逆剥けの処置

指先にある爪と皮膚の境で、ごく希に固い皮膚が剥けて飛び出すことがある。
怪我というには些細なものだが、決して健常とは言い難い。
いっそ剥ぎ取ってしまえばすっきりするが、それには痛みが伴う。
じわじわと後から指先を刺激する小さな痛みもまた神経に障る。
ちくちくと針で突かれるようで、じつに気分が悪い。
仕事などに熱中している間は気にならないというのに、何かの拍子にふと痛みがぶり返す。
汗や水に触れて染みるなど、完全に忘れ去ることもできない。
それ自体は命に別状はないものの、長く小さな痛みがまとわりついてくる。
完治するまでの間、常に日々の作業を脅かす。

竹刀の手入れで棘が刺さるのも同じだ。
小さな点のような傷は長く指先にまとわりつき、じつに煩わしい。
剣術に携わるものなら処置の仕方も心得ているだろう。
軟膏を塗って油紙で包んでおけば、数日程度で跡形もなく消える。
ただし小さな傷とて放置した結果、腫れて悪化する場合もある。
そうなってからでは侭ならず、最悪手を切り落とすことになる。
小さな傷だからといって処置を怠ってはならぬ。
藤田五郎は何度もその症状を見て来た。

何事も小さな芽から潰す。
町の治安と秩序を守るためには、多少乱暴でも強引でも早めの処置を施さねばならない。
長年培ってきた経験が藤田を動かしてきた。
それを疑ったことはない。
事実、鹿鳴館に現れた娘は不審者以外の何者でもなかった。
誰に招待されたのかも、いつどこで侵入したのかも不明だ。
警備は厳重で客の一人一人を確かめて通していたはずだ。
ネズミ一匹すら入り込む隙間もない。
藤田が娘を連行した後になって、改めて警備の見直しが図られた。
その際聞き取り調査も行われたが、誰一人として娘の顔を見ていない。
藤田が捕らえて初めて侵入者がいたのだと発覚する。

これが怪しくなくてなんだというのか。
その上、娘は己の身の上も出自も判らないと言う。
判明しているのは名前だけ。
世にも珍しい洋装の娘は綾月芽衣と名乗った。
ただし洋行帰りにしては不格好すぎる。
藤田は幾人か洋行帰りの人間を見たことがあった。
御一新の際に外洋に送られた一団の中に、彼の郷里から選ばれた者たちがいた。
アメリカの文化や風習を学ぶという建前の、体の良い流刑だった。

芽衣ほどの娘も幾人も見た。
皆、首元から足下まで覆われたドレスという名の洋装で身を包み、決して肌を晒さない。
芽衣もまた首元から足まで布で覆われ、靴を履いている。
しかし腰から下は薄く短い布地が垂れ下がり、膝小僧から足首まで足の形がはっきり見えてしまう。
藤田とて異人に詳しいわけではないが、少なくとも彼女のような格好は初めてだった。
それだけでも十分怪しい。
言動も不審そのもので、出自はおろか親の名すら言えぬという。
それが記憶喪失なる病だと聞かされても藤田は納得できない。
健忘症というならもっと老いてから罹るはずで、芽衣のような年端もいかぬ娘がどういう了見なのか。

芽衣の身柄は結局小泉八雲と名乗るアイルランド人に引き取られた。
通称小泉八雲、本名ラフカディオ・ハーンという異人は日本語が堪能な英語教師であり、帝國大学で語学の教鞭に上る。
それだけなら善良な異人だが、問題は物の怪に心酔しきっており物の怪絡みの事件に悉く首を突っ込もうとする。
妖邏課にとっては無視できぬ迷惑者として有名だった。
鹿鳴館に現れた芽衣を一目見て気に入ったのも、物の怪と同じ匂いがしたからなのか。
それとも彼女を魂依と見抜いたからなのか。
今となっては不明だが、どちらも同じ様なものだ。
それよりも大事な点は二つ。
芽衣を引き取った先が治外法権である異人専用宿泊施設の本陣だということ。
もう一つは当該ホテルで窃盗事件が発生したことだ。

