君の笑顔に恋をした

本気でのめり込むつもりじゃ無かった


第一印象はとにかく小さくて可愛い子。
目がくりくりとしていて大きく、リスか兎か子犬か子猫かと小さな動物を彷彿とさせる。
更には好奇心の赴くまま行動する大胆さも持ち合わせ、突然オケ部のアンサンブル選考に飛び込んできた。
関わり合いを持ってみれば実に素直で感受性豊かだ。
女の子らしい細やかさと向こう見ずに走り出す大胆さがアンバランスで、つい構いたくなる。
よちよち歩きの赤ちゃんに手を差し伸べたくなるような。
敢えて例えるなら父性愛に近いかもしれない。
年の差は一年しか違わないはずなのに、と榊大地は苦笑する。

如月律と幼馴染みという小日向かなでは如月響也と共に、夏休み直前の星奏学院に飛び込んできた。
この時期の転校生というのも珍しいが、音楽に特化した校風であることを鑑みれば理由も納得できる。
オケ部に現れた彼女の演奏は一定の水準をクリアしているだけでなく、人前でヴァイオリンを弾きこなす度胸も備えていた。
面白いと思った。
部内に新たな風を吹き込むことによって化学反応を起こし、新しい力になるのではないか。
無論、同時に部の結束を乱す危険も孕んでいることは承知していたが、部長が人知れず抱える問題を考慮するなら二人の出現は寧ろ好機と捉えるべきだ。
彼女を推した榊がアンサンブルを組んだのも自然な流れだった。
大地としても人に頼られるのは嫌いではなかったし、世話を焼きたくなるのは性分だ。
彼女は周囲の期待に応える傍ら修練を怠らず、それが庇護欲をそそったのかもしれない。

そうやって、一歩ずつ近付いた。
部の後輩から身近な女の子へと。
それでも最後の一線には掠りもしないとどこかで高を括っていた。
可愛い女の子は好きだし、彼女の明るさや素直さは好ましい。
けれどそれが男女の恋愛とは結びつかないと思っていた。
可愛いと綺麗と思うだけで恋は出来ない。まだ彼女は「可愛い」と思うだけでそこから発展しようがない。
心の全てを明け渡すような、全てを奪い去ってがんじがらめになるような、恋とはそういうものだろう。

そして今はコンクールを控えている。恋愛どころではない。
目指すは全国の頂点で、並大抵の覚悟では辿り着けないのだ。
標準以上のレベルと言ってもかなでの技術は発展途上にあり、それを先輩としてフォローするのが大地の役目となる。
女の子としても演奏家としても誰かが側に居て守ってやらねばならない子、それが大地の認識していた小日向かなでだった。
小さな小さな女の子。それ以外に表現しようがなかった。

だからこそ律の判断には納得できない。
「小日向を1stヴァイオリンにする」
律の目は真剣そのもので揺るがなかった。元来、思いつきで冗談を口にしたり軽はずみな発言をするタイプでもないから、彼が本気なのは見て取れた。
何を根拠に断言しているのか、それが判らない。神南を筆頭に古豪・強豪の集うセミファイナルという場に切り込むのに力不足は否めず、例え成長の伸びしろがあるにせよ、それに頼るのは無茶だ。
偶然にもその言い争いを聞いていたかなでに、はっきりと告げた。
アンサンブルとして本気で向き合うのなら、避けて通れない衝突だっただろう。

いくら彼女自身がやりたいと望んでもそう易々とできるものではない。
できたとしてもそれがセミファイナルで勝てるだけのレベルになるのか、全く未知数だ。

そんな疑念を彼女自身ひしひしと感じていたのだろう。
笑顔が消えて考え込むことが増えたように思う。
少し前のように純真な笑顔で後をくっついてまわるような後輩はそこになく、「頼りになる先輩」の肩書きさえ無くしてしまったのかと寂しく思うのは自分勝手だろうか。
他のアンサンブルメンバーや菩提樹寮に宿泊しているという至誠館高校の吹奏楽部員たち、更には敵である神南高校の東金や土岐にさえ意見を聞いてまわり、自分に足りない物を補おうとしているのはよく判るのに。
自分を真っ先に頼らないという状況に直面して、ちくりと胸が痛む。
痛みを知覚していながら、その原因をあまり深く考えないようにしていた。


