ファム・ファタル

たった一人、この手を取って新しい扉を開いた人。


彼女の見ている世界は、きっと何もかもが平坦で滑らかで綺麗に整えられているのだろう。
嘗て自分がそんな世界を見ていたから、手に取るように判る。
その下にどんな汚泥が溜まりマグマのように沸き立っているのか知ろうともせず、人は親切なもので愛は平等だと盲信していた。
人に与えた分の親切や情は、そのまま自らも得られるものだと思い込んでいた。
幾度となく友達だ親友だと言い尽くしたって結局可愛いのは自分自身で、感情より利益を優先することは間違っていないし本能ですらある。
人間なんてそんなものだと割り切ってしまった時から世界は暗転する。
白く真っ新に輝いていたそこは、暗澹とした雲に覆われ仄暗い荒涼へ成り果てた。
生きていく本能は感情と折り合わないもので、自らを守るためなら嘘だって吐けるし、他者を犠牲にすることだってある。そもそも人間という存在自体が沢山の生き物を犠牲にしてその上に生かされてるじゃないか。
そこまで突飛な考えに至って、ふいに可笑しくなった。

たった今だって生きようとする本能が働いている。
変わりやすい山の天候から逃れ監視用の山小屋に避難し、暖を取って一夜をやり過ごそうというのだ。
今、この世で一番共に居たくない相手、桜川ヒトミと。
会話は当に尽きて、疲労がずっしりとのし掛かる。
狭い小屋で逃げ場もなく、少しでも距離を取ろうとすれば途端に容赦ない冷気が体を苛む。
この旧式オイルヒーターが生命線で、スキーウェアと毛布だけでは凍えてしまう。
結局は触れ合わないぎりぎりの距離感のまま寒さと睡魔と疲労と空腹感、そして固唾を呑まされるような空気に耐えなければならなかった。
今更の後悔が苦く胃の上あたりをちりちりと焦がす。

何故、追い掛けてしまったのだろうか。
クラスメイトから聞いた情報に、足は自然と走り出していた。
そこに冷静な思慮なんて欠片も無く闇雲に、ただ彼女がいそうな場所を目指して進んでいた。
上級者コースと一口にいっても、目立った目印も明確な道筋もない雪の降り積もった広い山の中でたった一人を見付け出せたことは、奇跡に近い。
その上、誰にも明かしたことのない過去を思い切りぶちまけてしまった。
旅行前には、本性だって暴露している。酔狂もいい所だ。
今の今まで周囲に壁を築き上げて侵入を拒み、また他者への干渉も避け、その上で完璧な仮面を見破られないよう細心の注意を払ってきた。
クラスメイトで居住するマンション管理人の妹、桜川ヒトミへの接触は嘗て類を見ない異例中の異例事項だ。
何故か。
この自問自答は、今に始まった事ではなかった。

きっと彼女の目があまりに澄んでいるからだ。
だから傷付けたくなった。
この世界は決して綺麗ではないし、人間は自分勝手で信用に値しない。誰も彼もが自分の利益ばかり優先し、他者を傷付け貶めたって振り返りもしない。
そんな存在だと思い知らせてやりたかった。
綺麗な、疑うことを知らない視線は鉄壁の仮面に対してのみ注がれるもので、決して中を見透かす部類の物でもない。彼女はそんなに聡い頭をしていないと侮蔑し、切り捨ててしまおうと思った。
本性を見せてしまえば、近寄ったりしないだろう。
女は優しくしてくれる男が好きで、冷たく突き放すような男だと判れば怒るか泣くか呆れるか、どっちにしろ遠ざかっていくだろう。
それでいいと思っていたのに。

