結末はまだ知らせないで

夏が終わる前にお伽話を一つ


熱せられた陽射しの余韻が湿気と混ざり合って肌にまとわりつく。
夜の風は少しだけ涼しく感じられるものの、高ぶった気分を冷ますには不十分だった。
ふわふわと足が地から浮き上がったような気分は、何もはき慣れないヒールのせいだけではないだろう。
発表会用のドレスを着用することはあるし立食式パーティも経験があるけれど、主役としての参加など初めてではないだろうか。
落ち着かない気分で裾を手繰り寄せ、涼しげな衣擦れの音を耳にする度くすぐったいような心地になる。
手触りのいい絹の真っ白なドレスは計ったようにぴったりだった。
しかし何度も鏡を見てチェックしたのに、まだ何か足りない気がして隣の友人に問い掛けた。
「変な所ない? ちゃんとなってる?」
「大丈夫。似合っているよ」
言葉は違えど同じような問答を繰り返し、それでもまだ不安が大きい。
余りに情けない顔をしていたのだろう、ニアが堪えきれないように笑い出した。
「そんな顔をするな。今になって怖じ気づいたのか?」
「そ、そうじゃないけど」
「ほら、背筋を伸ばせ」
背中をぽんと叩かれる。
反射的に背筋を伸ばすと「うん、それでいい」と友人が艶やかに微笑む。
「綺麗だぞ。その姿を会場の連中に見せてくるがいいさ。さぞや見物だろう」
ニアの方がずっと綺麗なのに、という文言はひとまず口の中に封印した。
誉められれば素直に嬉しい乙女心だった。

しかし、勢いで会場に入ったものの、賛辞の数々を浴びるうちに自然と腰が引けてしまったのも事実だ。
パーティ会場は怖ろしいほど洗練された豪奢さをもって今宵の主賓を迎え入れ、夏の夜の熱気を孕んで小日向かなでをいいように翻弄する。
視線と賞賛の集中砲火に水から打ち上げられた魚にも等しく、適当な理由を見繕って抜け出すことさえ一苦労だった。
優勝したことは誇らしいし、演奏や格好を誉めてもらえることは嬉しい。
けれどかなでの心には今、重要案件が重く重くのし掛かっている。
「うまくやれよ」と背中を押した友人の言葉が頭をぐるぐると巡った。
うまくと言われても何をどうしていいのやらさっぱり判らない。
手にしたグラスの中身は半分ほど残っている。年齢を考慮してアルコールの類は持ち込まれておらず、ほんのりと色づいた炭酸飲料だ。
乾杯をしてから殆ど口をつけていなかった。
会場でもほとんど物を口に出来なかったというのに、不思議と空腹感が無い。
胸がいっぱいで何も入らない。
喧噪から逃れて中庭に出ると、そこは別世界だった。
薔薇の生け垣に囲まれた大きな噴水が水飛沫を上げていて、間接照明がきらきらと反射していた。
辺りには濃厚で甘い香りが漂い、それだけで酔ったような気分になれる。

特別に想う人がいると言わなくてもニアにはバレていた。
「私ってそんなに判りやすい?」
「ふふ、隠し事には向かないタイプだよ。思ったことがそのまま顔に出ているからな」
「うううー……」
両頬を押さえると更に笑みが深くなる。
「じゃあ、やっぱり向こうにもバレバレなのかな」
「さぁ、どうだろうな。それはこれから行って確認するといいさ」
確認して、それからどうなるというのだろう。
頬にキスはしたけど激励と勝利の祝いのためだ。
抱きしめられたけど事故のようなものだったし、二人の間にあるものが何かと言われたら答えようがない。
彼氏彼女なんて言われてもピンとこないのは、相手があの神南高校管弦楽部部長だからだろうか。
街角でパフォーマンスしてみせればあっという間に人だかりが出来て黄色い声援が飛ぶ。
自信に溢れ自覚的に不遜な態度を示しながら、どんな努力も惜しまず真っ直ぐ突き進むような人。
華やかで強引で尊大で、大口を叩いてもそれを実行してしまう人。
周囲を巻き込んで暴れ回る台風のようで、かなでも巻き込まれた一人だ。
もっと近くに行きたいと思うのなら、それこそ荒れ狂う波を掻き分けてでも進むしかないのだろう。
それは恋愛初心者のかなでには途方もない作業のように思えて仕方がなかった。
胸をそっと押さえて深呼吸した。