夏休みの学校は部活動のために開かれているが、下校時刻は通常と何ら変わらず定められている。
夕陽が窓から差し込んで壁を赤く染める中、練習室の廊下を歩いてさて帰宅したら何をしようと疲労した頭を巡らせていたら、一部屋だけ扉が閉められたままなのに気付いた。
まさかと思った。もう生徒は帰らねばならない。けれど、何となく予感はしていた。
中を覗き込めば、練習に没頭するかなでの後ろ姿が見える。
一心不乱に弾き込み、時間などまるで気に留めていない。
けれどどこか楽しそうにさえ見えた。その背中から見て取れる感情は、明らかに悲壮感とは異なる。
室内全体を埋め尽くす音に没頭し、自らの手で高く低くその曲が持つ世界を生み出していく。

ノックする手が躊躇したのは、このまま弾かせてあげたいと思ったからだ。
躓いた箇所を何度もチェックして補い、それは完成に近付いている。
このまま手応えを掴ませてあげたい。それは彼女の成長の糸口になる。
けれど、時間は容赦なく差し迫っていた。
「おい、榊? もう下校時間だぞ。いくらオケ部がコンクールに出場していてもこればっかりは贔屓できんぞ」
「あ、はい。すぐに帰ります」
教員に見咎められ、姿勢を正す。
改めてノックしてみると、かなではまるで夢から覚めたようにぼんやりと大地を見た。
ガラス越しに腕時計を指差してジェスチャーする。
「あ」と彼女の口が動いて、大きな目が更に大きく見開かれた。慌ててヴァイオリンを片づけ始める。
廊下で待っていると程なくしてかなでが出て来た。
「あの、すみません、私」
「いいよ、練習に没頭してたんだね。でも、さすがに時間だから、もう帰ろうか」
「はい……」
しょんぼりと肩を落とす。
大地と視線が合うと笑みを浮かべる。けれどそれは力の無いもので、嘗ての朗らかさとは違う気がした。
慰める言葉が幾つか思い浮かぶけれど、どれもシャボン玉のようにふわふわ弾けて消える。
結局、雰囲気を変えるように明るい声を出して寮まで送ることしか出来なかった。
あえて音楽の話題に触れないようにして。
何が「頼りになる先輩」だと自嘲が口元を歪ませる。
何も出来ない。当たり前だ。今、彼女が立ち向かっているものは周囲の疑惑であり重圧で、答えは自らの中にあるものだ。
疑念の一つを大地が生み出していることも自覚している。

演奏家として副部長として自分の判断は間違っていないと言い聞かせた。
実際、かなでは少しずつ殻を破ろうと藻掻いている。
それは結局彼女自身が掴み取らなければならないものだ。
誰かが庇い立てて甘やかしていいものではない。

ああ、らしくないな。
大地は溜息を吐いた。
寮に入っていく背中は消え入りそうに小さく、儚く見えた。
今すぐにでも追いかけて捕まえたいなんて、どうかしてる。
胸中を渦巻く感情が一体どんな種類のものなのか、判別できなくなっている。
彼女の笑顔を見なくなって、いてもたってもいられない。
何とかしてやりたいと思う。
出来るのなら、自分の手で。

帰り道の足取りは重く、既に日が沈み真っ黒に塗り潰された空はちっぽけな人間を押し潰すようだ。
けれど夜は何れ明ける。
翌日、アンサンブルの練習をしようとかなでから連絡を貰って、一瞬迷った。
彼女はあれから立ち直ったのだろうか。
今、練習して大丈夫なのだろうか。
この期に及んで疑惑と不安が過ぎる。
数秒間悩んで、OKの返事を送信した。

まだ彼女を信じてやれない自分に腹が立つ。
信じたい、けれどでもと躊躇う。

指定された時間より若干早めに音楽室に着くと、既に響也とハルとかなでも揃っていた。
楽譜を確認し、松ヤニを弄り、調弦し、楽器の準備をしながら雑談している。
響也が譜面で顔を仰ぎ、ハルが何事かを咎め、うんざりした響也の顔にかなでが笑う。
今となっては当たり前に見慣れた光景だ。しかし、何か違和感のような物が頭の隅で点滅していた。
ふわっと薫る匂いのようなものが鼻先を掠め、掴もうとした先から掻き消える。
これは何だろう。当たり前の風景を見て何を感じたのだろうか。

