シュルレアリスムの黄昏
選んできたのは何時だってありきたりな現実の選択肢
「先生って、今まで何人恋人居たの?」
興味本位で放たれた質問に、いささか態とらしいと自覚しながら作り上げた挑発的な笑みを返す。
「そりゃーオレ様ほどのレベルになりゃ、二桁は堅いだろ。もしかしたら三桁行くかもな」
「えー、何ソレー!」
「嘘ばっかー!」
周囲を取り巻く女生徒たちから嬌声が上がった。
「ねぇねぇ、私なんてどう? 可愛いし手が掛からないし、お買い得物件だよ」
「ところが、だ。オレ様の守備範囲にガキは入ってねぇんだ。悪ぃな」
「えー! ひどーい!」
口ぶりほど酷いとも思ってないような楽しげな声を上げて、彼女たちは怒るフリで気を引こうとする。
「20歳過ぎたら考えてやるよ」
「ホントのホントにー?約束だよ?」
「おうよ」
そして、この口約束が果たされないことを充分に知っていた。
何百人という生徒が居れば、中には不良と称される大人に近寄ってくる物好きもいる。
それが若くて面構えが良く気さくで面倒見の良い養護教諭で、教師よりも生徒の立場に近い存在となれば、その数が増えるのも当然というものだ。
子供は男より女の成長が早いと言うし、背伸びしたい火遊び好きが居ても別段の不思議はない。
それらの要因を踏まえても、若月龍太郎の恋愛対象から生徒は除外されていた。
何も、世間一般の倫理観に従っているわけではない。
教職員が聖人君子であるはずもないが、建前は理解している。
どんな性格であろうと彼女たちは未熟な子供で、対等な関係など築くべくもない。
職を失う危険性を天秤にかけるまでもなく、危ない橋を渡る必要性を感じないのも確かだ。
大体、この程度の会話で満足するような相手に何をどうこうする趣味はさらさら無かった。
下手したら明日にでも口約束を忘れ、20歳になる頃には母校の養護教諭など顔すら思い出すことなく自分の人生を闊歩していることだろう。
それでいいのだ。
抑圧と閉鎖にぐるぐる巻かれた学校生活の、ささやかな暇つぶし相手になるために自分はここにいる。
ガキの面倒は決して嫌いじゃないからこそ選んだ道だ。
悩みがあれば耳を傾けるし、具体的な対策が欲しいなら相談にも乗る。
そして、仕事と恋愛は別。
頭の固い生活指導教員はその辺りを誤解して(アレは何も煙草だけが原因ではないだろう)何かにつけて説教しようとしているが、彼女らと自分では根本が異なっている。立ち位置が違う。
興味本位と好奇心で近寄ってくる小娘をあしらうなど、赤子の手を捻るが如くだ。
自惚れているわけではないが、経験値の差は歴然だった。
カウンセラーも兼ねた若月の仕事は、ただ話を聞くだけ。否定も肯定もしない。
怪我などの応急処置に関しても、その場限りの対応だ。
程度によって手当てするのか、病院の手配するのか、判断を下す。
その為に専用の部屋が割り当てられている。
生徒を留めておくためにあるのではない。
悩みを抱えた生徒に対しては、ただ黙って話を聞く。
多感な十代の悩みなど、概ねそれで解消される。
無論、中には複雑な事情を抱えた生徒もいる。そういう者は、担任などに話を通して幾人かの大人が対処する。
決して若月一人が生徒の対応しているのではない。
話を聞いて受け入れられたと勘違いするのは、恋愛に対して未熟だからだ。
対等な関係として結実した感情ではない。
そこを勘違いするからこそ、若く未熟だとも言える。
予鈴が鳴り響くと、生徒達は不承不承の体で保健室を去っていく。
耳鳴りがするほどの静寂が降り注ぎ、若月は溜息を吐き出した。
内ポケットからシガレットケースを取り出し、煙草を一本くわえる。
慣れた手つきでライターから煙草へと火を移し、フィルタを通したニコチンを吸い込む。
窄めた口を天井に向けて煙を吐き出し、その行方をぼんやり見つめる。
空中に掻き消えた紫煙の残像に、何を探しているのか。
自覚出来ないほど子供でもない。
それでも胸の淵に沸き上がるものを一つ一つ踏みつぶしていく。
意識的に自覚しようとしないのは、果たして世間体なのか倫理観なのか仕事の都合なのか、もう判らなくなっていた。
別に、世間体なんざどうでもいい。
倫理観というならそうなのかもしれないが、自らの矜持とは異なる。
それなら、何だというのか。
この昼休みに大挙して押し寄せ保健室を占拠した女子生徒と、彼女の何が違う?