突き放してみても、何も変わらない。
それどころか事態は悪化の一途を辿ってしまっている。
彼女を探しにこんな所まで来て、遭難寸前の憂き目にあっている。馬鹿正直なのは誰だ。大声で嗤ってしまいたいくらいだ。
それが声でも何でもよかった。溜息のように深く息を付いて、体の中に蟠る何かを追い出してしまいたかった。
先程からずっと固く重いものを誤飲してしまったような胃痛に似た違和感が、胸の底あたりに張り付いている。
最初はきゅうきゅうと締め付けられているような痛みだった。
それが重く爛れていくように底へ底へと浸食する。
これは何なのだ。
確かに疲労と空腹はあるだろうが、明らかに種類が異なる。


リフトに乗ったという目撃証言を聞いて直感した通りに桜川はクラスメイトの悪意に曝され、正直にのこのこと超上級者コースへ迷い込んだ。
「こんな目に遭っても信じられる?」
思い知ればいい。世の中に信じられる対象なんていない。
傷付けばいい。そんな眼でオレを見るからいけないんだ。

なのに、何故。
自分がこんなにも痛みを感じているのだろうか。
過去を暴露して思い通り彼女を傷付けて、なのに心は一向に晴れない。
それどころか、こっちの胸がずきずきと痛みを発している。
優しさは演技で、親切は気紛れで、言葉は嘘ばかりだった。壁は鉄壁で、防備は万全だった。
望み通りに傷付けて、彼女は思惑通りに離れていくだろう。
なのに、離れていくことを思うだけで胸が張り裂けそうになる。今だってこんなに痛いのに、想像するだけで更なる痛みが加わった。
こんなはずじゃなかった。
いつのまに、綻びができていたのだろうか。
彼女を信じてるわけじゃないと言い訳してみても、ちっとも説得力が無い。
こんな所まで探しに来たのは、紛れもなく華原だ。誰に強制されたわけではない。
初心者の桜川が心配だった。




他人なんてどうでもいい。
放っておけばいい。
そいつが怪我しようが関係ない。
オレの所為じゃないし、悪意と嘘を見破れずに真っ正直に信じたツケが回っただけで、それこそ自業自得というものだ。
何度となくそう思った。
思うのに、体はまるっきり逆の行動ばかりしやがる。
人間のすることなんてみんな脳味噌が指令を出しているのだから、愚痴や悪態や侮蔑やその他胸中に吐き出した雑言の数々も、彼女を助けようとする行動も同じ脳が発したことになる。
何もかも相反して筋が通らない。

なのに、彼女は。
桜川ヒトミは、ただ懸命に手を掴む。
細い手足になった己の体を省みることなく、自覚もなく、ただがむしゃらに。




朝を迎えた雪山は、きらきらと光を反射した壮絶な世界だった。
高く晴れ上がった空が嫌味なほどで、空気は吸い込んだ器官さえ凍らせるほど冷え、風もなく穏やかなのに張り詰めたような鋭さをもって人間を迎え入れた。
森林の木々に凍り付いた雪は結晶を作り、前日とは別世界なのではないかと錯覚するほど景色を変えている。
一睡もできずに、朝を迎えた。それは華原も桜川も同じだった。
空腹と疲労で多少の眠気はやってきても、すぐに目が覚めてしまう。
空だけでなく日が差し込んで室内も明るくなった所で、怠い体を叱咤するように動き出した。
山小屋に置いてあった地図で方角を確認し、改めて慎重に滑り出した。
この天候なら程なくして帰路に着けるだろう。

そう思って油断したのだろうか。
それともまともな睡眠時間がとれなかったために起こった不調で、注意を怠った己の過失だろうか。
桜川の体がぐらりと揺れた。
道から逸れて断崖がぽっかりと空間を開けている。彼女は今まさにそこへ落ちていこうとしていた。
反射的に手を伸ばす。やばいまずいと、それだけが思考を埋める。
彼女の腕を掴んで傾いた体勢を逆に引っ張り上げた。思ったより軽くて拍子抜けするほどだ。
掴み上げた勢いはそのまま華原の体勢を崩した。足場を踏み外し、重力の法則に従って崖下へと吸い込まれる。
咄嗟に手を伸ばして張り出ていた木の根にしがみついた。
それでも自力では登り切れず、下を見れば結構な深さが見て取れた。

