苦しくて苦しくて
初めて知った苦しみのわけ
疲れた足を引きずるようにして通学路を進む。
頭上の空は茜色に染まり、街灯もぽつぽつ灯り初め、通りがかった住宅から夕食の準備と思われるカレーの匂いが漂い、街は夜を迎える支度を始める。
ああお腹減ったなぁと小日向かなでは溜息を吐いた。
今日も朝から練習のし通しで、こんな下校時には疲労が肩にのし掛かる。
アンサンブルは完成に近付いていて、今日はとくに確かな手応えを掴んでいた。
ただ音階を追うだけではない独自の音色がぴたりと重なり合って音楽となる、独奏とは異なる重奏の楽しみがそこにあった。
代表選抜に始まり、東日本大会、全国大会セミファイナルと駒を進めていく間にも仲間の結束が強まっていく。
音を合わせる時の癖や息づかい、間の取り方まで把握するようになる。すると、互いの音が肌で判るのだ。
各々が生み出す音が重なり合って深みを増し、放流となって止め処もなく押し出されていく。
先頭を切るのはかなでの音で、誰よりも高らかに響き渡る力を試される。
力を込めればいいというわけでもなく、無理矢理絞り出すのでもない、衆目を惹き付ける音。1stヴァイオリンにとって必要なそれを手に入れるために試行錯誤してきた。
獲得のきっかけはセミファイナルのライバル校、神南高校管弦楽部部長・東金千秋の批評が大きい。
彼の指摘は的確で容赦なく、多少の反発を覚えながらその一言一言に重さを感じていた。鋭く本質を見抜き、暴き立てて糾弾する。
それはかなでの中にある自覚の無い不安さえ言い当てていたのだ。
薄ぼんやりと蔭っていた夢から目が覚めるような心地で、世界が違って見えた。
その言葉が魂さえ揺さぶって、奏でる音と共鳴した。
アンサンブルの仲間達はそんなかなでを信じて支え続け、一つにまとまった。神南に勝利したのはその結束が大きいと、今でもかなでは思っている。
全国大会ファイナルを控え、練習は熱を帯びて厳しいものになっていた。
険しい巓と路ならぬ路を越えて見えてきた山頂は、しかし未だ雲が立ち込めている。
相手は冥加玲士率いる天音学園で、苛烈な争いになるだろうことは容易く予想できた。
互角の戦いをする為ではなく、勝つための戦いだ。生半可な覚悟では立ち向かえない。
そうして今日一日、練習漬けになっていた。
細部に至るまでのセッションを繰り返し、完成への一歩を着実に進む。
練習をさぼりがちだった響也も、どこ吹く風の大地も、神経を尖らせているハルも、そして怪我から復帰したばかりの律も、皆が同じ目標を向き集中して取り組んでいる。
疲労困憊一歩手前の状態でも、かなでの神経はどこか心地良さを感じていた。
楽しいとさえ思った。強敵を前にしていようが、皆が同じ目標に向かって団結していることが何より嬉しかった。
寮に帰れば嬉しいことはまだまだ沢山あって、まずは腹の虫を黙らせる食事が思い浮かんだ。
次に、寮生活を共に過ごす友人達で、今は嘗てのライバルである至誠館と神南の面子が揃っている。
神南の東金は、今やかなでにとって少し特別な位置にいる人物だった。
例えば至誠館の八木沢・火積・新ら5人や、神南の土岐など、友人と言って差し支えないほど交流がある。東金も友人と言っていいはずなのに、心のどこかが違和感を訴えた。
初めはライバルで、セミファイナル後はライバルを解消して練習を共にするようになり、神南へのオファーさえ口にするようになった。夏祭りを共に楽しんで、目に見えて二人の距離が縮まっていく。彼と交わした言葉の数々を思い浮かべては、鼓動が高鳴り顔が熱く火照ってしまう。
更にトドメとばかりに、つい先日のソロファイナルを思い出した。冥加との同率首位とはいえ覇者となった東金に対して、いくら舞い上がっていたとはいえ勝利のキスを本当にしてしまうなんて。前日の約束が無かったとしても、あの日は頭のネジが外れていたとしか思えない。
