恋人の距離感
セントリーフスクール三年に進学して、ヒトミを取り巻く環境が変化した。
体重を減らしてからというものの、演劇部の部員達は重要な役を願い出るようになる。
今まで小道具係などの裏方専門にしていたヒトミにとっては、青天の霹靂に等しい事態だ。
演技の練習をしていても、表舞台に立ったことはない。
いつも台詞は全て頭の中に入れていた。役を当てた生徒が欠席した場合の代役として、いつでも出られる準備をしていた。
発声練習も怠ったことはないが、肝心の舞台にだけは慣れないままだった。
結局、受験勉強を理由に辞退する。
役を得るチャンスというのなら、これからの部活を背負って立つ後輩達に優先されるべきだと思う。
ダイエット以前から懐いてくれていた後輩たちは甚く残念そうだったが、後ろ髪を引かれる思いで引退を決意する。
春から部活動と無縁の生活を送ることになった。
三年になるとほぼ同時に、どこにも所属しない自由の身になる。
放課後に何をするか、選択肢は一気に増えた。
友人達と寄り道して遊んだり、勉学のために図書館に立ち寄ったり、隣町まで赴いて買い物したりする。
まっすぐ家に帰ることは少なく、むしろいつもより遅くなるくらいだろうか。
何より最も多くの時間を、ヒトミは保健室で過ごすようになっていた。
養護教諭である若月龍太郎はヒトミと同じマンションに居住し、彼女の保護者である兄とも親しい。
帰りはほぼ彼に送り届けてもらっている。
帰宅が遅くなっても文句を言われないのは、その為だろう。
兄の鷹士は何か言いたげにしつつ、妹の行動に口出しはしなかった。
一人前として扱ってくれているのか信頼の証なのか、過剰な干渉は形を潜める。
彼なりに妹の心情を慮ってくれているのだろうか。
ヒトミは自分の気持ちを、他者に一言も漏らしていない。
たった一人、当事者である若月にだけ伝えている。
兄にも友人達にも、誰に対しても等しく口を閉ざす。
どんなに信頼している相手でも、ヒトミと若月の関係を明かすわけにはいかない。
せめて卒業するまでは二人だけの秘密にしようと、それは恋人になってから交わした約束事の一つだった。
いくら十代のヒトミが初めての恋を成就させたといっても、誰もが手放しで祝福してくれるような関係にはなり得ない。
養護教諭といえど、若月にも立場というものがあった。
迂闊に情報を漏らせば、今の職を失う危険も存在する。
ヒトミは改めて、今の関係を考えずにいられない。
若月はダイエットを決意してからずっと、ヒトミの相談に乗って協力してくれた年上の男性だ。
惹かれるのも当然なのかもしれない。
卵からかえったヒナが、初めてみたものを親と勘違いするような刷り込みがあったのだろう。
同級生や下級生の異性と交流はあるものの、概ね友人止まりだ。
過保護な兄の影響下にあって、ぬるま湯に浸かるような環境だった。
唐突に世間の厳しさに晒され、体型を手厳しく非難される。
確かに自分を極限まで甘やかして放置した結果だ。言い訳もできない。
それでも懸命に自分を変えようと藻掻いてきた。
支えてくれた若月に対して、想い憧れ慕うようになるのも自然な流れだった。
ヒトミが無茶をすれば叱ってくれる。くじけそうになれば励ましてくれる。
どれほど心強かったことか。
憧れから恋に変わるのも、そう長くかからなかった。若月がヒトミに惹かれていることも、後から知った。
約一年かけてヒトミの恋は成就する。
ただし相手は学校の教職員だ。
秘密を守ることは並大抵のことではないと、今更のように実感していた。
例えばヒトミが鷹士に対して、若月に会いにいくことを伝える。
用件は何かと問われ、答えを用意していなくてはならない。
ただ会いたいと言ってみても、納得してくれないだろう。
だから買い物だとかダイエットの協力だとか、それらしい言い訳は常に用意していた。
帰りが何時になるか、それも必ず伝える。そして必ず守る。
鷹士は若干苦い表情を浮かべつつも、信用してくれた。
もしかしたら何か勘付いているのかもしれない。
ヒトミも兄に対して恋人ができたとは言えず、隠し事を抱える。
休日まで若月に会うのは、今に始まったことではない。何度も遊びに行っているし、帰りも送り届けてくれる。
ただ、一年前会っていた頃と、今現在では心情が異なる。
兄の友人で親しい養護教諭に会うのと、恋人に会うのでは話がまったく違うのだ。
それを表立って公表することはできない。
兄も何も言わない。反対もしないが、あまり嬉しそうにもしていない。
ヒトミは苦い気持ちを噛み締める。
校内で会うときも、なるべく近付きすぎないようにと心掛けていた。
若月は女子生徒に人気の教員で、彼の周辺にはよく人集りができる。腕を掴んだり白衣を引っ張ったりと、生徒たちが戯れる様子も何度も目撃されていた。
それは仕方の無いことだと割り切っているが、同じように振る舞うことはできない。
