差し出された手

その手が光へと導いてくれる


星奏学院の門を抜けて、小日向かなでは腕を組んで考え込む。
今日学院に出てきたのは校長への優勝報告と、トロフィーを部室に設える儀式のためだった。
部員同士ジュースで乾杯したり、かなでの友人であり報道部所属のニアが入り込んで写真を撮ったりと賑やかだったが、現地解散の後は時間を持て余す事態となった。
「部室に行って原稿起こさないと」
ニアはそう言って立ち去った。
響也は仲良くなった男子部員と遊びに行くと言っていたし、律は教師に呼ばれて職員室に行ってしまった。大地は受験生に戻って勉強と言っていたし、ハルは家の用事があると言う。
仲良くなったクラスメイトやオケ部の女子部員は学校に出てきてないので、わざわざ呼び出すのも気が引けた。
さて、どうしよう。このまま寮に戻っても、半日以上何もすることがない。
寄り道して、買い物でもして帰ろうか。しかし、いい加減財布の中身が厳しい月末だ。今月は多忙な上に様々な出費があって余裕が無い。仕送りされている身分で贅沢などできるはずもなかった。
真昼の太陽は容赦なく頭上を照りつけ、いい加減お腹も空いてきた。
仕方ない。一度戻ってどうするか、考えよう。

「おい、小日向?」
寮への道をとぼとぼ歩いていると、後ろから声がかかった。
振り向いて顔を見るまでもない。
容姿から声、存在感に到るまですべてに華やかなオーラをまとった人間というものを、初めて目の当たりにした人物だった。
星奏学院に入学してから、たとえば芸能人のようなカッコイイ先輩やキリっと凛々しく綺麗な後輩など、容姿端麗な人物と巡り会う機会はずっと増えた。
しかし、他を圧倒して光輝く太陽のようなオーラをまとう人間など、そうそうお目にかかれるものでもない。
「東金さん」
「こんな所でふらふらして、どうした?」
彼はまさに真夏の太陽を体現しているかのようだ。今は、ニヤリと少し意地の悪い笑みを浮かべてかなでを観察していた。
「えーと、部室に用事があって学院に行って来たんですが、終わったので寮に帰ろうかと」
「要するに暇なんだな」
「まぁ、そうなります」
単刀直入とはこのことで、彼の物言いには随分振り回されてきた気がする。強引だし、無遠慮だし、失礼だし、人の言うことは聞かないし。
けれどその言葉に嘘はなく、鋭い観察眼を持ち率直で飾らない。評論も正鵠を得ている。
勉強になったし、世話にもなった。優勝できたのも半ば彼が後押ししてくれたからだと、感謝もしている。それを伝えると「バカ、それはお前たちの実力だろ」と言われてしまったが。
「よし、それなら丁度いい。一日俺に付き合え」
腕時計を確認し、東金はさっさと歩きだしてしまった。
慌てて後を追う。「拒否権無しですか」と言ってみても「当然」と返されて終わりだった。
そういえば出会ってすぐに横浜を案内しろと言われたり、温泉連れていかれたりしたなぁと、つい数週間前の出来事を、半ば現実逃避的に思い出していた。

「さて、先に昼食を済ませるか」
「えーと、あの……」
「お前は何がいい? 和・洋・中、この街なら選びたい放題だし、折角の機会だ。お前に選ばせてやる」
「うーん、突然言われても……」
できれば財布に優しい所がいいとも言えず、言葉を濁す。
「歩きながら決めるか」
「はい、そうしてもらえると」
白を白、黒を黒とはっきり言い切る東金の発言は、いっそ小気味いい。
とはいえ、選択を迫られる方は大変だ。周囲に頑固で一途と評され、何事も一度決めた道は真っ直ぐ進むかなでも、選びとるまで大いに迷う。
今日のように何を食べたいかと尋ねられても、点心バイキングと言われれば心惹かれ、暑さ故にベトナム料理やタイ料理も気にかかり、三割引の段幕が掲げられた回転寿司を目撃しては心疼く。
何より自身の経済状態を憂慮して、全国チェーンの最安値ハンバーガー店へと視線が集中してしまう。
かなでの挙動は、東金に容易く見破られた。
「ファーストフードとか言うなよ」
「う……だって、私が行くお店なんてそれくらいですよ、お金持ってないですし」
「馬鹿。そんな小せぇ事気にすんな。俺のおごりだろ、ここは当然」
「ええっ、そんな、だめですよ!」
かなでが慌てて叫ぶと、東金は呆れたように片方の眉をつり上げた。
「お前、男とデートしたことないだろ」
「……そりゃ、ありませんよ、おつきあいとか……したことないし」
言い当てられてぐうの音も出ない。かなでは唇を尖らせて俯く。
「まったく、星奏の連中は何をモタモタしてんだか。……ま、そこにつけ込んでるんだけどな」
「え?」
「ほら、さっさと選べ」
結局、カフェや定食屋が軒を連ねる先、可愛らしい黒板に描かれた日替わりパスタ項目に惹かれ、イタリアンレストランの格安ランチに決定した。



