心を預ける場所

この世でたった一つかけがえのない温もり


横浜に来て随分と日が経ったような気がするが、足を向ける地域と言えば限られていた。
賑やかな街に繰り出すのもいいし、公園で練習して人を集めるのも一興だろう。練習スタジオに缶詰になることも苦にならない。
しかし、ここ最近は見目も瀟洒で鮮麗された校舎を持つ星奏学院に赴く回数が増えたように思う。
当初こそライバル校への偵察と牽制の意味をたっぷり含んで乗り込んだ。
自らの技を見せつけて圧倒するつもりだった。
返り討ちされた今となっては踏み込む意味もないのだろう。本来ならば。
ソロファイナルも控えた今、そう遊んでもいられない。それが公園でも街角でもスタジオでもいいはずなのに、わざわざこの学院に足を運んで練習している。
理由なんて一つしか思いつかなくて、いっそ笑ってしまう。行動の根拠となる動機付けに「そういう理由」を持ってきてしまう心理的要因に対して、可笑しくもある。
女が原因で自分が変わってしまうなんて、今まで想像したことも無かったのだから。

ヴァイオリンを弾く。運指や運弓やその他細かい技術の修練は当然としても、作曲者が描いた音を読んで噛み砕き、己の手で揺るがぬ世界を構築する。それは風景や眺望と言った具体例から、情感や叙情と言った心理的メタファーの類で、観衆に対して訴える力が求められるのだ。
そんな時に一人の女の顔が思い浮かぶなんて、相当重症だろう。
今まで無かった現象に若干の戸惑いを覚えつつ、しかしそれを面白がってもいた。
何せ初めてなのだ、こんな本気で誰かに感情を向けるなんて事態は。

今現在に至るも思い描く人物と言ったら一人だけだった。
出逢って一ヶ月にもならない短い日々の中で、そう多くを知ってるわけではない。
思ったことがすぐに顔に出る単純明快さと、挑発に対して怒ったり拗ねたりところころ変わる表情の豊かさと、その場の冗談を真に受けて差し入れを作ってくるような素直さを見ていれば、当該人物の大まかな輪郭を把握することは可能だ。
人を疑うことのない単純で素直な性質、とは大凡彼女に関わる誰しもが抱く評価だろう。
だが惹かれたのはそんな判りやすい性格だけではない。一つのきっかけではあっても、ここまで傾倒する所以に当て嵌まるだろうか。
心を縛り付けて離さない力。それは引力となって強力な磁場を発し、人を引き寄せ絡め取って逃れられなくなる。
そんなものが一体どこにあるのだろう。ちっぽけな少女だと思っていた相手なのに。
体の奥底から沸き上がる感情は、どこから来るのだろう。

自問自答の末、内へ内へと潜り込んでいく思考に音が被さっていく。
音の中に感情が塗り込められて、弓を弾くごとに胸の内を吐露しているようだった。
聴衆など目に入らず、相対しているのは自分自身だ。
技術に磨きをかけ、迷いや不安を振り落とし、思い描くままに奏でる。何もかもが巻き込まれ渦となって音に吸い込まれていく。曲のうねりに身を任せて真っ白に溶ける。
やがて緩やかなヴィブラートの余韻を残して曲が収束した。
一拍分の静寂の後、歓声と拍手が湧き起こる。
いつの間にか周囲には人垣が出来ており、主に星奏の女子生徒が熱心な視線を東金に注いでいた。
少し間の悪いような居心地の悪いような気分をいつも浮かべるだろう不遜な笑顔に隠して、東金は歓声に応える。
あまりに内側を晒しすぎたせいか、首筋が痒いような心地だ。