ああもう、どうにでもなれ。
この高さで積雪量を考えたら死ぬこともないだろう。
足の骨は覚悟しなければならないし部活は来年最後だが、この際仕方ない。

自暴自棄になっていたのだろうと思う。
ぐるぐると出口のない自問自答に疲れ果て、全てを投げ出してしまいたいと半ば本気で思った。
何も信じられない世界の、それでも綺麗な景色の中で死ねるのなら幾分マシだろうと半ば自嘲気味に口を吊り上げた時、頭上に桜川が乗り出してきた。
「華原君、手を伸ばすから、捕まって!」
信じられない。我が目を疑った。
放っておいて先に下ってしまえばいい。助ける気があるなら教師や救急隊でも呼んで来た方が効率がいいだろう。女の細腕でどうにかなる問題でもない。
それでも彼女は必死に食い下がった。梃子でも動かず華原を助ける気のようだ。
渋々と従うが、案の定掴んだ手は重さにぐらりと揺れた。何とも頼りなく覚束無い。

桜川は元々百kgを超す体型だった。
それを脅威の根性と努力で半分以下に落としてしまった、クラスでも伝説になるつつある少女だ。
食事制限とトレーニングを合わせた健康的な方法らしいが、サッカー部所属で鍛えた肉体を持つ男を支えられるだけの筋力なんて想定していなかっただろう。
掴んだスキーウェア越しの腕は酷く細くて今も微かに震え、支えるだけで精一杯と如実に語る。
このままでは二人共に落ちてしまう。

「もういいから手、離して」
そう思って離そうとしても、桜川がそれを許してくれない。
「……い、やだ……!」
顔を真っ赤にしながら懸命に引っ張り上げようとする。

どうして? 何故?
あんたがそんなに頑張る必要はないだろう?
放っておけばいい。
人間なんて信用できないなんてせせら笑い、傷付けるだけの男に懸命になる理由が無い。
綺麗な目をしてまっすぐに見つめるあんたには、たぶん相応しい世界がある。
こんな状況に巻き込まれたのはオレだけど、オレの事柄にあんたが巻き込まれることはない。
ああこんなこと考えてる時点で終わってる。
もう、ダメなんだ。

「いいから、手を離せって!」
「嫌だって言ってるでしょっ! グダグダ言ってないで、もっと頑張ってよ!」
普段にはない口調の荒さで、桜川が華原を叱り飛ばした。
視線の強さに言葉も出ない。
まさに親から叱られて意気消沈する子供のようだったと、華原は後になって思い返して苦笑するほど大人しく桜川に従っていた。
腕を掴み、スキーウェアを引っ張り上げる彼女に合わせて、足場を確保してよじ登る。
平坦な雪の上に辿り着いた時は、互いに息が上がって暫く会話にならなかった。
先に呼吸を整えたのは華原だ。やはり鍛え方が違う。しかし何を言えばいいのか躊躇って、口を閉ざす。
まだ荒い息を繰り返しながら、桜川は華原の予想を超えた一言を発した。
「か、華原くん、怪我してない?」
本気で華原を心配している。何が何でも自分を後回しにしたいらしい。

込み上げてきたのは紛れもなく怒りだった。
無茶もいい所だ。下手をしたら桜川まで落ちていたのかもしれない状況で、他人ばっかり心配するなんて。
華原自身でも制御できない大声を出していた。
「あのままだったら、お前まで怪我してたんだぞ!」
「手を離せるわけないじゃない!」
負けじと桜川が叫び返す。
その鋭さに息を呑んだ。
呆然と、その泣きそうに歪んだ顔を見る。その目は必死に華原を見つめて揺らがない。
その顔が綺麗だと思った。
おそらく口をぽかんと開けたまま呆けたように動けなくなっている自分よりずっと。

