Fade Into Light
「北風と太陽」の童話を読んだとき、なんて知略に長けた話だろうと思った。
冷たく厳しい北風の猛攻など、暴力に等しいだろう。旅人は抵抗し、防御を固めた。
そこへ太陽は暖かな日差しを投げかけ、自主的にコートを脱ぐよう仕向ける。力でなく智の勝負というわけだ。
同時に、そんな上手い話もないだろうとも嘲笑う。
旅人のコートをはぎ取るなんて賭を持ちかけた時点で、北風の負けは目に見えている。
天にあって万物に光りを与える太陽は、すなわち世界の中心だ。
そんなものに勝負を仕掛ける方が身の程知らずだろうとも思う。
イソップ童話は、人の欲望に対する訓戒と寓意に満ちている。
受け取り方は様々だが、一ノ瀬は己の感性がひねくれているのも十分自覚していた。
今頃になってその話を思い出したのは、現在の一ノ瀬自身がまさに旅人の立場に立たされているのではないだろうかと思い至ったからだ。
固く硬く心を閉ざしてきた。
人と関わり合うことから逃れ、一切の干渉を拒否した。
最低限のマナーと礼儀を纏い、胸の内を悟らせまいと理論武装していく。
そうやって守ってきた扉をこじ開けたのは、北風の猛攻ではなかった。
暖かな陽光のような笑顔と、差し出された小さな手。
真摯な眼差し。
理論とも打算とも無縁の、見返りを求めない、ただ純粋な好意。
初めてだった。
暖かくて眩しくて、直視できないような想いがあるなんて、知らなかったのだ。
比喩でもなんでもなく、桜川ヒトミは一ノ瀬にとって太陽だった。
コートをはぎ取っただけでなく、明るく道を照らし出してくれた。
ヒトミが側に居てくれるだけでこんなにも満たされる。
暖かな感情が胸いっぱいに膨らんで、くすぐったいほど優しくもなれる。
ヒトミをからかって遊ぶような言葉は、その裏返しだ。
素直な反応を返してくれる彼女がたまらなく可愛くて、けれどそれを素直に伝えるのも面映ゆい。
つい、楽な方へと逃れてしまうけれど、彼女はちゃんと気持ちをくみ取ってくれた。
愛しいと、口に出していうのが躊躇われると、解ってるとでも言いたげに、手をきゅっと握る。
その温もりに、全てが報われたような気がした。
心の全てを明け渡し、その代償として彼女を手に入れられたのだから。
今日は、ランチとコーヒーが評判という店へ行く約束を取り交わしていた。
待ち合わせは、彼女の住むマンションの前。
部屋まで行くと申し出たが、彼女は「それでは悪いし駅前でいい」と言う。
譲歩としてマンション前に落ち着いたのだが、ヒトミの遠慮深さは筋金入りだ。
欲が無く、一ノ瀬を思いやって自らを二の次に置く。
もっと甘えてくれていいのに、とさえ思う。
それが彼女らしいと、思わず口元が緩み、慌てて咳払いする。
誰に見とがめられているわけでもないが、自分を律することを忘れそうになっていて、そんな自分に驚くばかりだ。
以前なら冷徹な容貌と合理主義の言動に恐れられ、氷のようだと評されていた一ノ瀬蓮だというのに。
ヒトミと関わるようになって、ヒトミに引きずられるように振り回されて、恋に落ちた。
まさに断崖から突き落とされたかのような変わり様だ。
目に見える世界も一変した。モノクロから色溢れて輝く世界へ、
こんな些細な待ち合わせの時間さえ、愛おしいと。
ヒトミを脳裏に思い浮かべるだけで笑みが零れてしまうほどに。
直に、自らも居住していたマンションが見えてきた。
今は大学近くのマンションに越してしまったが、すっかり通い慣れた感がある。
彼女を迎えに行く、ただそれだけのために。
門を潜って玄関ロビーまでの道さえ、心が逸る。
早く、彼女の顔が見たくて。その笑顔がほしくて。