「まったく、やはりランチとはいえ、金をケチるもんじゃねぇな。塩辛いだけでチーズの風味が全く生かされてねぇ」
「え? おいしかったですよ、ゴルゴンゾーラ。デザートのパンナコッタも上品な味だったし」
「馬鹿。この程度で満足すんな。神戸戻ったら俺が通う店に片っ端から連れて行くから、覚悟しろよ」
「そ、そんなこと言われても。まだ横浜だって詳しくなったわけじゃないのに」
「ちょうどいい、横浜の水に染まる前に連れていくか」
「今すぐは無理ですってば」
店の中でも、食事が終わって店から出ても東金はこの調子だ。かなでが応じれば、立て板に水とばかりに軽口が返ってくる。
結果として会話は弾み、沈黙を恐れるような不安を感じなかった。
それは東金なりの気遣いなのかもしれない。
事あるごとに神戸行きを持ちかけ、かなでがそれを断るのも定番になってきた。
そのやりとりも今日はやけに頻繁だ。
「今すぐは……ってことは、そのうち来る気はあるんだな?」
「えええっ、い、いえ、あの、それは……」
言葉尻をとらえられ、かなでが慌てる。しかし振り向いた東金は、かなでの予想と異なる表情をしていた。
「お前も損な性分だな。これくらいの軽口、受け流しておけばいいのに」
「え……?」
いつもの意地の悪い不遜な笑みではない。
苦笑、という表現がぴったりな、目を細めて「仕方ねぇな」とでも言いたげに笑う。
────なんでもねぇよ」
何て返事をすればいいのか、言葉を探そうとするのに見つからないまま押し黙ったかなでに対して、東金はきれいに表情を隠してみせる。
くしゃっとかなでの前髪に東金の手が乗った。
大きな手がふわふわの髪を軽くかき混ぜて離れていく。
それくらいの接触は幼なじみといつもしているのだから、改めて意識するような事柄でもない。
なのに、何となく気恥ずかしい気がして、かなでは俯いた。


どこへ行くと東金は明言しなかった。しかし、すぐに寮へ戻るつもりもないようだ。
かなでの歩調に合わせてゆっくりと進み、店先をひやかす。
「これ、可愛いですね」
雑貨屋でビーズの詰まった小瓶を見ていると、東金は眉を上げた。
「お前……小動物みたいだとは思ってたが、趣味もそうだとはな」
「しょ、小動物って何ですか!」
「実際そうだろ」
かなでがぷくりと頬を膨らませると、東金はおかしそうに笑う。
「何ならプレゼントしてやろうか?」
「いりません!」
小瓶を棚に戻して憤然と店を出る。東金はまだ笑っていたが、ふと顎をつまんでとんでもないことを言い出す。
「そうだな、どうせならアクセサリーの方がいいな。そこのジュエリーショップ行くか」
「え? な、何故ですか?」
「馬鹿。女へのプレゼントと言えば相場は決まってんだろ」
「そんな、プレゼントなんてもらう理由が」
「無いって言うか、その口が」
「だって、別に誕生日でもないですし……」
「……俺がやるって言ってるのに、断るとはな。まったく大した女だ」
気を悪くさせてしまっただろうかとの危惧は数秒で消え去った。東金は面白そうに喉を鳴らしている。かなではほっと胸をなで下ろした。