藤田は芽衣の監視のため、ホテルに張り込む。
間近に芽衣と接触するようになり、それ自体は好機だった。
冷静に緻密に言動を観察し分析する。
事件解決のためにも必要な策だった。
部下に任せても良かったのだろうが、藤田自ら出向いて直接その目で判断しようとしていた。
初めて芽衣と遭遇したのが藤田なら、小泉に預けた経緯にも藤田が関わっている。
その時点ですでに芽衣と藤田の縁は浅からぬものだったのだろう。
小娘のお守りとなるのも覚悟の上だったが、想像以上に綾月芽衣という娘は難敵だった。

ごく普通の娘なら警視庁妖邏課警部補藤田に対して恐れを抱くだろう。
実際、初めて出会った頃の芽衣は恐怖に青ざめ、震えていた。
覚悟を決めたのか、肝が据わっているのか、目が合うようになった。
藤田が芽衣を観察しているだけではない。
芽衣もまっすぐ藤田を見上げ、視線が合っても外さなくなっていた。
そこに恐れ以外の感情が入り込むのにさして時間はかからない。
どこで何を間違えたのか、芽衣は藤田を慕うようになった。

確かに藤田は芽衣を助けたことがある。
ホテルで停電したとき、そして人攫いに拐かされそうになったときなど思い当たる節はある。
全く世慣れしていない無知な娘なら、恩義と思慕を勘違いすることもあるだろう。
藤田としては相手が芽衣でなくても変わらず、警官としての立場を貫いただけだ。
そこに私情を差し挟む余地などない。
そのまま事務的に冷徹に対応していれば、いずれ離れていくだろう。
娘の抱く勝手な憧れも好意も、冷たくあしらえば霧散していくものだ。
藤田さえ理性的であれば事は丸く収まる。
そう信じて任務を遂行するつもりだった。

藤田と芽衣の関係が変わる大きなきっかけは、藤田の自宅へ直接乗り込んできたことだろう。
忘れもしない、非番で在宅の藤田を狙い小泉と芽衣が来襲してきたのだ。
以前から小泉はちょくちょく藤田宅を訪れ好き勝手振る舞っていた。
あれは完全に嫌がらせだろう。
連れて来られた芽衣も状況を理解していないようで、半ば唖然としていた。
すぐに小泉の口車に乗せられたと察する。
とはいえ平穏な生活を脅かされて黙っていられるほど温厚ではない。
刀を持ちだして脅せば小泉は脱兎のごとく逃げ出した。
芽衣は頭を下げて謝罪する。
それで事は済んだはずだった。
まさか何度も芽衣が来訪するとは思ってもみなかったし、食事まで振る舞う羽目になるなど考えも及ばない。

綾月芽衣という娘に関して、どうにも理解が及ばない。
奇妙な洋装をまとっていたかと思えば、袴も満足に着付けできない。
ホテルでの生活にすんなり馴染んだかと思えば、異国流の食事も平気で口にする。
英文で記された文字も読み取り、理解していた。
おそらく高度な教育を施されたのだろう。
年齢的にも女学生といって差し支えない。
しかし肝心の料理には全く無知蒙昧であり、包丁や火の扱い方も知らない。
藤田の作る食事も美味と言って平らげるあたり、洋行帰りには見えない。
糠から掘り出した漬物など、異人にとっては泥水に汚れた野菜程度の認識だろう。
全く抵抗がないあたり、彼女の舌が無節操なのか雑食なのか判断つきかねる。

匂いや舌の感覚は生まれ育った環境に左右される。
日ノ本国内ですら東西で大きな差がある。
それが洋を越えた外ではなおさらだろう。
彼女はそのどちらにも馴染んでいる。
調理できずとも、口にして美味と感じている。
記憶がないといっても身についた習慣まで消えてしまうとは考えにくい。
全くもって面妖としか言いようがない。
芽衣という存在は何もかもがちぐはぐで、整合性に欠けるのだ。

