ミッドサマー・イブ
風のない空のぬるりと溜まる闇夜の片隅に
彼が好きだと言うから、そのチケットを手に入れた時はただただ嬉しいとしか思わなかった。
とは言え内容に関しては未だ勉強不足は否めず、実際に観覧に訪れても舞台横にある日本語字幕ばかり追い掛けて、歌手の顔など判別不能だった。
だから、自分からその話題を振ったりはしない。きっかけが無い限りは。
「先輩、オペラのチケットを親から貰ったんですけど」
「へぇ、お前からオペラのお誘いか。明日は雨かな」
早速電話してみれば、この体たらくだ。明らかに声が笑いを含む。
けれどそれが壮絶に色っぽくて、内心の動揺を隠してわざと怒ったフリをする。
「酷ーい、私だって勉強してるんですよ!」
「ああ、いい。お前はとりあえず受験勉強に立ち向かえ。オペラの勉強はその後だ」
「……はぁい」
電話は便利だ。距離を飛び越えて繋がって、会話を交わすことができる。
顔を見られないのは寂しいけれど、感情の揺れは声のニュアンスで判るから充分だと思う。
そして、顔を見られたくないと思う時、電話は最大の効果を発揮する。
「それで、何て演目なんだ?」
「ええーと、ワーグナーの『タンホイザー』、だそうです」
「…………」
電話は便利で、そして辛い。突然に黙り込まれると、何があったのだろうかと気を揉んでしまう。
沈黙を守る受話器の向こう側はどんな顔をしているのだろうか。
怒っている? それとも呆れてる? 何か気になることがあるのだろうか?
あれこれ考えては胃がきゅうきゅうと締め付けられるような心地に陥る。
「お前……」
「はい」
漸く聞こえた声に、思わず背筋を伸ばして返答した。
「内容、知ってるのか?」
「いいえ? だから、勉強するって」
「それじゃ、明日までに内容を確認して電話しろ。その時誘いたかったら誘え」
「え、それってどういう……」
「じゃあな。また明日」
「ちょっ、一ノ瀬さんっ」
呼びかけをまるっきり無視され、電話は一方的に切れる。
電子音が虚しく鳴り響き、がっくりと肩を落とす。
何が何だか判らない。一体、どうしたというのだろう。
さっきまで笑って話をしていたのに。
「明日、図書館に行くしかないなぁ」
何だか、突き放されたような気がして胸が痛い。
明るい未来を思い描いていた。
オペラ鑑賞という口実でデートして、受験勉強を忘れるくらい楽しい思い出を作る。電話をする前までは、その約束ができるのだと心躍らせていた。
それが今はどん底に叩き付けられた気がした。
「ああ、もう。今日は寝ちゃおう」
携帯電話を充電器に差し込み、ベッドに向かった。
一ノ瀬が何を考えているのかまるで判らなかったが、調べろと言われたからには実際に見てみなければ、と桜川ヒトミは意気込んでいた。
パチンと音を立てて携帯電話を折り畳む。
一ノ瀬蓮は力無くベッドに倒れ込んだ。
空調は効いているはずなのに妙な汗が背中を濡らしていたのだと、肌に張り付いたその時になって初めて自覚した。
数秒前まで会話を交わしていた恋人を思い浮かべる。
おそらく置いてきぼりにされた迷子のような顔をしているのだろう。
容易に想像できて、胸が痛む。
しかし、よりによってオペラの演目が『タンホイザー』では、色々と憚られる。
曲は流石にワーグナー作曲とあって、壮大で美しい。けれど内容が問題だった。
昨今のオペラは演劇としての演出や芸術性に凝った物が多い。
しかし過剰な演出が露骨な表現となって、年齢制限を設ける程の舞台になってしまう例も少なからず存在する。
『タンホイザー』も例に漏れず、オペラ歌手自らが裸体を曝して歌う。愛と肉欲を、切々と。
無論、『タンホイザー』そのものが悪いわけではない。
主題は決して俗っぽいものではなく、信仰への帰依と真実の愛との狭間に揺れる主人公タンホイザーの苦悩そのものだ。
だが、恋人と連れ立って観に行くものかと問われたら、一ノ瀬は言葉に詰まる。
しかも、恋人とは言っても気持ちが通じてキスを交わしただけで、深い関係にまでは至っていない。
そうなりたいと望んでも、まるで免疫の無い彼女を目の前にすると躊躇いが足枷になる。
長い前髪を掻き上げ、両目を覆う。
些か冷たい対応だっただろうかと、未だ片手に握られている携帯電話の感触に、ちくりちくりと胸が刺される。
それでも、今すぐにでも逢いたい気持ちがあって、逢うだけじゃ満たされないだろう欲望が胸の端をちりちりと焼く。
学校は高校と大学に離れ、受験勉強に勤しむ彼女の勉学を見るという名目はあっても、そう簡単に逢いにいける距離ではなくなってしまった。
そんな彼女から持ち上がったデートに、心が躍らないわけがない。
けれど、まるっきり疎い彼女は気付いてもいないのだろう。自分がどんな想いを抱いているのか、などと。
今夜は眠れそうにないな、と一ノ瀬は苦く笑った。
【終わり】
Comment
恋愛EDその後の一ノ瀬さんとヒトミ。時期は夏休み。一ノ瀬さんはオペラ鑑賞が趣味だそうですが、実際にいくつか見てると、もうエロっぽくて(歌手が全裸で歌ってたりして衝撃)、一ノ瀬さんとヒトミだったらどうなるだろうと予想しつつ、書いてみたお話です。とりあえず、今回の話しはここで終わり。
初出:2008/01/16