「あー……、まぁ、マンションオーナーの娘とその入居者って所にアドヴァンテージはあるな、確かに」
彼女の兄は飲み友達で、色々世話にもなっている。
その縁で、彼女の無謀とも言えるダイエットをサポートした。
甲斐あって彼女の体重は半分近くまで減った。目標体重まであと少しだ。
何よりもそれは本人の弛まぬ努力の賜物であり、自分はそれを養護教諭として下支えしたにすぎない。
そうなっても尚、恋愛というにはほど遠いと思っていた。
本気の恋は熱く燃え上がる炎だった。体の内面を焼き尽くす。
炙られるままに走り抜け、灰になっても尚じりじりと胸を焦がした。
情熱というなら多分、ああいうものを言うのだ。
理性をかなぐり捨てて感情の赴くままに突っ走った。
欲しくて、手に入れたくて、がむしゃらだった。手にしたそれを握りつぶす危険さえ省みず。
「……同じじゃねーかよ」
無くしたと思っていた。
全て廃棄処分して、大人になったと思った。
恋の痛手を乗り越えて、慎重さと用心深さを経験値に、自らの気持ちをより分けられるようになった。
晩秋、根城である保健室の窓辺に現れた昔の恋人を見て、咄嗟に考えたのは間違いなく自己保身だ。
糠喜びだけはしないと身構えた。明らかな疑心を抱く。
もう純粋な喜び(一度でも愛した女との再開)を見いだせない己を省みて、愕然となる。
熱情が戻ったのではない。燃え滓になった恋の残骸が、親切心にすり替わった。
そこに居たのは年月を重ねて確実に綺麗になった、知らない女だった。
あの頃だって世界一の美女だと思っていたけど、その輝きは終ぞ見出すことは出来なかった。
原因は彼女に魅力がなくなったのではなく、感受性が変わってしまった自分にある。
「懐かしいわね」なんて言われても、ちっともそんな風に思えない。
気持ちの整理というのなら、それがそうなのだろう。
過去は過去なのだと、痛切に思い知る。
手元に残っていた写真は、当時の空気をそのまま封じ込めてしまったから、そんなものを見て勘違いしていたのだ。
時は確実に過ぎ去り、それぞれを違う人間に変えていた。
だからと言って、すぐにでも新しい恋を芽吹かせたかったわけではない。
しかも自らの職場で、子供相手に。
惚れた腫れたなんて感情は、区切りがついたから、はい次、という訳にはいかないものだろう。
それなら、この恋はもっと前から芽吹いていたという事になる。
「……ガキには興味ねぇ、か。どの口がぬかしてんだか」
指の間に挟んだ煙草を揺らして灰を落とす。
しんと静まりかえった保健室の窓は冬枯れの曇天を映して曖昧な色に染まっていた。旧式のオイルヒーターが空気を暖め、その温もりに思考がぼやける。
リアリストを自認しているわけではない。
それなりに地に足をつけて理に適った選択をしてきたのは、単に自らの利益を優先した結果だ。
なのに、この状況は大人とさえ呼べるものではない。青臭い子供へ戻ったように、感情が先走ろうとしている。
体の奥で自然発火したそれは、今や思考全てを焦がそうと燃え広がっていく。
まだ間に合うぞ。
引き返すのなら、今だ。
もう一人の自分が警鐘を鳴らす。
それが如何に真剣味のない上っ面だけの警告なのか、自らが一番よく理解していた。
【終わり】
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恋愛ルート直前の、12月中の先生。美貴さん話を踏襲しつつ、若月→ヒトミへと今まさに雪崩れ込もうとしている所です。
初出:2008/01/12