納得できないことだらけで、考えれば考えるほど混乱する。
一人で藤田の邸宅に乗り込んでくるかと思えば、藤田を硬派だと言う。
藤田は本気で狼狽え、思わず怒鳴っていた。
小娘の他愛ない戯れ言と切って棄てるには、癇に障るひと言だった。
嫁入り前の娘とは思えぬ隙だらけの言動は、己が決して対象とならない安心感からだったのか。
少しでも親切心を見せた自分が馬鹿にされたような気がした。
頭を冷やして考えれば、その時既に藤田の感情は芽衣に流されかけていたからだと判る。
しかし当時はただ混乱するばかりだった。
絆されていたことを認めたくなかったこともあるだろう。
そんなわけがないと必死に己を保とうと務めるのに、足下から崩されていく。

なぜそこまで自分が振り回されるのか。
一日経過しても胸中にはもやがかかっているようだった。
体調は何ら問題ないのに喉の奥に何か溜まっているように重い感覚があった。
それでも綾月芽衣とは顔を合わせねばならない。
個人的所感がどうあれ、犯罪捜査の一環だと思えば気にならないはずだった。
顔を合わせると、娘は多少気まずそうな表情だった。
今まで藤田を見るなり無遠慮に近寄ってきたというのに、その日は茂みに隠れるような所業も見せた。
気まずいのは藤田とて同じなのだが、表情には出ない。
昔から表情が読めないと言われ、冷血だ非情だと罵られもした。
それで構わない、任務遂行には何ら支障はない。
だというのに藤田の中には消化しきれない苛立ちのようなものがあった。

おそらく八つ当たりだったのだろうと思う。
ホテルから芽衣を連れ出し、どこへ行くともなく歩き回った。
理由なんて本当は何もない。
ただ無性に腹立たしく、やりきれない思いがあった。
芽衣はそんな藤田の心情など素知らぬ様子だった。
初めは戸惑っていたようだが、じきに町の様子を眺めてあれこれと藤田に問いかける。
まるで童だ。好奇心の塊で邪心というものがない。
藤田がたしなめると、芽衣は不思議そうに小首を傾げる。

ホテルから連れ出した理由なんて大したものは用意していない。
囮と言い出したのも殆ど口から出任せだ。
明るい内から連れ出したところで意味がない。
そんな藤田を見透かすように芽衣は言う、「今日の藤田さんは意地悪」だと。
重ねてとんでもない発言に及ぶ。
「いつもはいい人なのに」
体温が上昇するような心地になる。
無表情で冷血で非情な男だったはずなのに、慌てふためいて狼狽する。

むきになって言い返して、まるで痴話喧嘩だが当人たちにその自覚はない。
藤田が口を滑らせて「硬派」の一件を持ち出すと、芽衣はきょとんと目を丸くしていた。
言葉の意味が分からない様子で、話がかみ合わない。
「硬派」という言葉の意味に言及し、ようやく芽衣が誤解していたことに気付く。
すると今度は芽衣が動揺する番だった。
顔を真っ赤に染め上げ、酷く慌てて何度も謝罪する。
その顔を見て、藤田は密かに溜飲を下げていた。
確かに憤りは収まらないし表面上は穏やかではなかっただろう。
とはいえ芽衣の顔を見ていると怒りも持続しない。
僅かでも気が晴れたし、妙な安堵感もあった。

しかし同時に次の疑問が湧き上がる。
藤田の言うところの「硬派」ではないと認識していたのなら、なぜ芽衣は藤田に近づくのか。
それは堂々巡りの禅問答のようだった。
結論を先送りにして振り出しにもどる。
嫁入り前の娘であることを自覚し、慎重に行動しろと藤田は説教を繰り返す。
しかし芽衣は決して藤田の思い通りにはならない。
口答えして藤田を苛立たせる。
その上、藤田を「いいひと」だとか「親身」などと評する。

まるで雲を掴むようだ。
芽衣という娘は得体が知れない。
それは何も身元不明の記憶障害というだけではないだろう。
普段はまっすぐ藤田の目を見るのに、時折焦点が合わなくなる。
呆然と空を見据え、ここではないどこか別の場所を見ているようだ。
そんな時、芽衣はまるでこの世にいないような錯覚を覚える。
彼女は確かに人で、物の怪でも陰摩羅鬼でも化ノ神でもない。
実態を伴って藤田の前にいる。
サーベルの刀身に写る人為らざる者の幻影ではない。