「華原君は何で助けてくれたの? 『人は信用できない』って言うんなら、私の事なんか放っておく事もできたわけでしょ」
彼女の言葉が今更ながらに胸に突き刺さる。
こんな状況になっても『親切な華原くん』は存在していて、尚かつその行動は明らかに常軌を逸していた。
放っておけばよかったのにのこのこ追い掛けた。
少ない食料を分け与え、体調を気遣い、崖に落ちそうになった彼女を咄嗟に助けたのは、紛れもなくこの手だ。
尤もな追求にぐうの音も出ない。

「でも自分が危険な目にあってまで助けてくれた。そう思ったら、絶対にこの手は離せない、この人を裏切れないって思った」
強い視線が華原を射抜く。
幾度も傷付いたはずだろうに、光を失わない目だった。
傷付けてやりたいと、思い知らせてやりたいと思ったそれは、純度の高い原石だった。

結局、思い知らされたのは華原の方だ。
他人なんて信じないと言い、傷付けて切り捨ててしまおうとしても、結局この手は桜川を救おうと伸びてしまう。
傷付いてほしくない。彼女だけは、守ってやりたい。
ご託を並べ理論武装したその裏側で確実に育っていた気持ちだった。
彼女ただ一人が、華原に手を差し伸べる。
この世界でたった一人、真正面から華原の目を見て物を言い、揺るがぬ視線で雁字搦めに縛り付けてしまった。





彼女と出会ってからというもの、驚かされてばかりだ。
廊下に立つだけで二人分の横幅を占領していた体型を一年未満で平均的な一女生徒のものにまで落とし、文字通り別人のように変身を遂げてしまった。
周囲が驚嘆し手のひらを返して持てはやす中、当の本人は飄々としたもので気に掛けた風もない。

彼女を評する言葉は至って単純明快だ。
お人好しで脳天気。お節介で真っ正直。
教室で見かけても、住居のマンションですれ違っても、いつも笑顔だ。
悩みを知らない―――よくも悪くも子供のような、満面の笑み。
女が男に向けて放つ着飾った、悪く言えば媚びるような色の無い、感情がそのまま透き通るような真っ新な貌だった。

今時、ここまで無防備に自分をさらけ出す人間がいることがまず驚愕すべき事柄だ。
よほど大切に愛されて育った、おめでたい思考回路の持ち主なんだろう。
事実、彼女の身内は馬鹿がつくほどの子煩悩(妹煩悩と言うべきか)だった。


本性を知られたくない華原が桜川に嘘をつくことは簡単だった。
赤子の手を捻るとはよく言ったもので、当初こそ慎重に予防線を張り距離を測り間合いを取っていたが、それもバカバカしくなるほどあっさり罠にかかった。
「人気者の明るくて親切な華原くん」を信じ込み、「優しい言葉と態度」に騙される。
そうとは露知らぬまま、桜川は仮面を付け続ける華原と友好関係を続けた。
なんて滑稽な一人芝居だと嘲笑うより先に、不快感が華原を苛む。
彼女はありのまま、華原の張り巡らせた防壁を突破して、パーソナルスペースの内側へ踏み込もうとさえした。

苛立ったのは、疑うことを知らない子供のようなその目だ。
まっすぐに華原を見て、その視線がまるで仮面をこじ開けるようで、彼女がそう意図したわけではないと判っていながらどこか居心地の悪さを感じ始めたのはいつだったか。
本性を曝せば、さぞ傷付き怖れ忌み嫌うだろう。
八つ当たりのように過去を暴露してみれば予想通りだ。
傷付けたその手応えまではっきり感じさせるような顔をして、呆然と華原を見つめていた。

正直、気分は良くなかった。
さぞ痛快だろうと、ささくれ立った心中の鬱憤を晴らし溜飲を下げてくれるだろうと思った、その予想だけが大きくはずれている。
自分がこんなに動揺していることにも驚いたが、その後の彼女にも驚かされた。


