Fairy tale

小さなその両手に世界を詰め込んで


それまで桜川家の中心は鷹士だった。
日々の暮らしに不自由などなく、求めるものは全て手中にあった。
幼い鷹士がこれと望めば、両親は惜しみなく与える。
叶えられないものなど何もないと、万能感だけが育つ。
世界はぬるま湯のようでどこまでも優しく包み込む。

きっかけは母のお腹が大きく育ち始めた頃。
「鷹士はお兄ちゃんになるのだから、妹を大切にしてね」
優しい微笑みのまま、母親が鷹士の頭を撫でて言い出した。
それまで抱きしめて額にキスしていた両親のスキンシップが目に見えて減っていく。
唐突に家の空気が変化する。
「いもうと? いもうとって何?」
解らない単語が飛び交うようになった。
父と母に訊くと、二人は困ったように顔を見合わせる。
「そうね、鷹士は我が家の王子様だけど、今度迎えるのはお姫様なのよ」
「お姫様? 絵本の中の綺麗な綺麗な?」
シンデレラや白雪姫や茨姫その他諸々、美しいドレスをまとった女の子が絵本の中心で微笑んでいる。
「そうよ」
「鷹士は男なんだから、お姫様を守らなくちゃな」
「じゃあ、ぼく、今度から王子様じゃなくて騎士になる!」
お姫様を守るのは騎士の役目だと、どこかの本に書いてあった。
何でも叶う万能感は最強だ。たくさんの昔話を教本に、世界を構築していく。
剣を持ってお姫様を守る騎士はドラゴンを倒し、危機から救うのだ。

その日から、世界の中心はお腹の中で育つ妹に移った。
母の大きな腹に手をあて、中のお姫様に語りかける。
────今日、学校でこんな事があったよ。
こんなことを教わったよ。
早く、会いたいな。
いっぱい遊ぶんだ。
積み木に粘土に折り紙にお絵かき。
寝る前には絵本も読んであげる。
いっぱい漢字を覚えたから、ぼくでも読めるよ。

今までママやパパからもらったもの全部、君にあげる。


そうして、ヒトミが生まれた。
最初は病院のガラス越しに見るだけ。
小さくてしわくちゃな顔を見て驚いた。両親はどちらに似てると言い合って笑っていたけど、鷹士にはよくわからない。
父と共に毎日のように通った。その度に、看護師に抱きかかえられた妹を見せてもらった。
病院を離れるのが辛いと思うほど、熱心にヒトミを見ていた。
知らない大人ばかりが彼女に触れるのが羨ましかった。
自分は子供で無力なのだと知る。
ガラスの向こうに行くことさえ出来ない。

数日してようやく母と妹が退院した。
あいにく鷹士は学校で、ついて行くことは叶わなかった。
一日、放課後が待ち遠しくてたまらない。そわそわと落ち着かない。
終了のチャイムと同時にクラスを飛び出し、走って家に帰ってきた。

扉を開けると、普段と異なる甘い匂いが微かに鼻先をくすぐった。
家の中もどこか忙しない雰囲気だ。
妹のために整えられた新たな子供部屋が騒ぎの中心で、柵のついたベッドとおもちゃの数々で埋め尽くされていた。
天井から吊されたオルゴールメリーがくるくる回る。
廊下から覗き込むと、ヒトミを抱える母が微笑んで手招きした。
恐る恐る近寄る。

「だっこしていい?」
「気をつけてね、落とさないように」
おくるみに包まれた小さな体を、首を支えながら抱きかかえる。
暖かくてずっしりと重い。
「……ヒトミ」
名前を呼ぶと、閉じていた目蓋がゆっくり開いた。
黒目がちの大きな目が鷹士を真っ直ぐ見る。
「あー」
小さな手を鷹士に伸ばしてきた。
ぷにぷにした手をぎゅっと握る。
「ようこそ、お姫様」


目を瞑るとすぐに思い出せる。
もうすぐ18年経つというのに鮮やかすぎるほどだ。
忘れようにも忘れられるはずがない。
この世に迎えられたお姫様。
自分はそれを守る騎士になると誓った。
誇らしい気持ちが胸に溢れ、少しだけ大人になれた気がした。

幼い誓約はその後の鷹士を縛り付ける鎖となる。
がんじがらめになって、きつく絡みつく。
未だ解く術を知らない。

もう絵本を読む年でもないのに。

────お兄ちゃん、そんな所でうたた寝してると風邪ひくよ?」
耳をくすぐるのは柔らかな声だ。鷹士を首を絞める真綿のような。
「んー、ヒトミ?」
「ほら、お兄ちゃん、寝るなら自分の部屋に……」
ソファの片側に体重が乗って、スプリングが傾く。
細い指が肩にかかって鷹士を眠りの底から呼び起こす。

「お兄ちゃん?」
甘い声は誘惑の魔女の仕業だろうか。お姫様だった女の子は、いつの間にか魔女に変身を遂げていた。
手を伸ばして自分を揺り起こそうとする細い手首を掴んだ。
「あ……」
「ヒトミが居るなら風邪ひいてもいいな」
看病してもらえるから。ああでも、うつしてしまったら駄目だな。
この温もりが側にあるのなら、他の何を犠牲にしたって構わないのに。

「なに馬鹿なこと言ってるの」
何も知らないヒトミは屈託無く笑う。
その無邪気さが少し恨めしくて、強く手首を引き寄せた。
細くなった体をぎゅっと抱きしめる。
優しい花のような香りは彼女が使うシャンプーの匂い。
「このまま寝かせて」
「だ、だめだよ」
「お兄ちゃん、眠いんだよ~」
「だめだめ、ちゃんと自分の部屋に」

肩口に額を押しつけ、薄く上下する胸を、赤く染まる鎖骨を見ていた。
拒否を口にしながらヒトミの抵抗はない。
その理由を鷹士は正確に把握していた。
薄氷に覆われた海の底で燻り続けるマグマだ。押さえ込んだ熱は理性を端から焦がしていく。
何か一つきっかけがあればあふれ出して止まらないだろう。
それを解っていながら、綱渡りしている。
薄氷をつついて、海をかき回そうとしている。
爆発しないぎりぎりのラインを保ちながら。

「なぁ、……だめ?」
甘く耳元に囁く。彼女が弱いと解っていて、唇を耳殻に寄せる。
少しだけ触れた耳たぶは柔らかく、噛み付きたい衝動は堪えきれないほどだった。
舐め尽くして歯を立てたなら、腕の中の彼女はどんな反応をするのだろう。
想像は甘美で、毒を含んで身を焦がす。
「……だめ……じゃない」
弱々しい声でヒトミが白旗を上げた。
体から力を抜いて鷹士に寄りかかってくる。
「じゃあ、ちょっとだけ」
ソファにもたれ、腕にしっかりとヒトミを抱いて目を閉じた。

寓話なら現実以上に残酷だ。
娘を殺そうとした后は熱された靴を履いて死を踊り続ける。
娘を灰被りにした意地悪な姉たちは目をくり抜かれ、足を切り取られた。
親に捨てられたヘンデルとグレーテルは、魔女を焼き殺して生き延びる。
しっかりと手を握って、離さないと誓って。

それなら、お姫様を守る騎士は、ドラゴンを倒してどうなったのだろう。
こんな風に抱きしめて、泣かせてみたいと暗い欲望を抱くのだろうか。
高潔な騎士と、美しい姫のその後はハッピーエンドだったのだろうか。
昔読んだ本の内容はもうすでに思い出せないでいる。


【終わり】

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恋愛END後、鷹士兄ちゃんヤンデレ気味。

初出:2010/08/10

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