思い返すたびに、わーっと叫びたい気分だ。できるなら記憶としでかした事実とを黒く塗り潰して無かったことにしたい。けれど祝福の気持ちは本物で、それだけ嬉しかったのだ。
沢山、色んな物を東金から貰った。それは言葉だったり音楽で目指す方向だったりする。
その感謝が少しでも伝わればいいと思った。
まさか彼まであんなに顔を赤くするなんて思わなかったけれど。
一度頭を強く振った。
こんな顔の、こんな精神状態で面と向かっては何を言われるか。
寮に帰ったら嫌でも顔を合わせるのだから、少しでも気持ちを静めたい。
角を曲がればもうすぐだ。
気合いの為に両頬を軽く叩いた。
うん、大丈夫。
背筋を伸ばして自らに言い聞かせる。
そうして踏み出した道の先、菩提樹寮の門が見えてきた。しかし、同時に異変も見て取れる。
閑静な住宅街にあって人通りも極端に少ない道の奥に、響也あたりが評するにはお化け屋敷並みの佇まいでその大きな洋館が建っていた。
築年数も相当らしく、平均的な現代日本家屋の中にあって異様なほど目立つ。
しかし今日はその門周辺に女子高生が十数人集まっている。聞こえてくるのは黄色に塗り潰された声で、どうやら中を覗き込んで話をしているらしい。
彼女たちの制服には一貫性が無く、かなでの記憶にも見当たらない種類ばかりだ。
一体、何事だろう。疑問に思いながら門に近寄った。何の事情にしても菩提樹寮はかなでの住まいなのだから、避けようがない。
「ねぇ、あれって星奏の制服?」
「え、どうしよう。訊いてみる?」
かなでに気付いた女子高生たちは顔を見合わせ暫くこそこそ何か言い合っていたが、そのうちの一人が進み出た。
「あのぉ、ここの寮生ですか?」
「はい、そうですけど」
「あ! やっぱり!」
「あのっ、それじゃ、ここの寮に神南の生徒が泊まってるって話は聞いてます?!」
「東金くんは居ますか?!」
「土岐くんは?!」
「他の星奏生に訊いても判らなくって、本当に居るんですか?」
「千秋くんとお話したいんですけどぉ、取り次いでもらえます?」
寮生だと答えた途端に周囲を取り囲まれ、畳み掛けられるように質問が降ってきた。
かなでは目が回るような思いだ。どの質問に答えていいのかも判らない。
「あ、あの、ちょっと中に入って確認して来ます」
這々の体で女子高生の輪から抜け出した。
後ろから「あの子、本当にここの寮生?」なんて意地悪な声も聞こえてくる。
玄関ホールに逃げ込んでようやく一息ついた。女子高生たちの視線から逃れた安堵からか、体中から力が抜け、壁に背を預けて蹲った。
神南の女性ファンが急増しているのは知っていても、そのパワーに圧倒されて声も出ない。
どこからここの情報を仕入れたのだろう。その情報収集能力に恐れ入る。
しかし、東金に直接伝えるのは躊躇われた。
住宅街で騒ぎを起こすのは本意ではないだろうし、何よりここはプライベートだ。何事にも順番をつけ線引きをする人だけに、いい顔はしないのではないだろうか。
そしたら、あのファンの人たちだってがっかりするだろう。
「よう、小日向? そんな所で何してる?」
どうしようと思案していると、ふいに頭の上から声が降ってきた。
なんてタイミングだろう。何も寮に入って真っ先に遭遇するなんて。
「東金さん」
「どうした? 腹の空きすぎで動けなくなってるのか?」
こちらの心境などまるで知らず、面白そうに笑いながら近付いてくる。慌てて立ち上がった。
「いえ、あの、実は門の前に人だかりができていて、東金さんのファンだそうです」
「門の前?」
東金は扉の横にある明かり取りの小さな窓に目を向けた。そこから表の様子が見て取れる。
かなでは意外なものを見て目を丸くした。東金の表情は予想しなかったほど厳しく堅く強張っていたのだ。
「……芹沢!」
