ふたりの時間
真っ白な壁をくり抜くように開いた窓は、真っ青な空を映している。
白い部屋でそこだけ眩しいほど鮮やかだ。
今は半分ほど白いレースのカーテンで覆われ、繊細な模様の靄がかかっているようだった。
引き戸のドアを開けると丁度ベッドから上半身を起こす神城が見えて、ヒトミは慌てて近寄った。
「神城先輩!」
「……ああ、ヒトミちゃん」
「起きて大丈夫なんですか?」
「うん、今日はわりと調子いいんだ」
ヒトミを迎え入れ、ドアは半開きのまま止まった。
いつでも看護士や医師が確認に訪れ、出入りできるように。
それでも個室内は、廊下の雑音と切り離された世界だ。静謐に白く塗りつぶされた場所。
手持ちの紙袋を脇に置き、ヒトミはベッド脇のパイプ椅子に腰掛ける。
空気が動いてふわりと漂うのは花のような優しいヒトミの香りと、彼女に投げかけられた夏の日差しだ。
「今日は暑い日なんだね」
「え? あ、はい。ちょっと汗かいちゃいました」
ヒトミが首筋をハンドタオルで拭いながら照れたように笑う。
「すっかり夏ですよ。テストも終わったから、これからは毎日来られます」
「来るのは構わないけど、勉強を疎かにしてはいけないよ、受験生くん?」
「は、はい。心得てます」
ヒトミは背筋を伸ばして返答した。
くすくす笑いながら釘を指す神城は、一昨日前まで実施されていた期末テストを理由に見舞いを禁じたほど手厳しい。
線引きを明確にし、互いの生活を脅かさない程度に接触を保つ。
ヒトミが病室に入り浸るのは許可しても、長時間滞在は認めない。帰りが遅くなる場合は、事前に兄・鷹士の許可も必要。
決して無理はしないこと。
それは、神城が常としてきた規範でもある。
不特定多数の女性たちと交流を持っても、決して一線を越えず踏み込ませず、テリトリーを守ってきたように。
「うちのマンションから病院までの道程に図書館があるし、そこを利用しようと思ってるんです」
「そうだね。ああ、もし解らない所があったら教えてあげるから、何でも訊いて」
「はい、お願いしますね!」
神城が意識して線引きしたその内側へ、唯一進入を果たしたヒトミは嬉しそうに笑った。
一年前はとてもふくよかで、笑うと頬の筋肉が柔らかく持ち上がって子供のようだった。赤く染まってつやつやしていて、健康そのものだった。
半分以上の体重を減らした今でも、赤ん坊のような笑顔は変わらない。
ヒトミの印象はいつも、笑顔だ。
泣き顔も怒った顔も、沢山の顔を見てきたけれど、脳裏に焼き付くのはいつだってその笑みだった。
健康的で明るく輝く太陽のような。
どうやったらその笑みを見られるのだろうかと、神城は子供が悪戯を企むように考えている。
いや、笑顔だけじゃない。
もっと沢山、欲張りなほど求めている。
彼女が自分を見詰める、その視線を独占していたいと。
「────ヒトミちゃん」
低く囁いて、手を伸ばした。
指先が頬に軽く触れて、そのまま耳へ。
高く結い上げた髪型はヒトミのトレードマークのようなもので、仕草に合わせてひょこひょこと動くそれはとても可愛らしい。
けれど、同時に首筋や耳元を露わにしていると、彼女は気付いていないだろう。
後れ毛が白い肌に這う様を、男がどう見てるか、なんて。
耳の前で解れて垂れる一束にそっと指を絡めた。
「あ……」
ヒトミは笑みを消して、驚いたように神城を見上げ、次いで恥ずかしげに顔を傾けた。
頬があっという間に赤く染まる。
大きな目に長い睫毛が影を作り、それだけで艶やかな表情になった。
ぞくりと背筋を這うようなこの心地を何と呼ぶのか。
聡い神城は気付いている。
膝の上で重ねられたヒトミの手を取り、そっと引き寄せた。
決して強引なものではない。
逃げようと思えば、彼女はいつでも逃げられる。
けれど、ヒトミは決して逃げようとしない。それどころか、神城の意思に従うように身体を預けてくる。
ヒトミの額に、神城がそっと顔を寄せた。
「お日様の匂いがする」
唇が前髪に触れた所で、神城がふっと微笑んだ。
ヒトミは恥ずかしげに俯く。
本来ならここで頬に手を添え、ヒトミの顔を上げさせて口付けを請うのだろう。
彼女がそれを拒まないのも承知している。
それでも、その一線だけは踏み越えられない。
無論、病室なので誰かが神城の容態を確認しにやってくることもあるだろう。
諸々の検査もあるし、点滴を受けることもある。
そんな所で、恋人とはいえ過度な接触をしていたら、後で何を言われるか解ったものではない。
神城自身は何を言われても構わないが、恥ずかしがり屋なヒトミが心底困った顔をするだろうと、容易く想像できる。
空気感染や接触感染するような病ではないから憚る必要はないが、それでも、と、神城は踏みとどまる。
未だ、暗い感情は胸に張り付いて拭うことはできない。
一緒に乗り越えていくことを誓っても、片隅に恐怖がこびり付いて、まるで影のようについて回る。
彼女を一人、この世に残していくことを思うだけで、張り裂けそうな痛みを感じる。
その時、ヒトミは泣くのだろう。大きな目からぽろぽろと涙を溢れさせて、声を上げてしゃくりあげ、子供のように泣きじゃくる。
神城の名を呼んで、声が枯れても目が腫れても、彼女の嘆きを止められるものはないのだろう。
想像でしかないと解っているのに、思い浮かべるだけで堪らない気持ちになった。
以前に実例を見てしまっている。友人を亡くし、その友人を愛していた女性が泣く様を、間近で見ていた。
だから、一度はヒトミを拒絶しようとしたのだ。
同じように嘆き悲しむ立場に立たせたくないと。
けれど、同時に手遅れでもあった。その時にはもう、神城の中でヒトミの存在は大きくなりすぎていたのだから。
ヒトミは、閉ざされようとしていた扉を開け放つ。
例え悲しんでも苦しんでも神城の側に居たいと、真っ直ぐに神城を見詰めていた。
想いの強さに胸が打たれたのは、つい半年前くらいの事だっただろうか。
胸を締め付けられるような切なさと同時に、受け入れてもらえる喜びを知った。
その喜びの裏側には恐怖もある。命を失う確率はそう低いものでもない。別離への恐れはいつも、病室の片隅に潜んでいる。
だから、今、ちくりと針で刺すような痛みが生じても、それは可愛らしいものだと笑っていられるのだ。
そっと身体を起こすと、ヒトミも顔を上げた。
少し照れたような笑みを浮かべ、神城を見る。
「ああ、そんな顔をしてると」
「え?」
「……悪戯、したくなっちゃうな」
指で頬をつつくと、ヒトミはむうと唇を尖らせた。
「もう、神城先輩! 私で遊ばないで下さい!」
「それは誤解だよ、ヒトミちゃん。僕はこんなに────」
愛おしくてたまらないのに。
神城は声を上げて笑う。
ほんの少しの切なさに揺れながら。
それは、優しく穏やかな午後の一時だった。
【終わり】
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(完治した後に、誰に憚ることなく盛大にいちゃいちゃするんでしょう)
初出:2011/02/24