傷付けられたというのに、華原を信じようとしている。
他人を信じて、その過ちを許そうとしている。
上級者コースを初心者と偽って故意に情報操作した同級生を無罪放免にして、桜川はただ、己を案じてくれた友人たちに笑顔を向け、迷惑をかけたと謝っていた。

「……いろいろと助けてくれてありがとう。あと……辛い話、させちゃってゴメンね」
更に、華原に向かって頭を下げる。
「別に」なんて素っ気ない態度しか返せない。
自分がこんなにも不器用だとは知らなかった。
彼女を目の前にして、言葉に詰まる。

さらけ出した本性は決して「明るく優しい」ものではない。誰もが好意を向ける「華原くん」は虚像だ。
彼女はそれを知ってもなお、笑顔を向ける。
その事実に、酷く居心地が悪くて逃げ出したいと思った。
けれど同時に強く惹き付けられた。
側に居たいと強く願う気持ちが芽生えて、喉を塞ぐ。

彼女に驚かされるのは今に始まった問題ではない。
なのに、一つ一つの出来事が焼き印を残すように胸の内側を焼いた。





スキー場から還ってみれば、案の定大騒ぎだ。
教員からは説教をしこたま喰らい、顔を合わせた桜川の友人らからは質問攻めにあった。
彼らの脱線しがちな雑談の中には、幾つかの情報が紛れていた。
一つは救助隊要請一歩手前にまで発展していたこと。
二つ目は遭難の理由だ。
表向き、上級者コースに迷い込んでしまった桜川を華原が助けに行って遭難した、という言い訳は用意していた。
事実、教員も級友らもそれで納得していたし、疑う余地はない。
しかし、そこに作為があったという話は伏せられていた。
桜川も当人を前に許すという決断をした以上、当事者が口を噤めば外に漏れない。
それでも目撃者は居て、噂は好き勝手吹聴される。

「お、華原が戻ってきた」
「災難だったなぁ」
「大丈夫かよ」
「お陰様で無傷だよ。気分は……ああ、眠いってくらいかな」

一斉にクラスメイトが華原を取り囲む。作り上げた笑顔は完璧だった。条件反射のようなもので、顔の筋肉一つ一つが脳神経のコントロールに従う。

「おお! 意味深発言来た!」
「つか、二人っきりで夜明かし! やるじゃん、華原!」
「これを狙ってたんじゃねーの?」
「やっぱ裸で暖め合いとかやっちゃった?」
「遭難シチュエーションっていいよなぁ!」

高校男子生徒が幾人も寄って集れば、下世話な話など当然のように出てくるものだ。
当人には間違っても聴かせられないが、女子のいない環境は彼らの口を滑らかにしている。
桜川らの泊まる女子部屋から出て男子部屋エリアに戻ってくれば、廊下は猥雑な台詞に溢れていた。
天上から下界に戻ってきた気分だ。
つくづく下らないと思うが、顔には出さない。

「そんな状況じゃないって。スキー客監視用の小屋に避難して夜が明けるのを待ってただけだし」
「えー、でも相手はあの桜川だろ?!」

華原の、完璧に作られたさわやかな笑顔の一端が凍り付いた。
目尻の頬がぴくりと痙攣して止まる。周囲はその異変に気付かない。

「痩せてから随分人気出て来たよな」
「あんなに可愛いなんて詐欺だよ」
「ちくしょー、俺もスキー場で声掛けておけばよかった」
「なんか一人でフラフラしてたから、おかしいとは思ってたんだよな」
「すっげーチャンスだったんじゃん」
「一年前の体型じゃゴメンだけどさぁ」

好き勝手な発言が飛び交い、誰かの妄言に爆笑が巻き起こった。

渦の中心に居ながら、華原の口は固く閉じられる。
俯き加減に首を傾け、前髪で表情を隠す。
さり気なく両手をポケットに突っ込んだ。
きつく握り締めた拳など、誰の目にも曝すわけにはいかない。