眉間に皺を寄せ、鋭い目つきで部員を呼ぶ。その声はかなでが聞いたことがないほど低く大きく、思わず肩が竦み上がった。
「はい、部長」
すぐに芹沢睦が玄関ホールに現れる。
「あいつら追い返せ。二度とここに近寄らせるな」
「了解しました」
「え、でも……」
「小日向、ちょっとこっちに来い」
玄関から出て行く芹沢の背を見る暇もなく、奥へと促された。
向かった先は中庭で、門の騒ぎは聞こえない。
台所の換気口から香しい匂いが漂ってくるが、今はそれどころでは無かった。
夕闇が刻一刻と近付く薄暗い庭に、東金と向き合って立っている。
かなでを見つめる眼差しは怖いほど真剣だった。
声を出そうとして喉に詰まる。喉がカラカラに乾いてると、今頃自覚した。
「あ、あの、東金さん」
「言っておくが、先にルール違反をしたのは向こうだ」
「え?」
東金は両手を腰に当て、深く息を吐く。
「俺達はステージに立つ人間だ。立ったからには客を楽しませる義務がある。だが、それは演奏家と客という区別の上での話だ。そこから離れたら過剰な接触してこないのがマナーでルールだろ。特に、神南のファンクラブはそこを徹底してる」
「で、でも、彼女たちは……」
「ああ、最近ファンになったんだろう。見慣れない制服ばかりだったしな」
「それが判ってるなら」
「だからと言って特別扱いは筋違いだろ。しかも、向こうはプライベートに土足で入り込もうとしやがった」
「…………」
吐き捨てるような東金の口調に、かなでは反論出来ずに押し黙った。
彼女たちと自分と何が違うのだろうか。
特別誰かのファンになって追い掛けた経験は無いから、厳密には彼女たちの気持ちを理解できていないだろう。
けれど東金を好きという気持ちなら、彼を一目でも見たいという気持ちなら想像することはできる。
そう思うと胸が痛んだ。
確かにこれはルール違反なのかもしれない。
ここで東金が出て行けば嬌声が上がるだろうし、近所迷惑にもなりかねない。
噂は広がるものだし、ここで特例を作ってしまうと連日のようにファンが押しかけてくることも憂慮される。欲望というものは得てしてエスカレートするものだ。
全て冷静に判断した結果、冷たいとも思える対応をするのだろう。
それは判っているつもりでも、感情が追い付かなかった。
「お前が追い返されたみたいな顔してんじゃねぇよ。別に気に病む必要もないだろ」
知らず俯いていた視界で、東金が一歩近付くのが見える。
「俺はお前がそんな顔する方が気になる」
「えっ」
東金の手が伸びて、かなでの手首を掴んだ。
骨張った指が握り締めてもまだ余裕があるほどその手は大きい。
かなでが抵抗するように身を引いても、その手は逃がさないとばかりに力を込める。
触れた皮膚から火傷しそうなほど熱が伝わってきた。
「向こうに同情してるのか? だったらお門違いだぜ」
「────この気持ちが同情なのか、わからないの。でも」
息も出来ないくらい胸につまるこの気持ちは何なのだろう。
先程からずっと、喉の奥を塞ぐような苦しさはどこからくるのだろう。
「小日向、お前にとっての俺は何だ?」
真っ直ぐにかなでを見つめる視線が突き刺すようだった。
目の奥に見える感情が陽炎のように揺らめいて、かなでを燃やし尽くそうとする。
「俺にとってお前は────特別なんだ」
ああ、そうか。
痛みの原因が判った気がした。
彼のその目が、焦がれるような眼差しがあまりに熱くて。
なのに、一方で冷徹に切り捨てるような決断をあっさり見せて、だから怖くなる。
この気持ちに本気になることが、怖くてたまらないんだ。
自覚した途端、それを激しく後悔した。
もう戻れない所に来ていると、はっきり判ってしまった。
Comment
東金は(特に女性関係で)シビアでドライな所があるんだろうなー、と妄想して。
初出:2010/05/15