────こんな所に隠れているのは感心しないな」
突然後ろから掛かった声にびくりと肩を震わせる。
振り返ると楽しそうに微笑む東金千秋が立っていた。
薔薇の生け垣を越えて悠然と近付いてくる。それだけで様になっているのだから感心するやら呆れるやら悔しいやら。
しかし、かなでに逃げる暇を与えず、初めにそっと手を握られた。
もう片方が肩に周り、二人の距離がゼロになる。
かなでを縛るものはその手と腕だけではなかった。投げ掛けられる言葉が鎖となってかなでの心臓を縛り付けるのだ。
その口から飛び出てくる台詞は、とてもじゃないが自分では思いつかないようなものばかりで呆気にとられる。しかも超絶に甘いくて熱い。
どんな女の子でも溶かして解いて落とす力を持ち、かなでもそれに抗えない。
今頃、とんでもない人に捕まってしまったと気付いて、己の迂闊さを悔いてみても遅すぎる。
ああ、そういえば前に同じ口が「ぬいぐるみを抱きしめる気持ちが判る」とか何とか言っていたっけ、と現実逃避的な回想に逃げ込んでみても、状況は何も変わらない。

「何を迷ってるんだ? ソロで優勝した時には躊躇しなかっただろ」
「……あの時だって滅茶苦茶恥ずかしかったです」
「そうは見えなかったけどな」
片手がかなでの顎に添えられる。びくりと体が震えた。
強引に顎を持ち上げられ、視線を絡め取られる。親指がそっと唇をなぞった。
「判ってるのか? お前がスイッチを押したんだ。あんなんじゃ足りない」
顔が近付いてくる。
それはもう盛大に慌てふためき、思わず目の前の胸に手を置いて抵抗を試みた。
「そ、そんなつもりじゃ」
「無いなんて今更言わせないぜ?」
「でも────
「それとも嫌なのか?」
東金の声音が変わる。はっとして顔を上げると、甘さの消えた真剣な顔がそこにあった。
「俺が嫌いか?」
ぶるぶると首を振る。
「こうされるのは?」
再び頬に指先が触れた。遠慮がちな手つきだった。
熱く火照った顔に東金の手は冷たく感じる。
「で、でも、でも私────
「初めてだから判らない?」
言い当てられて頷くしかない。

「……馬鹿だなお前は」
揶揄の言葉は、しかしとてつもなく優しい声音に乗って吐き出された。
「お前見てれば判る。例えば今ここで無理強いしたら、泣いて逃げ出しそうだしな」
「そんなこと……」
「だから、お前に選ばせてやる。俺は何もしないでいるから、お前の好きにしろ。さっきも言ったが逃げたかったら逃げていい」
そう言って東金は両手を広げ、かなでから一歩下がる。

勇気も度胸も消え失せただただ翻弄されていたかなでは突然放り出されるように自由になった。
吹き抜ける風は生ぬるく、ドレスの裾を揺らす。
一瞬、本気で逃げようと思った。
けれど東金の視線に釘付けになる。
真剣な眼差し。熱のこもった切ないような希うような目に、ゆらりと陽炎のようなものが揺らめいて真っ直ぐかなでを見ていた。
ずきりと胸が痛む。
自分の気持ちをどんなに探った所で結論は一つしか出ない。
それなら、気持ちに従うしかない────

一歩を踏み出して、そっと踵を上げた。
肩に手を置き、精一杯背伸びした。
近付く唇を見ていられずぎゅっと目蓋を閉じ、当てずっぽうに唇を合わせる。
柔らかな、少し冷たい感触が己の唇に触れた。
びりっと唇から電気が走った気がして体が震える。驚いて手を放してしまった。
しかし、いつの間にか腰に回っていた手がかなでを支え、密着した体は離れない。
もう一度強く抱きしめられ、空を彷徨った手は東金に導かれて肩に戻る。
「随分と可愛らしいキスだったな。でも言っただろ、そんなんじゃ足りないって」
「そ、そんなこと言われたって」
「今度こそ離さない。我慢にも限度ってもんがあるんだよ」
少し赤くなった顔で東金は嬉しそうに笑う。
近付いてくる顔を見ていられずぎゅっと目を瞑った。

ニアに何て伝えよう?
晴れて恋人になりました、なんて。
恥ずかしくて死にそうになるくらい。
今は言えそうになかった。


Comment

祝賀パーティの会場、噴水とバラの中庭もいいけど、プールサイドもいい雰囲気だよなぁ。

初出:2010/05/06

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