冗談に混ぜて腕に抱きついてみても、冗談では済まされない感情が漏れ出てしまう危険性が大きかった。
その点について、ヒトミは器用に立ち振る舞うことができないと自覚している。
だから人前ではある程度の距離を開けていた。
救いがあるとしたら、ヒトミのダイエット成功は若月の助力のおかげだと認知されていることだろう。兄の友人であることも、ある程度の情報は審らかにされている。
だから、ヒトミが若月に懐いていても何ら不思議はない。
距離感だけが問題なのだ。
今日もヒトミは保健室へ遊びに行く。
少しだけ公の相談事を片手に持ち、あとは雑談のためだ。
「こんにちは、先生」
「おう、来たな」
若月もヒトミを迎え入れてくれた。
無論、保健室という性質上、どの生徒に対しても平等に常に開け放たれている。
何でもない挨拶の後、ヒトミは定位置になりつつある丸椅子に座った。
机に向かう若月の傍らにあって、相談事のある生徒が座る場所だ。
若月が立ち上がり、電気ポッドの置いてある棚に向かった。
ヒトミの胸あたりまでの高さしかない小さな冷蔵庫が二台並んでおり、一台は治療に使う様々な物品が格納されている。
もう一台は若月の私物に近い。
中にはスポーツドリンクの他、牛乳や卵、総菜まで入っていて、簡単な調理をして食事することもできる。
昼食などもそうやって賄っているらしい。
そこから牛乳を取り出すと、棚からマグカップを取り出し、コーヒーと牛乳を注ぎ入れる。
軽く混ぜた後、ヒトミに手渡した。
「ありがとうございます」
笑顔でマグカップを受け取った。
ノンシュガーのカフェオレは、ヒトミのお気に入りだった。
ダイエットを決意してから糖分を控えるようになったが、まず習慣づけたのは常飲する飲物の扱いだ。
コーヒーにしろ紅茶にしろ、なるべく砂糖を入れないように心掛ける。入れても牛乳が限度だ。
そうやって食生活を少しずつ変えて、今はノンシュガーで慣れるようになっていた。
ダイエットは終了したとはいえ、リバウンドになっては元も子もない。
保健室で供されるコーヒーはとてもいい香りで、ノンシュガーのカフェオレでも美味と感じる。
話をしていなくても、彼の側でコーヒーを飲む時間が、ヒトミはとても好きだった。
若月はヒトミが来たことで、だいぶリラックスしているようだった。
それまで書き込んでいた書類をまとめると、脇にどける。
自分でもコーヒーを淹れ直すと、美味そうに口へ運んだ。
その顔をじっと見つめる。ヒトミの好きな顔だ。
視線に気付いて、若月はふっと表情を和らげた。
笑みを浮かべるほどではないが、ヒトミを優しい目で見つめてくれる。
恋人としての視線だと気付いて、心臓がどきりと大きな音を立てた。
「あ、あの、先生」
沈黙のままでも良かったのだろう。
とても和やかな空気で、それを保っていても良かった。
別に今すぐ会話をするつもりもなかったが、胸の高鳴りを誤魔化す必要があった。
彼に聞こえてしまうかと錯覚するほどで、動揺のまま声を上げる。
「ん? なんだよ?」
「ちょっと相談なんですけど」
感情を抑えつつ、ヒトミは口を開いた。
「今年の体育、三年生も水泳の授業があるそうなんです」
「ああ、そうなのか。まぁ、受験つっても水泳は皆が楽しみにしてるしな。息抜きも兼ねての授業なんだろ」
「はい、クラスの皆も楽しみにしてるんですが……その」
少し言い淀んだ後、言葉を選んで声を発する。
「私、昨年と体型が変わっちゃったじゃないですか」
「あー……」
ヒトミの言わんとしていることを察して、若月が苦笑した。
半分以上体重を落としたことで、二回り近く体型が変わってしまった。
故に、昨年まで使っていた特注水着など着られたものではない。
私物として持っている水着だって、何度か買い換えていた。
今も運動のためと市営プールに通っている。
「授業では学校指定の水着ですし、買い換えないと駄目かなって」
「かといっておまえはもう三年で、ワンシーズンだけというのもアレか……」
「はい。けっして安い買い物じゃないですし、どうしようかと思って」
こんなことを相談できるのは、校内でも彼くらいだろう。
体育教員や学級担任もそこまで親しくはない。
「一応、体育着や水着には予備分を用意してるもんなんだよ。緊急用にな」
「予備ですか」
「ああ、授業中に不慮の事故で破損したとか、理由がある時にな」
長い足を組み直し、若月は教員の顔になる。
「予備を使うには書類を出す決まりになってんだ。数も保管場所も決められてる。盗難にあっちゃ問題だしな」
「ああ……よくそういうニュースを耳にしますね」
「そうそう。女子の着替えは盗まれやすくてな。だから、予備を使うにも歴とした理由が必要ってことだ」
「私の場合は適用されないんでしょうか?」
「いや、たぶん大丈夫じゃねぇか? 俺が担任に掛け合ってやるよ」
「本当ですか?」