ふいに上を仰ぎ見た。
気配を感じたわけでもなく、確信があったわけでもない。
ただ何となく、敢えて言うなら虫の知らせとでもいうような微かな予感めいたものがあって、背後にある音楽科棟の屋上へと視線を投げつけた。
柵にもたれ掛かる体勢で、ぷらぷらと外側に投げ出した両手でそのまま拍手している、小さな小さな人影。
目があった途端、彼女は驚いたように引っ込んでしまった。
しかしその一瞬だけで東金には十分だった。
ヴァイオリンを片づけ、手近な生徒を捕まえて屋上までの最短ルートを聞き出す。
他校に入り込んでおいて不躾は承知だが、気持ちが逸り自然と足早になる。
階段を二つ飛ばしで駆け上がり、最上階に辿り着いた。
扉を開く前に軽く息を整え、徐にドアノブを掴んだ。青い空が見えた途端、強い風が髪を掻き回した。
目を瞑ってやり過ごし、額に手をかざす。

そこは空中庭園と称してもいいほど整えられた空間だった。
様々な草木がプランターに植えられ目にも鮮やかだ。
昨今のエコブームに肖ったかのように樹木まで植えられ、鉄柵が無ければ学校の屋上であることを忘れさせる。
ところが、肝心の人影は皆無だった。
既に屋上から移動してしまっただろうか。首筋に浮かんだ汗を手で拭う。
流石に、ここを離れた小日向がどこに向かうのかなどと、判るはずもない。
胃の辺りがきゅうきゅうと締め付けられるような不快感を、深呼吸で抑えつける。
諦めきれない未練がましい気持ちで、歩を進めた。何か手がかりがあればと、周囲を隈無く見回す。

階段の裏側を覗き込むと、ちょうど日陰になったベンチにそれを見付けた。
小日向かなでの小さな後ろ姿だ。
ほっと息を付く。
改めて顔を引き締めると、態とらしく靴音を響かせて近寄った。
「おい、小日向」
「わっ、と、東金さん」
強めの語調で呼びかけると、小日向は驚いたように身を竦ませる。
「こんな所で何してんだ」
「え、えーとえーと、お昼ご飯食べ終わったので……昼休み?」
「……なるほど。それじゃ、俺も一休みするとしよう」
「え?」

小日向の返答を聞かず、左隣に座った。
彼女はやや逃げ腰になっており、今にも立ち上がって東金を避けようとしている。
ベンチに置かれた小さな左手を上から抑えつけるように握り締めた。
小日向はびくりと肩を揺らしたが、それ以上抵抗することもなく大人しく東金の隣に収まった。
「しばらくこうしてろ」
硬い表情をどうすることもできず、前を向いたまま命じた。
ちらりと横目に見ると、小日向は顔を赤くして俯いている。

満足げに口元を緩めると、再び前を向いた。
日陰に生ぬるい風が吹き込む。直射日光を遮る分だけ暑さは軽減されている。
東金の右手だけ熱が篭もっているが、それを手放そうとは思わなかった。
小日向も振り解こうとせず、それが嬉しくてたまらない。

二人の間に会話は無かった。
東金にも小日向にも、気の利いた会話を交わしたい気持ちは十二分にあって様々な話題を検索してみるけれど、結局喉元につっかえたまま飲み込まれてしまう。
本音も同時に吹き上がっては、同じように萎んで形にならない。
東金は演奏を聴いて拍手しながら逃げるように身を隠したことを問い質したい。
小日向はまさか目が合うと思わなくて驚いて逃げてしまったが何と言えばいいのか判らない。
けれど、手を繋いだまま風に吹かれていると、その沈黙が二人を優しく包んでいるような気になった。

不思議な気分だ。心が満たされているのが判る。
見上げた空は、先程見たものよりずっと青が濃いような気がした。
雲は焼け付くように白く輝いてハレーションを起こしている。
清々しいような、憑き物の落ちたような気分だ。胸に淀んだ様々な文言が煙のように立ち上って掻き消える。
こうしているだけで幸せなんて、決して口に出せないけれど。

何がきっかけでどんな経緯で好きになったのか、それは然ほど重要な事柄ではない。
相手の姿を見た瞬間に、そして相手が傍に居る、それだけで好きと思うこと。それが何より大切なのだと、目が覚めるような心地で感じた。


【終わり】

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セミファイナル後、東金がたまーに星奏の屋上に居たりするので、その辺りで妄想。

初出:2010/05/20

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