アド・マルギネム
この罪を贖えるのならば何を犠牲にしても構わないというのに
携帯電話を無意識に握り締めていた所為だろう。
人工物のそれが、生温く温度を保つ。
通話は一方的に断ち切った。無機的な電子音が鼓膜を揺さぶる。
些か乱暴だと自覚出来る強さで携帯電話を閉じた。
その衝撃が小さく掌に伝わる。
その時になって漸く不快感の正体に気付いた。
手に汗が滲み、それが指先を滑らせていたのだ。
何もかもが不快だった。
携帯電話もその電子音も、先程までの会話も、苛立ち紛れに八つ当たりしている自分自身の何もかもが、神経を逆撫でる。
電話の向こうで約束を反故にした女の声が耳から離れない。
心地良いとさえ思えるようになっていた柔らかな声音が、今はまるで尖った針のようにちくちくと内臓を刺激する。
不愉快だった。裏切られたとさえ感じた。
オペラを見に行こうと切り出した時の勇気も、同意の返答を受け取った歓喜にも、泥を被せられたのだ。
あの笑顔は嘘だったのか。
嬉しいと言った、楽しみですねと言った、その全ては虚偽だったのか。
失望した。
他人との約束を破ったばかりか、その謝罪を直前の電話一本で済ませてしまおうという不誠実さに、積み上げてきたものを突き崩されるようだった。
謝罪など口先でしかない。
その証拠に、待ち合わせすら忘れていたような素振りだった。
電話を掛けるその瞬間まで高揚していた気持ちは、無惨にも地に叩き付けられる。
そうして、自分が思うよりずっと浮き足だっていた事に気付いた。
楽しみにしていたのは、誰だ。
約束を取り交わし、連れ立ってお気に入りの演目を見に行く。
それだけの予定を、心待ちにしていたのは紛れもなく自分ではないか。
朝から妙に落ち着かない気分だった。
昨日の夜は時計を確かめながら就寝した。
手帳に目立つ赤で丸印を付け、待ち合わせの時間を記入したその時からずっと思い描いていた。
隣には普段着より少しだけ背伸びして着飾った彼女が立ち、同じく正装した自分が丁寧にエスコートする。
その手はきっと緊張で強張っているだろう。
おずおずと肘に添える手の感触を覚えている。
あれは最悪のクリスマスパーティだったが、それでも彼女をエスコートしたという事実は脳裏へと鮮明に焼き付いた。
寄り添う温もりも、彼女から漂う仄かな香りも全て、いやになるほど詳細に記憶している。
華やかさや高級感には欠けるが、優しくて暖かな香りだった。
ドレスは贈ったから今度は香水を贈ろうかとまで考えて────些か突飛すぎると自嘲し思考を止めたが、それでも彼女を想うだけで胸が暖かくなった。
そうだ。
彼女を想う時、胸に火が灯ったように暖かくなる。
それも、小さな蝋燭のような灯りだ。
些細な風に翻弄され、掻き消されてしまいそうに細く揺れる、オレンジの灯火。
けれど、暗闇に灯ったそれは目映いばかりの目印になる。
声を出して笑うことが増えた。
心が軽く浮き上がるような心地を感じた。
青天の霹靂と言っても大袈裟ではない。
今の今まで、有り得ない事態だった。
重く頑丈な扉に幾つも南京錠を嵌め鎖で縛り付けるような慎重さで、心を閉ざしてきた。
楽しいと思える些細な出来事さえ避けてきたのに、彼女が目の前に居るだけで自然と頬が弛んだ。
閉ざした扉の鍵一つ一つを丁寧に解きほぐし、いつの間にか侵入されていた。
心を許した。
猪突猛進で、無鉄砲で、考え無しで、それだけのちっぽけな少女なのに。
思い出を穿り返すと、彼女はいつも笑顔だった。
バカみたいに、悩みなんて一つもないような、子供のようなくしゃくしゃな笑顔。
混じり気の無い、純粋に楽しいから笑う、そんな顔。
一ノ瀬は確かにそれを、好ましいものと感じていた。
思い返して、無意識に携帯を握り締める。
まるで袈裟懸けに斬りつけられるような痛みが左胸に突き刺さった。
それは上半身全体に苦く広がっていく。
傷付けられたのだと、気付いた。
一ノ瀬蓮ともあろうものが、一介の女子生徒相手に傷を負った。
例え見えない傷でも、矜持は引き裂かれたも同然だった。
彼女の言動に振り回され、期待と落胆の落差に自己嫌悪し、全ての元凶は彼女だと恨みがましい結論に辿り着いている。
こんな惨めな気分は初めてだった。
会場へと足を踏み出しても、心はちっとも晴れない。
彼女を考えないようにと務めながら頭のどこかで、もう今夜のオペラを純粋に楽しむことはできないと予感していた。
【終わり】
Comment
まだ、ヒトミが大変な事になってると気付かない一ノ瀬さんです。この後のイベントは涙なくして見られません。
初出:2007/05/15