Liebe

想いは日々加速するばかりで、止め処もなくて。


もともと、女の子は好きだった。
異性に対する興味は人並みにあって、自分とまるで異なる造形や顔かたち、人となりやその有り様に目を奪われる。
例えば廊下の片隅に集いひそひそと声を潜め、時折弾かれるように笑う様は、小鳥の群れのように可愛らしいと思う。
例えば一人読書に耽る長い睫毛や白い頬や項は、まるで油彩で描かれた絵画のようだ。
佇まいは花のよう。笑顔は日の光を浴びて輝く。

どんな子にも長所はあって、それを見付けるのは半ば趣味になっている。
色とりどりの個性と姿形。
少しでも美しくなろうとする向上心を含めて、生命力を感じずにはいられない。
時にはお菓子のように甘く、草花のように伸びやかに雑多な日常をすりぬける。
大袈裟に例えるのなら、奇跡のような存在とさえ言えるかもしれない。
そう思えば、嫌う理由もない。
自分は単に観察するだけの、傍観者なのだから。



そこに所懐や感慨があっても、それは例えられた言葉でしかないと。



不特定多数の人間に囲まれても無下にしない。
嬌声をあげるなどの衆目を集める事態なら、そっと注意すればいい。
人は誰だって優しくされたら嬉しいものだ。
憧れの先輩とお喋りできた、それだけで彼女たちはキラキラした笑顔で立ち去っていく。
更にこちら側へ踏み込むのならば、選択肢を提示して一線を引いた。
特例など無く、全てが平等だ。
名前と顔を覚えて携帯に連絡先を入力し、掛かってくるそれらに最低限の礼節と気安さと冗談の一つや二つでも用意して応える。
その上で、他の子とも繋がりがあることを隠さない。
自らの生活が脅かされない限度を最初に提示しておけば、暗黙のうちに引き下がる。

雑談が大好きで、その話題に意味も深みも重さもなくて、それはまるで悪戯に木立を騒がす風だった。
そうやって自分の周囲を通り過ぎていく。
何も残らず、後腐れもなく、記憶の片隅に「神城綾人」という人間がいたという断片が残るだけだろう。
だからこそ、ファンと名乗る少女たちの申し出を受け入れた。
最後の一線を踏ませない程度に浅く広く、過度な期待を抱かせないように向けられる感情を躱しながら交友を保つ。
誰か一人を特別扱いすることもなく、また誰かを排除することもなく、高校生活は流れていった。
最高学年になっても変わらないだろうと考えていたのは、心のどこかが麻痺していたからだ。
人は慣れる生き物で、どんな痛みも苦しみも与え続けられれば、精神は悴むように感受を拒否する。
結果、何も感じなくなった。それが痛みなのか喜びなのかさえ、判別出来なくなる。
それでいい。
何かを感じるようになってしまったら、凍り付いた神経が再び呼び覚まされ、何もかもを飲み込んでしまう。


「あれ、神城先輩?」

昇降口を出た所で不意に呼び止められる。
その声に、ほんの少し心がざわめいた。
穏やかで凪いだ水面に、風が小さな波を呼び起こすように。

「ヒトミちゃん。今から帰り?」
「はい、部活が終わったので」
「こんな遅くまで大変だね。演劇部は今が大詰めでしょ」

時計は既に夕刻を指し示している。日はもう沈みかけ、辺りはすっかり暗くなっていた。
それでも文化祭を目前に控えた校舎に人影は絶えない。
忙しない雰囲気が刻々と祭りに近付いていることを指し示す。
彼女もまたその渦中にあって、非日常を作り上げる因子の一つだった。

「役者の子たちは皆頑張ってますよ。私は小道具なんで、一通りのことは終わってしまってるんです」
「小道具も立派な役目だよ。お疲れ様」
「ありがとうございます、神城先輩!」

労いを送ると、素直な笑顔が返ってくる。
彼女は、打てば響くという形容にそのまま当てはめたかのような子だった。
優しい言葉をかければ、嬉しそうに笑う。
こちらが見せてしまった体調の悪さを、本気で心配する。
何事にも真正面から全力でぶつかるような、素直で純粋な子。
100キロあった体重を着々と減らし、見違えるほど綺麗に変身しようとしている蛹のような子だと、神城は努めて冷静に分析する。

芋虫が自らを閉じ込めた殻の中で、今まさに蝶へと変化しようと藻掻いている。
その過程を、何の因果か間近で見ることになった。
出逢いは偶然で、距離は他の子と寸分違わなかったはずなのに、傍観者の立場が足元から崩れそうになっている。
初めに見た体型には流石に驚いたが、ダイエットをすると宣言してからの努力と根性には舌を巻いた。
それからずっと、目が離せずにいる。
決して無理はせず、健康を維持しながら地道な努力を積み重ねる様は、眩しいほどだ。
日を浴びて輝く花というより、彼女は太陽そのものなのではないだろうか。

人の目で直視できない、唯一無二の存在。

己の思考がいささか突飛だと自嘲した所で、ヒトミが声をあげた。

「あ、神城先輩」

制服の袖を軽く引っ張られる。

「夕焼けですよ! 綺麗ですね」

ヒトミが指し示した建物の間に垣間見える西の空は、今まさに日が沈みゆこうとしている瞬間を切り取って映し出しているようだった。
青いキャンバスに、上から赤い絵の具をぶちまけたような空。

「夕方って寂しい感じがするけど、こんな色を見ると凄いって思いませんか。綺麗っていうより、迫力!って感じで、暖かくて」
「…そうだね」

黄昏は、光を失い漆黒の闇へと落ちる最後の抵抗だと思っていた。
生にしがみつき、足掻こうとしている自分を重ね合わせて、その都度じわじわと足元から這い上がる恐怖を振り払ってきた。
なのに、今日見たこの夕陽はいつもよりずっと暖かいと思った。
彼女が形容したそのまま、優しく雄大に地上の全てを包んでいるかのように。

「ヒトミちゃん」
「はい、神城先輩」

呼びかけると、結い上げた髪をふわふわと踊らせて振り返る。

たぶん、油断した。
そして希望を抱いた。
彼女の持つ生命力が、自分を闇から引き上げてくれるんじゃないかと。
そんな錯覚が目を眩ませた。

「また時間があったら一緒に帰ろうか」
「はい、是非!」

強制にならない口約束程度の申し出を、彼女は嬉しそうに受け取る。
喉の奥をじりじりと焦がすようなこの感情を、どうしたらいいのだろう。
その笑顔を可愛いと思う以上に、胸の奥、心臓の辺りを直接鷲掴みにされたような感触に、微笑みを返す余裕さえなくなりそうだ。

たった一人、特別な誰かを作らずにいたのは何の為なのか。
忘れたわけじゃない。
一日が終わる恐怖と、もう二度と目が覚めないかもしれない不安は、常に頭の片隅で警告音を響かせている。
なのに、惹かれる気持ちは大きく膨れ上がっていて、もう手の施しようがなくなっていた。


【終わり】

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恋愛ルート前提で、文化祭直前というシチュエーション。「内緒話」と繋がってるようなそうでないような。

初出:2007/12/21

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