件のジュエリーショップを通り過ぎて、二人は再び何を見るとはなしに歩き始める。
改めて東金の横にいると、通り過ぎる女性の視線が痛いのだと気付いた。
目に付く女性の殆どが、かなでの頭を通り越した先を見ている。ちらちらと横目で見るのもじっと凝視するのも、視線を集めるという意味では大差ない。
大半が隣にいるかなでなどさっぱり視界に入れてないようだが、偶に鋭く睨む目もあって顔色を失う。
二人連れの女子高生とすれ違うが、態度はあからさまだった。東金の顔を見てきゃあと小さく歓声を上げ、口元を押さえる。こそこそと耳打ちしつつ東金を見送り、何事かを言い合って笑い声を飛ばす。かなでに対しては不倶戴天の敵にまみえたかのような目つきだ。
正直、今の状態は気持ちの良いものではない。
見上げるとそこには日に焼けて精悍な横顔。テレビや雑誌に出てくるような、整った顔立ち。
それを自覚しているのだろう。周囲の視線などまるで気に留めていない様子だった。
「……どうした?」
しかし、かなでの視線には敏感に反応する。じっと見つめていたら、その横顔が振り向いた。
「あ、いえ」
真っ直ぐに目が合ってしまって、かなでは慌てて視線を逸らす。
「何だよ、言いたいことがあるならはっきり言え」
「いえっ、あの、別に言いたいこととかじゃなくて」
両手を胸の前で振ってみせるが、東金を誤魔化せるとは思えなかった。
案の定、彼は何か勘付いたようで顎に手を当て、にやりと笑う。
「なんだ、俺の顔に見惚れてたか?」
「ち、違いますっ!」
目の前の背中に拳を当ててみても、まるで効いた様子がない。
それどころか、「いい拳だったぞ」とにやにや笑ってる。
「知りません!」
ぷいっと顔を背けた。
すると、後ろから「やれやれ」とため息が聞こえる。少しきつい態度だっただろうか。胸の内側で不安が芽吹いたとき、不意に右手が捕らえられた。
「ほら、そんな顔してないで、いくぞ」
手首を引っ張られた、と思った時には既に東金の指が肌の上を伝って、かなでの掌を包み込んでいた。
暖かくて大きな手が自分の手を握る。
それを視認した瞬間、かっと体中が発火したように熱くなった。肩から首筋にかけて湯気が吹き上がりそうな心地だ。
咄嗟の判断に論理的な思考など働いているわけもなく、その行動をどう思われるかなどの想像力さえ錆び付いて凝り固まっていた。
反射的に振り解いてしまってから、「あ」と声を上げる。
東金は解かれた手もそのままに、呆然とかなでを見ていた。その目にはっきりと傷つけた痕跡を見つけて、今更自分がしでかした行動を後悔する。
何をしてももう遅い。辺りは相も変わらず蒸し暑い夏の陽気だというのに、体の底から震え上がるような寒気を感じた。

「あ、あのっ」
沈黙は数秒足らず。しかし、耐えきれなくなったのはかなでが先だった。
東金は表情を消してかなでを見つめる。
「……俺が嫌なのか?」
「ち、違います」
「なら、お前が選べ」
「え?」
「俺の手を取るのか、逃げるのか。お前の意志で選べ」
先ほど振り解いた大きな手が、再びかなでの前に差し出された。
「俺は逃げも隠れもしない。もしお前が逃げたとしても追いかけない。恨んだりもしねぇ。……だが、お前が俺を選ぶというのなら」
街の喧噪は遠く離れ、東金の声だけが強くかなでを揺さぶる。
「二度と離さない」

胸の前で組んでいた手を恐る恐る伸ばす。
一度、躊躇うように指先が揺れた。東金は辛抱強く待っている。
勇気を出して、指先を掌に滑らせた。確かに重なったと思った途端、ぎゅっと握りしめられた。
思わず顔を見上げると、東金は目を伏せて小さく頬笑んでいた。安心したと言うような顔に、かなでの胸はしめつけられる。
そんな顔を初めて見た。彼も不安だったのかと思うと、胸の中に気持ちがいっぱいに溢れる。

衆目を集めるような、見目の派手な人。
才能と努力に裏打ちされた自信に溢れる人。
何に対しても恐れを知らず、尊大に笑う余裕を忘れない人。

なんでそんな人がいちいち自分に構うのか、さっぱり理由が解らなかった。
「神戸に連れて帰る」なんて言葉を吐かれても、まったく現実感がなくて本気だとも思えないのに、偶に本気なんだろうかと疑ってしまうのは、その目に真剣な色が潜むからだ。
だから必死に抵抗する。神戸へ連れて行ってくれるという彼に寄りかかってしまないように。
本気にして、手の平を返されるようなことがないようにと、心にカギを掛けてきた。
ソロファイナル優勝を言葉で祝ったけれど、それだけだった。
昨日のファイナル祝賀会では皆に交じって二人きりになることを避けた。
曖昧なまま先送りにして誤魔化してきた。
だってそうしていれば平穏は保てる。数日の後に神戸へと帰ってしまうと想像するだけで、ずきりと心臓のあたりが痛む。その場に留まっていられないほど落ち着かなくて、だから避けてきた。

大きな手はそんなかなでの目論見を粉々に砕いてしまうほどの破壊力を持って襲いかかってきた。
温かくて心地良い。
離したくないと、心の底から思った。
目の前が滲む。

頭上に広がる青空が、白い雲が眩しい。
街中がキラキラと輝いてるように見えた。

例え彼の言葉が本気であろうとなかろうと、それは問題ではない。
自分自身の気持ちが本物になってしまったその瞬間から、恋は始まるのだと。

導くように繋がれた手が、かなでに教えていた。


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ランチの話を掌編として書いてみました。

初出:2010/10/23

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