて他にやることがない暇人が扱うべき部類の感情で、少なくとも自分が持つべきものではない。
とか何とか、結局自分に縁がないものとして見向きもしなかったわけだが、夏休みが終わって横浜から帰ってみればまさに絶賛遠距離恋愛中となっていた。
知らないから好き勝手言えたのだ。
関係ないから興味ないし関心を寄せることなく実感もない。当然だ。感情なんてものは字面を読む以上に、自分の身に降り掛かってみなければ知覚できない類のものだ。
数多の創作物を読み耽った所で何が判るだろう。それは情報となって蓄積されるけれど、関わらずに居たらずっと他人事なのだ。
例えば今まさに携帯を握り締めて着信が無いか何度もチェックしている己の指なんて、まるで滑稽ではないか。
先程来たメールに返信し、それで用は済んだはずだった。けれどまだ何か足りなくて手放せない。
いい加減夜も更けてきたのだから、彼女だってもう就寝のはずだ。
返信にも「おやすみ」と入れた。
二つ折りの携帯を再び開く。ぱっと光る待ち受け画面にははにかんだ表情の小日向かなでがこちらを見ている。
そのままボタンを操作して、先程来たメールの文面を再び読み返した。
「あいつ、一々律儀だな」
挨拶から始まって今日は何をしてどんな事があって、と取り留めのない話題が丁寧な文面と実に可愛らしい顔文字付きで綴られている。
そしてソレを眺める自分はきっと他人に見せられないような顔をしてるんだろう。
鏡を確認するまでもなく口元が緩んでいると自覚していた。
けれど、何度も目にしたその文面を追っているうちに脳内で高らかで可愛らしい声まで再生されるようになると、もう駄目だった。笑い泣く表情豊かな顔文字が本人の顔に思えてきて、自嘲が洩れる。
記憶にある声だけじゃ足りない。本物の声が聴きたい。
会話を交わし、気持ちを交換したい。
何度だって確認したい。気持ちが繋がっていること。神戸と横浜に隔てられたこの距離を埋めたくて。
今、ボタンを数回押したら繋がる。どんなに物理的に遠ざかったとしても一瞬にして声が聞ける。今、この瞬間のかなでと。
しかし、便利であるほど欲もまた肥大する。あれもこれもと願って欲し飲み込もうとして際限が無い。
例えば今本当に電話したところで、受け取ってくれるとは限らない。もうすでに夢の国へ旅立っているかもしれず、それを叩き起こす真似は躊躇われた。
自分がそんなことをされたら間違いなく鬱陶しく思うだろう。
もう寝てしまおうか。けれど名残惜しくて携帯を閉じられない。
待ち受けのかなでを数秒、見つめた。
突然、着信音が響く。自室に戻ってマナーモードを解除していたのだから当然だが、虚を衝かれてさすがに驚いた。
画面には「小日向かなで」と登録された名前が点滅している。
躊躇する暇もなく通話ボタンを押した。
「かなで?」
「あの、東金さん、こんばんは。……おきてましたか?」
耳に当てた小さな機械からおずおずと遠慮がちな声が流れてくる。
それだけでこんなにも心が浮き立つ。
「ああ、起きてた。どうした? お前はもう寝る時間だろ?」
「これから寝る所なんですけど……寝る前にちょっと、と思って。今いいですか?」
「構わねぇよ。何だ、眠れねぇってんなら寝物語でもしてやろうか?」
「東金さんが? どんな話ですか?」
軽い冗談に乗ってくる。どうやら急用ではなさそうで、若干眠そうではあるものの声はしっかりしていた。
「そうだな、オペラのネタ、トリスタンとイゾルデなんてどうだ?」
「わ、そうきましたか。でもアレって凄いドロドロの話ですよね」
「ロミオとジュリエットが青臭く見えるくらいだしな」
くすくすと笑い声が聞こえる。
少しでも長く話をしていたい。
けれど時は残酷に過ぎ去り時計の針は天辺を指差して重なろうとしていた。
話題が尽きた頃に、かなでが切り出した。
「あの、突然すみませんでした」
「なんだ急に。俺は構わないぜ」
「でもあの、本当に声を聴きたくて電話してしまったんです。迷惑じゃなかったですか?」
細くとぎれがちな声だった。きっと置き去りにされた迷子のような顔をしてるんだろう。容易く想像できる。
「────馬鹿。迷惑だったら雑談なんてしないでさっさと切ってる」
「よ、よかったぁ」
ほっと息をつくその息遣いまで聞こえて堪らない。
「あの、またこうして電話してもいいですか? あ、もちろん、こんな遅くにならないようにしますから」
「勿論。大歓迎だ」
「よかった。────あの、千秋さん」
改まった声が名前を呼ぶ。以前から口を酸っぱくして名前を呼べと言い聞かせたその効果がやっと現れたのだろうか。
口元を緩め、しかし声は平静を装って聞き返す。
「何だ?」
「お、おやすみなさい」
緊張なのか若干上擦った声が聞こえ、「ああ、おやすみ」と囁き返す。そうして電話は切れた。
握り締めて生ぬるくなった携帯をなかなか手放せず、しばし眺める。
すると一通のメールが再び受信された。かなでからだ。
まだ何かあるのだろうか。メールを開いてみる。
『千秋さん
最後に、一つだけ。
さっき貰ったメールに「おやすみ」ってあったから
私も「おやすみなさい」って言いたかったんです。
また、電話しますね
小日向かなで』
やられた。完敗だ。
物凄い敗北感が沸き上がって、叫び出したいくらいの気分だった。
前髪を掻き上げ、目元を覆う。
顔が熱く火照っていて、ますますもって他人に見せられない顔になっている。
「まったく、アイツは」
心の中全部を奪い尽くしてもまだ足りないと言うのだろうか。
これ以上ないというくらい囚われてしまったというのに。
策略とは全く無縁な天然の言動がどれほどの力を持つのか、きっと当人は何も知らないだろう。
今度はこちらから電話して驚かせてやらないと気が済まない。
ああそうだ。アイツに金銭的負担をかけるわけにはいかないから、俺のポケットマネーで専用の携帯でも送り付けてやろう。
他の誰も入り込めないように。
横浜で出逢った至高の宝。
連れて帰ることは叶わなかったが、互いの気持ちを確認して遠距離恋愛真っ最中。
東金千秋は楽しそうに笑うと、携帯電話を充電器に差し込んだ。
Comment
東金は金持ちだしさっさと専用の携帯押し付けてそう。
初出:2010/04/15