マイ・フェア・レディ
閉じ込めていた蛹を破り捨てて蝶は羽根を広げる
「お、桜川。どーした? こんな遅くに」
「先生、こんばんは」
ぺこっと会釈した拍子に、頭上で纏められた茶色の髪がぴょんと跳ねる。
その動きが可笑しくて口元を抑えていたら、「何笑ってるんですか?」と睨まれた。
若月は咳払いして表情を改める。
「お前、こんな時間にコンビニたぁ、いい度胸じゃねーか。夜食は肉の元だぞ」
「わ、わかってます! ミネラルウォーター買いに来ただけです!」
真っ赤になって抗議する顔は、随分とすっきりしてきている。
体重は順調に落ちていて、細くなった手足や頬など外見の至る所にダイエットの成果が如実に表れていた。
それなのに、だ。
現在、桜川ヒトミが着用しているのはだぼついたTシャツと中等部指定のジャージ。
室内着そのままで外に出て来ましたと言わんばかりだ。
この事態は、彼女を溺愛する兄の危機管理能力が如何なく発揮された結果なんだろう。
確かに少女の危険回避の役には立ちそうだ。
しかし、その服装そのものを受け入れてしまっている彼女自身の感受性に関しては、どうなんだろうか。
「つか、お前それ中学ジャージか」
「ええ、そうですよ。中一の時使ってたのを捨てていなくて、ちょうどいいサイズだったんで」
試しに突っ込んでみれば悪びれない返答だ。
ミネラルウォーター2リットルボトルが入ったビニール袋を持ち彼女を玄関先まで送るついでに、ジャージを使う経緯をじっくり拝聴することになった。
曰く、中等部入学から一時期しか着ることが出来なかったジャージはタンスの肥やしになったまま放置されていたそうだ。
そのあたりから体重増加が激しく、制服も体操服も随分買い替えるハメになってしまったという。
体重が平均まで落ちた昨今、服の選別をしていた所に当該のジャージが出て来て、試しに着てみればぴったりだったらしい。
勿体ないのでそのまま部屋着として着用、という話をしていたら、マンションのエレベーターが降りてきて扉が開いた。
ヒトミの背を押して中に入れると、若月も続いてエレベーターに乗る。
「着られなくなったのを処分してしまったから、今ちょっと服が少ないんですよね」
ヒトミは少し困ったように眉を寄せた。
なるほど、兄が声高に主張するように彼女の容貌は、美少女コンテストに出して遜色のないものだろう。
今までは埋もれていた目鼻も、贅肉をそぎ落として形を表せば秀麗と称しても大袈裟ではない。
惜しむべきは服装のみで、お洒落をさせたらさぞ目立つだろうと想像させる。
「それじゃあ、兄貴に強請って服を買ってもらったらどうだ」
「え? お兄ちゃんに、ですか?」
驚いたように見開かれた目がまんまるで、若月はつい笑ってしまう。
「何だ、そんなに驚くことでもねーだろ」
「だってお兄ちゃんが買ってくる服なんて、これとそんなに変わらないんですもん。だったら、お小遣いからやりくりして自分で買いますよ。でも、お兄ちゃん、私が買ってくる服にもいちいち文句言うんですよねー。あれって、何なんでしょう?」
「────―ったく、鷹士の野郎は……」
思わずヒトミから目を逸らし、上昇を続ける箱の天井を見上げた。
予感的中なんてもんじゃない。鷹士の思考と行動とその結果一字一句を見てきたように読めてしまって、薄ら寒ささえ感じる。
渇いた笑いしか浮かばない。
エレベーターが五階に到着する。
兄妹二人が住む部屋まで、あと数メートル。
その間に、言うべき言葉は一つだけだった。
「それじゃあ、オレ様からのアドヴァイスだ。耳の穴かっぽじってよーく聞け」
「────―そうやってヒトミを煽動したのは先生デスカ」
「人聞きの悪いこと言うな。オレ様は生徒の相談にのってやる優しい養護教諭なんだよ」
「だからって! 急にデートだなんて言われて喜び勇んで出かけた先はデパートのバーゲンだし、満員電車みたいな人混み掻き分けての服選びに三時間もかかるし、量も凄いし、どんな服だったのか全然チェックできなかったし、何よりこのレシート! この金額!」
「おー、長ぇなこのレシート。んで、見事にゼロが四つ並んでやがるなぁ」
「笑い事じゃなーい!」