「んじゃ、俺、一眠りしてくる。時間になったら知らせて」
「ああ、おつかれー」
「またな、華原!」

労う級友たちの輪から抜け出した。
逸る手足を押さえるのに精一杯だった。走り出したい一心をひたすら制御する。
華原の異変になど頓着せず、背後で雑談は取り留めもなく流れていた。
華原と桜川への興味はこの一時のみで、しばらくすれば興味は別のものへと移るだろう。後腐れなんて何一つない。
不快感はこの一時だけだ。自らに言い聞かせる。

廊下を曲がり、人気が無くなった所から足は自然と速まった。
番号を振り分けられた同じ色のドアが続くが、目に入るのは目的の番号だけだ。この地で唯一、華原が華原で居られる場所。
割り当てられた部屋への道筋を足早に、一直線に進む。
距離も時間も掛からない狭く短い廊下なのに、やけに遠く思えた。
気ばかり急いて、頭の片側がガンガンと痛む。

辿り着いたドアを半ば乱暴に開け、安全な室内へと逃げ込んだ。
鼓動は自然と早まっていた。肩で息を付き、呼吸を整える。
ふと両手に血が通う感覚と痛みとを覚え、視線を落とした。固く握った指を開いて、白く変色した手のひらが一気に赤くそまる。
爪が当たっていた皮膚にくっきりと痕がついていた。痛みはそこから発せられ、全身を蝕んでいく。
力無く扉へともたれ掛かる。
大きく天井を仰ぎ、顔を片手で覆った。

真実を隠すために、幾つもの嘘をついてきた。
本性を見せないための隠れ蓑を何枚も着込み、幾つもの予防線を張ってきた。

未だ過去の傷は腹の底でじくじくと痛む。
それは癒されることなく時が瘡蓋となって覆い隠してきただけだ。

それでも、と閉じた目蓋に、悪意をぶつけてきたクラスメイトを許した桜川の横顔を思い浮かべる。

複雑そうな顔だった。
下手をしたら命さえ危うい状況に醜く稚拙な妬心が原因で追い込まれ、冗談では済まない事態に陥れられた。
殴るくらいじゃ釣り合いは取れないだろう。
それでも桜川は言う。
「彼女も苦しんだだろうし」
この一晩、後悔と自責の念に捕らわれただろうと、相手を思い遣った。

柔らかい彼女の感受性は、華原にも向けられる。
「辛い話、させちゃってゴメンね」
話を切り出したのは華原であって、彼女が謝る事柄ではない。
そこに傷付けてやりたいとすら思う華原の悪意が潜むのに、それすら受け入れて尚も包み込むようだった。
手を伸ばして、掬い上げてくれた。

桜川だけが、ただ一人、本当の自分を見てくれた。

そんな彼女を貶めるようなことを、どうして華原が出来るだろうか。
大切すぎて、その存在が大きすぎて重すぎて、心の整理が追い付かない。
単なる友達じゃ、圧倒的に足りなさすぎる。
それを恋と呼ぶには、痛みが強すぎた。
本当は気づき初めていて、だからこそ自分から拒否しようとしていた。
思惑は外れ、更なる泥沼に入り込んだ。
その現実が華原を打ちのめす。

級友たちの下世話な話題に曝すことを許さないほど、清らかな場所に彼女は存在した。
ただ笑っていてほしいと、願うほどに。


扉にもたれたまま意識が飛びそうになって、華原は重い体を引きずるようにして起きあがった。
せめて暖かいベッドで眠ってしまおう。
起きたらまた現実は残酷に流れていく。そのための休息が華原には必要だった。


【終わり】

Comment

華原は基本的に終業式の恋愛イベントに至るまでは救われてないんじゃないかと思ってます。

初出:2008/02/29

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