美しい世界
自分をつくりあげる世界、その全てに彼女が関わり、繋がっていることの歓喜と恐怖。
実家から貰った新しいカレンダーは世界各地の名所旧跡を映したもので、日付を確認する以外にも真っ白い壁を埋めるインテリアとしても申し分ないものだった。
唯一難を言えば写真と全く縁のない無粋な会社ロゴが全ページに渡って印刷されていることだが、タダで譲り受けたものなのだから仕方がない。
見覚えのある社名は親の取引先だったが、雅紀にとってはどうでもいいことだ。
昨年は、スケジュールを書き込めるように数字と空白の並ぶ、じつに味気ない実用的なものだった。
今年になって写真の割合が大きいこれを貰い受けたのは偶然に等しい。
丸められたカレンダーの山からそれを引き抜いて、広げてみたら真っ青な空がまず目に飛び込んできた。
「綺麗な空だね~!」
ほぼ雅紀の予想通り、部屋に入るなりヒトミが大声を上げる。
きっと彼女ならそう言うだろうなとは思ったが、こうも期待を裏切らない結果を得てしまうと、正直面白くない。
だから返答の笑顔も少しだけ歪になる。「優しい華原雅紀くん」から抜け出さないギリギリのラインで反論はするりと口から洩れた。
「そう? 在り来たりな写真だと思うけど」
「そんなことないよ、すっごい綺麗」
にっこり笑う彼女の腕に抱かれたシュタインまでもが頷くようにわん!と吠える。
案の定というべきか、小さな反抗心は容易く潰されて、しかし潰した当の本人は何一つ気付かない。
桜川ヒトミがこの部屋へと入り浸るようになって、もう半年以上が経とうとしている。
その回数を数えるのも馬鹿馬鹿しいほどで、彼女はクラスメイトの誰一人として招き入れたことのないプライベートな空間に入り込んだばかりか、すっかり馴染んでしまった。
油断していたとしか思えない。
然もなければ、よっぽど彼女の手管が優れていたのか。
しかし、嘘や誤魔化しと無縁なほど愚鈍で真っ直ぐなヒトミに手練手管などあるはずもない。
マンション管理人の娘という彼女の立場はクラスメイトより有利なのだろうが、それは所詮ゼロかマイナスかの僅かな差違にしかすぎず、アドヴァンテージにさえならないはずだった。
例えばテスト勉強やレポート作成などの言い訳があったにせよ、はじめに招き入れた時の気紛れな親切心がすなわち油断だったのだろう。
今では何の用件が無くても招き入れ、居座る事を無言の侭許可していた。
にっこり笑顔と適当な言い訳を並べて後腐れもなく追い出してしまうことも出来るのに、だ。
そしてソファに座れば、当たり前のようにシュタインが膝に乗る。
その動作一つ一つが決められた約束事のようだ。
教えた覚えもないのに、シュタインはヒトミを日常の一部として認識しているのだろう。
彼女が部屋に居る時は決して側を離れない。
それどころか、膝や腕を独り占めにする。
飼い主の膝よりずっと居心地が良いだろうが、抱かれたまま完全に寝入ってしまうのだから飼い犬ながら呆れるばかりだ。
そんな時、彼女はとても優しい目をして丸まった背中を撫でる。
ゆっくりと、形を確かめるように優しく、決して眠りを妨げないよう気を配って。
それは雅紀がぐしゃぐしゃにかき回すような撫で方と正反対のもので、彼女の有り様をそのまま体現しているかのようだった。
身体の内側が妙にむず痒い気分は、いつまで経っても慣れはしない。
しなやかで白い手を見ていると、じっとしているのが難しいような、居たたまれない気分に陥る。
キッチンに逃げこむと、茶すら出していないことに気付いた。
戸棚を開けてマグカップを取り出す。客人用にと用意しておいたそれは、今やすっかりヒトミ専用になってしまっている。
気付けば、そんなものだらけだ。
細かいもの一つ、例えばこのマグカップもスプーンも、ちょっとした茶請けの菓子(ダイエット中の彼女を慮って甘さ控えめのものばかり)を乗せた皿やフォークに至るまで、一人暮らしには必要のないはずだった余分な物が、ヒトミ専用として戸棚に収まっている。
部屋の隅々まで彼女の因子が散らばって、掃除機なんかじゃ払えない。
そして、彼女は部屋の変化に敏感だった。
新年になって取り替えられたカレンダーを、熱心に見ている。
「そんなに気に入った?」
ガラスのテーブルにカップを並べた。
彼女好みのジンジャーミルクティが湯気を立てている。
「うん、雪を被った山もそうだけど、その向こうの青が……なんていうのかなぁ、深い色っていうのかな、私たちが普通に見てる空とは別物みたい。世界にはみたこともない綺麗なものがまだまだいっぱいあるんだなぁって思う」
一月のカレンダーは真っ白に雪化粧されたどこかの山と、嘘みたいに快晴の空を映した写真が使用されている。
恐らく季節感からその写真が選ばれたのだろうが、山よりも空が印象的な一枚だった。
同じものを見て、同じことを感じている。
「新年からいい写真だね」
自分のことでもないのにヒトミは嬉しそうに微笑んだ。
直視出来なくて、不自然にならないように細心の注意を払いながらそっと視線を外す。
肉眼で太陽光を見たような気分だ。眩しさに、目が眩む。
じりじりと目の奥が焼かれるような心地は、胸にまで浸食した。
喉が痛んで、適当な相槌さえ返せないまま黙り込んだ。
途絶えた会話を埋めるように、シュタインが寝息を立てる。
改めて視線を寄越すと、ヒトミの腕に抱かれて安心しきったように四肢を投げだしたミニチュア・シュナイザーが見えた。
みっともないにも程がある。
その間抜けな顔さえ、ヒトミは優しく愛しそうに────他人にそう誤解されかねない目で見つめるのだから、たまらない。
咳払いして自分のカップを持ち上げた。
口をつけるとブラックコーヒーはまだ熱くて、舌がひりひりと痛んだ。
【終わり】
Comment
一応、恋愛ルートの雅ヒト。新年の休みにヒトミが部屋に遊びに来たというシチュエーションで、ユウキイベントが起こる前、という状況。
初出:2007/09/07