ロビー前の柱に寄り添う形で、後頭部で結ばれた明るい髪が見えた。
「────ヒ」
名を呼ぼうと声を出して、そのまま止まる。
息を飲み込んだ。
彼女の側に立っていたのは、母校の保健養護教諭。
背の高い彼はヒトミを見下ろし、乱暴な手つきで頭を撫でては面白そうに笑っている。
対するヒトミは少し拗ねたように頬を膨らませ、何事かを言い返していた。
結局、話は笑い話になるのだろう。楽しそうに声が反響して、一ノ瀬まで届いた。
その時の気持ちを何と表現したらいいのだろう。
胸に沸き上がったのは炎のような感触だった。
喉の奥から顔へと熱が吹き上がる。
同時に心臓がズキリと大きく音を立てて、ヒビでも入ったかのように痛んだ。
天国から地獄に突き落とされるとは、まさにこのことだろう。
無意識に握りしめた拳が細かく震えていた。
思わず叫んでしまいそうになり、辛うじて踏みとどまる。
口を噤んで歯を食いしばり、封じ込めた感情は黒く胸中を渦巻いた。
同じマンションに入居するセント・リーフ・スクールの生徒と教諭が、ロビーで談笑する。
それ自体、特段におかしな事柄でもないだろう。
ヒトミの兄と保健医・若月は友人だという。
若月とヒトミも、彼女のダイエットメニューを組んだというほど親交があるのも周知の事実だ。
人懐こいヒトミが、彼を慕っているのも充分解っている。
その感情は、あくまで兄と同列のものだということも。
だというのに、この感情は何だ。
自分以外の誰かが彼女に触れるのも許せないと感じた。
何よりも、彼女が他の男に笑いかけるのが嫌だ、と。
彼女は彼女の生活があり日常があり、その中で誰かと親交を持つのは当たり前だ。
その一つ一つを詮索して問い質し、縛り付けようなんて思ったこともない。
なのに今は、我慢ならない。目の当たりにしたからこそ、余計に。
「お、迎えが来たみたいだな」
若月がちらりと一ノ瀬を見やった。
一瞬だけ視線が絡み、彼はふっと苦笑する。
「じゃあな、食べ過ぎんなよ」
「わ、解ってます!」
ヒトミと挨拶を交わし、若月は一ノ瀬へと歩み寄った。
「────青春だな、一ノ瀬。ま、がんばれよ」
ぽんと肩を軽く叩いて通り過ぎる。
「…………」
一ノ瀬は何とも言い返すことが出来ず、沈黙を守った。
「こんにちは、一ノ瀬さん。……一ノ瀬さん? どうしました?」
ひょこひょこと明るい髪をなびかせ、ヒトミが近寄ってくる。
一ノ瀬の顔を見上げて怪訝な表情になった。
「別に、どうしようもしない」
「そうですか? 眉間に皺、寄ってますよ?」
「……元からだ」
「はあ……」
とりつく島もないとはこのことか。
ヒトミは顎を摘んで、少し悩むように小首を傾げた。
すぐに、空気を変えるように微笑んだ。
「ともかく、早く行きましょう? 私、今回のお店楽しみにしてたんです!」
彼が何も言いたくないことを察してだろう。
一ノ瀬の左側に寄り添い、そっと腕にしがみつく。
ヒトミにしては珍しい、甘えるような仕草。
決して他の男にはしないだろうと解る、少しぎこちない緊張も見て取れる。
それだけで、一ノ瀬の心が解けていくような気がした。
「……そうだな」
添えられたヒトミの手に触れ、一ノ瀬の表情に笑みが戻った。
若干苦みも含んでいたが、今はヒトミが側に居る。
彼女と過ごす貴重な時間を、下らぬ嫉妬で台無しにはしたくなかった。
「行くか、ヒトミ」
「はい!」
ぎゅっと手を握りしめると、返答のように握り替えしてくる。
見たかったヒトミの満面の笑みが、一ノ瀬の左肩すぐ近くに寄り添う。
それだけで、今はもう充分だった。
【終わり】
Comment
一ノ瀬さんの誕生日記念に、ヒトミとのデート話。
初出:2011/02/04