思考を自らの内側へと向けていた大地の視線で、かなでが振り返った。
にこっと笑う。
「大地先輩!」
響也とハルもこちらを振り向き、ハルは律儀に会釈し響也は軽く片手を挙げる。
「もう揃ってたのか。待たせちゃったかな」
「いいえ、偶然に時間前に集まっちゃったんです」
「皆、気合い十分だな」
「当然です」
「んじゃ、ぼちぼちやるか」

何度か共に練習してきた曲だ。頭から通しで弾くことになり、一斉に弓を構える。
かなでの合図で曲が始まった。
呼吸を合わせ、パートごとのメロディを耳で追いながら、重なり合わせるように手を動かす。
ヴァイオリン、ビオラ、チェロとそれぞれの楽器が会話している。
一つ一つが独立して美しい旋律を奏でているのに、それが幾重にも折り重なって深みを増すのだ。
会話は続く。水の調べ、木立のざわめき、小鳥の声。見慣れた音楽室がまるで森のような清涼な空気に包まれる。
そうしてクライマックスへと雪崩れ込む。
天にまで届く光り差す階段を駆け上っていくようだ。
美しいヴィブラートが余韻を残して曲が消えていき、一瞬の静寂が訪れた。
いつの間にか集っていた生徒たちから一斉に拍手が沸き上がり、皆の緊張が解ける。
不意に大地は違和感の正体に気付いた。
いつもと同じに見えたかなで。けれど、それはいつも以上へステップアップしたからこそ得られた空気だった。
ここ最近陰っていた笑顔を取り戻し、当たり前のように振る舞えるほどに。

「……ひなちゃん」
かなでに向き合い賞賛を述べる。かなではきょとんとした顔で大地を見上げていた。
1stを認められない、との発言は全面撤回だ。
よくぞこの短期間でと感嘆する。成長の段階があるのなら彼女のそれは飛躍に等しい。
かなでを縛り付けていた何かが解けた、という方が正しいのかもしれないと思った。
神南高校管弦楽部長の東金が指摘した通り、彼女は舞台に立つと小さく縮こまってしまいがちだった。技術は確かだし度胸だってあるのに、響き渡る力が足りない。
偶に、聴くものがはっとするような伸びやかな音を出すこともあり、不安定さは否めなかった。
しかしもう何を憂うことがあるだろうか。翼が生えたようにかなでの音は自由だった。
何かを掴むきっかけなんて些細なことでいいのかもしれない。
人は簡単に躓いたりへこんだりするものだから。

「君は本当に凄いよ」
素直な気持ちを告げると、かなではほっと胸に手を当てる。
「よかったぁ……」
大地を見上げ、ふにゃっと頬を緩めた。
自分の言葉がどれほど彼女に負担をかけたかを目の当たりにして、ずきりと胸が痛んだ。

ああ、なのに君は。
決して挫けずに進み続けて。
例えその道がどんなに険しいものだとしても。

もう、守られるだけの小さな女の子ではない。
自分の足で立ち、背筋をぴんと伸ばして真っ直ぐ前を見ている。
その瞳が大地を見つめた。

「ありがとうございました、大地先輩」
「え?」
「先輩に1stヴァイオリンじゃないって言われて、正直へこんだんですけど、でもこのままじゃいけないと思って頑張れたんです。だから、ありがとうございました」
「……それは違うよ、ひなちゃん」
他の何でもない、君自身の力でここまで頑張ったんじゃないか。
「俺は何もしてない」
「いいえ、ちゃんと見ていてくれました。見捨てられるかと怖かったけど、そんな事なかったじゃないですか」
率直で飾らない言葉は真っ直ぐに届き、胸を切り込んで侵入を果たす。
じわりと這い上がってくる熱に目元が震えた。
前髪を弄るフリして目を隠す。

────ほんとに、君には叶わないな」
「?」
「いや、何でもない。さ、そろそろ昼だし休憩にしようか」
「あ、私、お弁当作ってきたんです。一緒にどうですか?」

何も知らない君は、何でもないように笑う。
その笑顔に捕まっていた。
がんじがらめに囚われ奪い尽くされ、もうどこへも逃げられない。

いつの間にか、無意識の領域で気付かないままそれは進行して。
目が離せなくなっていたんだ。


【終わり】

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イベント「異議を唱える」から「1stの資格」まで他に様々なイベントありますが、この際割愛。
大地本人は岡本の告白騒ぎで気付いたみたいな事言ってましたが、その前からもう落ちてたんじゃないかなぁ。

初出:2010/03/21

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