忘れっぽい天使
公園の片隅に舞い降りた天使
目の前で、細く小さな手がフラフラと揺れている。
腕の持ち主は、先程から公園の低い柵を平均台代わりにしてバランスを取りながら移動していた。
肩から真っ直ぐに拡げられた手が、丁度自分の目の高さにある。
足元は細い柵だ。公園の歩道と緑地との境界を、申し訳程度に主張する。
その上に乗って歩くなど、思いつくのは小学生までではないだろうか。
それでも、この一年未満で体重を半分以下に減らしてしまった少女は、決して食事制限だけでは作れなかった肉体を思う存分動かしたくてうずうずしているらしい。
本人は運動神経が無いと思い込んでいるようだが、身体が軽くなった分、運動の幅も広くなるものだ。
その感覚が、恐らくまだ身に馴染んでいないのだろう。
昔を思い出してやってみようと思ったの、と彼女は笑う。
元から突拍子も無い性格をしていて、見ていて飽きない女の子だ。
次に何をしでかすのか、皆目見当がつかない。
だから突然柵に乗って歩き出しても、多少の驚いたものの平常心で受け止めるくらいの余裕を保てた。
その平常心はすぐに心配へと切り替わる。
見ていて飽きない。けれど、同時に危なっかしい。
真っ直ぐに伸びた両腕が、フラフラと左右に揺れる。
一歩一歩が綱渡りで、足元は常に不安定だった。
大した高さではないから、例え落ちても大事にはならないだろう。
なのに、腕がぐらつく度に一々肝が冷える。
手を伸ばしてしまいそうになる。
すぐ後ろで、先程から指を握っては解いてやきもきと見守る男の存在など、彼女は頓着していないだろう。
その小さな口からは「は」と「よ」とその類の掛け声ばかり出てきて、会話の成立する余地など残されていない。
倒れても受け止められる体制を取りながら、それでも一定の間隔を冒す事も出来ずに、柵を移動する少女の後を追いかける。
いつもなら、シュタインが一緒だった。
二人の間を介在し、決して距離が縮まないように用意した壁の一枚であるはずだった。
幾重にも予防線を張って、壁を張り巡らせ、何人たりと領域侵犯しないように細心の注意を払う。
笑顔一つで状況を切り抜けられる。
偽善ぶった言葉一つで状況を好転させられるのだから、難しい顔を突き合わせて内面をえぐり出すような話などする必要もない。
そうやって、切り抜けてきたはずだった。
その壁が今、決壊しようとしている。
いや、今だったのだろうか。
誰にも打ち明けたことのない過去を暴露した時点で、既に自爆してはいないか。
その前のクリスマスだって、彼女を受け入れていた。
夏休みの旅行の時にもそうだ。その他大勢と言い切るには、桜川ヒトミという存在は特殊すぎた。
何が原因なのかもう判らない。
「そう言えばさ」
「ん? なぁに?」
呼びかけると、律儀に止まってこちらを振り返る。
何時もと違う目線の違いに戸惑いながら、思いついた侭に言葉を吐き出した。
「前に『動物って飼い主の感情に敏感』って言ってたけど、その元ネタって何?」
「え? そんな事言ったっけ?」
顎に手を当て、ヒトミは空を見上げる。
本気で忘れているような様子に、雅紀は肩を落とした。
「忘れてんのかよ」
「あ、あはは、ごめんね。何か思いつきだったのかも?」
「……まぁ、いいけど」
「それがどうかした?」
斜め上から真っさらな視線が降り注ぐ。
その居心地悪さに、彼女の目を見ることは出来なかった。
「べっつに。ただシュタインが……」
「ん? シュタインがどうかしたの?」
何時も真っ先にアンタへ突撃するのは、その所為なのか。
人なつっこい犬ではあるけれど、ヒトミに対する態度は一線を画す。
寧ろ主人以上の懐き方だ。
全身で親愛を顕す。
大好きと、主張してるのは。
「モップみたいに走り回るからさ」
「あはは、走り回るのが好きなのは、飼い主に似たのかもね!」
笑った拍子に、彼女の足元がぐらつく。
「おい」
「わわわ」
腕をばたつかせてバランスを取る。
垂直を取り戻して、ヒトミはえへへと笑った。
「……ったく、危なっかしい」
「ごめんね、心配かけて」
伸ばしかけた手を、所在なげに握り締める。
気付いた彼女が率直な謝罪を寄越した。
ひょいっと跳ねて歩道に戻る。
頭の上で髪が跳ね回り、いつもの目線に戻った。
斜め下に彼女の頭がある。
優しいシャンプーの香りが、一瞬だけ鼻先を掠めて通り過ぎた。
「別に。謝ることじゃないだろ」
「んー、でも私が言いたかったから」
彼女が小首を傾げて、雅紀を見上げる。
真っ直ぐ見ていられないのは、彼女の真っさらな目があるからだ。
それが上からだろうが下からだろうが関係ないのだと、改めて気付く。
「ふーん」
変な女、と口の中で呟いた。
「それより、今日はもう帰るか。テストも近くなってきたし」
「そうだねー。勉強しなくちゃ」
我ながらわざとらしいと自覚しながら話題をすり替える。
気付くことなく、彼女は相槌を打つ。
雪解けにはまだ遠い二月の風に襟元を抑え、雅紀はそっと白い息を吐き出した。
【終わり】
Comment
恋愛ルート、2005年バレンタイン前後。過去をバラして気持ちを自覚してるんだろうな、と。
初出:2006/10/30