「ま、ダイエットに付き合った責任ってもんもあるしな」
「嬉しいです! ありがとうございます!」
「駄目元で話すんだから、もし蹴られても文句言うなよ?」
「はい、期待してます」
若月は予防線を張るが、ヒトミは絶対の信頼を寄せる。
万が一却下されても、若月のせいにするつもりなんてなかった。
ただ、彼ならきっと上手く話を通してくれると思っている。根拠はないが、そういうところで手抜かりのない人だ。
いい加減に見えて、やるべき仕事はちゃんとこなしている。
ヒトミはにこにこ笑って、残りのカフェオレを飲み干す。
「そういえば、今年は夏はどうするんだ?」
ふと思いついたように若月が訪ねて来た。
「あ、旅行の件ですか? さすがに受験生なので、行かないと思います」
「ってことは、私物の水着はまた今度か」
「あ……それは、その……」
昨年は彼が保護者役となって海に行った。
まだ兄の友人という立場から外れておらず、二人の間には何もなかった。
ダイエットを続ける生徒と、それをサポートする教員というだけだ。
今は違う。
恋人として迎える夏だが、ヒトミは受験を控えている。
遊びに行きたい気持ちは大いにあるが、やはり勉強が先になるだろう。
「ま、仕方ねぇな。オレ様が勉強みてやるよ?」
「え? いいんですか?」
思わずじっとと見つめてしまう。
「何だよ、その目は。養護教諭ナメんなよ?」
若月が笑ってヒトミの頭をぐりぐりと撫でまわす。
それはまだ、恋人というにはほど遠い接触だった。
いちいちそんなことを気にして、意識してしまう。
もっと彼に触れたいと思うのは、いけないことなのだろうか。
「じゃ、じゃあ、先生のお部屋で勉強会ですか?」
「あー、おまえの部屋で十分だろ。鷹士に無用の心配をかけるのも何だしな」
少しだけ、ヒトミは胸の内側がひりひりと痛むのを感じた。
彼の部屋に遊びに行くことが、どんな意味を持つのか、知らないほど子供でもない。
卒業までは今の関係を維持することも理解していて、それでも少しだけ寂しい気持ちになる。
もっと彼に近付きたいと思ってしまうのは、我が侭なのだろう。
ヒトミは苦い気持ちをぐっと呑み込む。
「解りました、部屋を綺麗にして待ってますね」
「ああ、できれば部屋より、鷹士をどうにかしてほしいもんだがな」
部屋で二人きりの勉強会となれば、兄が黙っていないかもしれない。
想像して、ぷっと吹き出す。
二人、顔を見合わせて笑い声をたてた。
「……ヒトミ」
ふと笑いをおさめ、若月が名を呼んだ。
ヒトミは若月をまっすぐに見上げる。
「オレ様も、あまり気が長いほうじゃねぇんだ」
その視線に怯んだのか、彼は僅かに目線を落とした。
がりがりと頭をかく。
「だから、これでも一応、自制って奴を働かせてるつもりでな」
「はい」
若月にしては珍しく、奥歯に物が挟まるような物言いだった。
言い淀み、言葉を探している。
「……結局、今この瞬間にある気持ちだって、持て余し気味だっつーのに」
ふっと肩から力を抜き、独り言のように呟いた。
「おまえを大切にしたいんだ。だから、卒業までって決めたんだよ」
若月が顔を上げ、再びヒトミと目線を合わせる。
「それは、解ってくれるよな」
「はい……解ってます。我が侭は言いません」
ヒトミは密かに内省する。先程、彼の部屋での勉強会をやんわり断られたとき、明らかに落胆の表情を浮かべてしまった。
それを若月は指摘しているのだろう。
ちゃんとヒトミの気持ちを汲んでくれる。
それが嬉しいと思った。
「あんまり聞き分けが良すぎるのも問題だけどな」
「え?」
「いや、こっちの話」
若月は先程から独り言が多い。
ヒトミには解るような解らないような、微妙な内容だ。
「あの、先生」
ヒトミは思い切って声を上げる。
もしかしたら、ヒトミの勘違いかもしれない。
けれど、今この瞬間にある気持ちというのなら、ヒトミにだって抱えているものがある。
「先生以外の人に、二人きりで勉強教えてほしいって思いません」
言葉にしなくては伝わらないものもあると、ヒトミはこの一年間で思い知った。
だから、少しでも伝えられたらと願う。
彼に負担をかけない、最低限でいいから。
「水着だって、先生以外の人に見せたくないんですから、だから」
恥ずかしくなって、目線を外す。
「もし水着を買いに行くことになったら、一緒に来てくださいね?」
頬が熱いような気分になって、思わず両手で押さえてしまう。
若月が大きく息を吐き出した。
「まったく、おまえには敵わねぇよ」
視線を戻すと、彼が苦笑しているのが見える。
「水着、授業以外はオレ様だけに見せろよ? 当然、学校指定の話だけじゃねぇからな」
若月らしい笑い方に戻って、ヒトミの頭に手を置く。
先程と事なり、優しくて丁寧ななで方だった。
【終わり】
Comment
恋愛エンドその後、付き合い初めの三年春の話。
初出:2017/01/31