藤田の胸がざわつくのは、こんな時だ。
口を開けば幼い娘のようでいて年頃の娘らしい一面も覗かせるのに、時折存在が危うくなる。
現と夢のあわいに立つかのようで、落ち着かなくなる。
陰と陽、東と西、白と黒、生と死。
彼女はその境界に立っていて不確定な状態なのではないだろうか。
だから目が離せなくなるのか。
いらぬ世話まで焼いて、芽衣という娘に介入しすぎているのではないか。

堂々巡りを続けようとする思考に嫌気もさす。
生産性もなければ操作の糸口にすらならない。
そもそも芽衣を連れ歩く理由なんて最初から皆無だった。
深く立ち入るべきではないし、監視対象から逸脱している。
正常な状態に戻すべきだと考え、芽衣と距離を取ろうと考えた。
ホテルまで送り届けるため、近場の署員に預けようとした。
しかしなぜか芽衣が抵抗し、藤田の手を振りほどいて走り去ってしまう。
慌てて追いかけた先は、森鴎外の邸宅だった。

門の前には家主である鴎外と年若い書生、そして芽衣が立っていた。
家主の格好についてはこの際不問に処す。
彼がどれだけ挙動不審であっても陸軍に所属する軍医だ。
人を揶揄するような軽口に関してのみ、藤田は反感を覚える。
彼は芽衣を「藤田の婚約者」だと決めつけていた。
何をどう見たらその結論にたどり着くのか。
子細も聞き漏らさずに尋問し、誤謬を訂正させたい。
だが藤田の反論など聞く耳持たぬと、彼はさっさと屋敷へ戻ってしまう。

結局、誰かに任せるのではなく藤田自身で芽衣をホテルまで送り届けた。
藤田が目を話すと芽衣はすぐに無茶をする。
何度言い聞かせてもちっとも言うことをきかない。
最後はさすがに大人しく藤田に付き従っていたが、いつまた走り出すのか判らない危うさがあった。
藤田の疑問が解消されることもない。

その日は何の収穫もないまま終わろうとしていた。
ホテルから署へと戻り、机仕事に向かう。
町を歩き回る程度では疲労のうちに入らないが、精神をごっそり削られるような心地に陥っていた。
報告書にも記すべきものが少なく、一日中巡察して終わっている。
魂依である芽衣を連れていても何の収穫もない。
彼女に関する所感は、記す言葉も見当たらない。
少なくとも公に提出する書類上では。

ふと筆を持つ手に違和感を覚える。
見れば左手人差し指に逆剥けができていた。
爪と皮膚の間で剥けた皮膚が飛び出し、小さな傷が生じる。
そこから痛みを発して、藤田の指先を刺激する。
決して命に別状ある傷ではないが、人の神経を逆なでして煩わしくつきまとう。
藤田は筆を置き、逆剥けをむしり取った。
皮膚が裂けて小さな赤い傷が生じる。
所持していた軟膏を擦り付け、油紙を巻き付けた。
それで処置はしまいだ。

しばらくは水で染みたりするだろうが、耐える他あるまい。
数日もすれば痛みも忘れる。
逆剥けがあった形跡も残らない。
それで全ては終わる。
傷口ならそうやって治してきた。
これから先もそうやって生きていく。

例え胸の内に傷を抱いたとしても、人はいずれ慣れてしまう。
痛みが持続することはなく、いずれ麻痺する。
今はまだ治癒の最中だと思えば合点がいく。
藤田の煩悶も混乱もいずれ収まる日がくるのだろうか。
今はそれを信じて待つ他ないと思った。


【終わり】

Comment

ゲーム「明治東亰恋伽 Full Moon」の藤田ルート、10日目の話。
元は芽衣視点で話が動きますが、このとき藤田さんが何を考えているのかを妄想してみました。

初出:2020/10/10

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