「そんぐらいお前なら安いもんだろ。可愛い可愛い妹のためなんだし?」
「────―」
全国にチェーン展開する安さを売りにした店は、酔っ払いの大声と歓声と笑い声があちこちから沸き上がって猥雑な雰囲気に包まれていた。
煙草と炭水化物と動物性脂肪の匂いが混ざった空気は、料理の湯気や炭火の煙まで加わって白々と漂っている。
薄汚れたコンクリート打ちっ放しの壁に色落ちしたメニューがずらりと並ぶ。
その中から互いの好物を注文し終えて、あとは消費するだけだ。
手狭なテーブルにこれでもかと皿を並べ、ジョッキで生ビールを呷る。
野郎の愚痴を聞くにはこの程度の店で十分だ。
そうでなくても、妹関連の愚痴に付き合わされる時は深酒になる。
更には暴れたり大声で妹の名前を連呼したり泣きだしたりするもんだから、始末に負えない。
今夜はどんな戦歴を重ねるのかと、若月は半ば自暴自棄の心境だった。
ヒトミを嗾けたのは確かに若月自身で、結果として鷹士のやけ酒に付き合わされるんだろうと、初めから予想できていた。
正直、レシートの長さは驚いた(わざわざ自分に見せるためにとっておいた鷹士も大概だ)が、割引セール時期を狙ったのはせめてもの思いやりと優しさなのだ。
バカバカしくなるほど高い服を大量に買わされるよりずっとマシだろうに。
「そりゃあ、ヒトミのためなら何だってするけど!」
「だったら問題ねーだろうが。大体なぁ、年頃の娘が着る服少ないって嘆いてるのを目の当たりにしちゃあ、不憫ってもんだろ」
「うっ……」
「折角、体重も順調に落ちてんだしな。目標体重まであと少しだ」
「うううっ……」
若月の追求に音を上げた鷹士は、程良く酔いが回った顔をテーブルに突っ伏してしまう。
彼の収入ならいくらでも高い服を買ってやれるだろうし、妹に懇願されたら否と言えない性質だと自覚しているだろうに、自分から振り回されてドツボに填っている。
まったく、世話の焼ける兄妹だ。
「そんなに、アイツがお洒落するのが嫌なのか」
「……別に、嫌ってわけじゃ」
「じゃあ何だよ」
「────ヒトミを、誰の目にも晒したくない。本当は、閉じ込めておきたいくらいなのに」
テーブルに向かって呟かれたくぐもった声と発言を、若月は聞こえないフリでやり過ごした。
「もう、お兄ちゃんってば!」
酔っ払って前後不覚に陥った鷹士を担いで連れて行けば、いつものようにヒトミが目を吊り上げて迎えてくれた。
ヒトミは、以前コンビニで見たような着古した部屋着ではなく、花柄のついた可愛らしいシャツを着ている。
色落ちダメージのついたジーンズもお洒落で、見違えるようだ。
制服でさえ衆目を集めるようになってきたのだから、当然の結果なのだろう。
鷹士の焦燥を、少しだけ理解出来るような気がした。
化粧など必要としないきめ細かい肌に、健康的な血色のいい頬と黒目がちな大きな目は、それだけで価値がある。
人は身に付ける服装で印象が変わるものだが、彼女の場合その振り幅が尋常でない。
このまま外に放り出したら、文字通り街をうろつく狼たちの餌食だろう。
「先生、すみません、毎回毎回」
「ホントにな。お前からも言ってやれ、飲み過ぎ注意ってな」
「先生もですよ!」
「やべ、やぶ蛇」
鷹士のでかい図体をソファに放り出す。
目を覚ます気配も見せず、むにゃむにゃと何事か寝言が洩れる。
グラスに水を汲んでヒトミがその傍らにしゃがみ込んだ。
「じゃあな。もう夜更けだし、お前もさっさと寝とけよ」
「はい、お休みなさい」
部屋を出る前に、少しだけ後ろを振り返った。
心配そうに鷹士の髪を撫でるヒトミの姿が見えて、音を立てないように扉をそっと閉める。
ドアノブから手を離し、ガリガリと頭をかいた。
少し、この兄妹に関わりすぎただろうか。
大人の関係というのなら、深い部分に触れないのがマナーでルールだ。
しかし不器用な二人を見ていると、教員をやっているクセなのかお節介を焼きたくなってしまう。
エレベーターを待つ間、一本だけでもと胸ポケットを漁る。
取り出したシガレットケースは既に空で、大きく溜め息をついた。
【終わり】
Comment
鷹士一週目ルートっぽい空気感です。
初出:2009/09/06