初めて知った感情
未知なる存在とはどのような形をしているのか、見てみたいと思うのは画家の性なのだろうか。
例えば春草には魂依の力などないから、物の怪がどんな姿をしているのかは知らない。
草双紙や戯作や浮世絵に著される姿で多少見知った気になっているだけで、魂依を通して見る世界と常人は異なるだろう。
齢十数年と元服も済ませる年頃で東京に出てきた春草にとって、世界は全てが目新しいものだった。
通りに馬車が走り、洋装に身を固めた紳士淑女なんて瓦版の中にしか存在しないと思っていた。
同年代に比べて出会いには恵まれているとは思う。
軍人であり官僚である文筆家森鴎外に拾われてからというもの、下町の町人から上流階級の子女とも言葉を交わす機会を得た。
好悪の感情は別にしても、それだけ様々な階級の人間を観察できる好機なんてそうそう転がっているものでもない。
それらの経験は春草の中に蓄えられ、絵を描く際の養分となるだろう。
ただし世の中には関わってはならない種類の人間というものが確かに存在する。
春草にとって彩月芽衣の第一印象はまさに「関わり合いになりたくない」というものだった。
明らかに物の怪や陰摩羅鬼には見えないが、服装から容貌、頭の先から足先まで、仕草一つとっても怪しいとしか言いようがない。
洋行帰りの子女とて足を丸出しにした奇抜な服装など身につけたりしないだろう。
今まで見てきた女性とは何もかもが違いすぎて思考停止に陥る。
春草とは逆に鴎外は甚く好奇心をくすぐられたらしい。
関心を引くだけに留まらず、家に引きずり込んだ。
これが迷子の子猫なら笑い話になろうが、年頃の未婚女性だから全く笑えない。
加えて記憶喪失という冗談のような精神疾患を抱え、出自はおろか郷里すら不明だという。
彼女の口から発せられる言葉は確かに日の本言葉だというのに、春草は全く理解できない。
会話を交わしているはずなのに噛み合わず、春草は呆れを通り越して閉口するばかり。
芽衣が持ち込んできたのは苛立ちだけではない。
次から次へと騒ぎを起こして、春草の日常は音を立てて崩れていく。
ただ絵を描きたいと、それだけを目指して東京に出てきた。
他には何もいらない。名声も評価も欲しくない。
ただ一心不乱に筆を動かして表現したい。
その想いは日増しに大きくなって、日常の煩わしさを切り離して絵だけに集中する環境を求めた。
森家はまさに理想的だった。
日常の雑事は全て女中に任せ、上等で静謐な個室を与えられ、春草は思う存分描画作業だけに集中できたはずだ。
家主である鴎外の常識はずれな言動も春草の生活を脅かすものではなかった。
多少手を焼く事はあっても、彼に向ける尊敬と感謝が揺るぐことはない。
しかし彼の所業から端を発し、生活の全てをひっくり返される羽目に陥った。
他人に大して感情的になることなど、春草にしてはかなり珍しい事態だった。
ただでさえ面倒な厄介事を抱えているというのに、これ以上余計なことで悩まされたくない。
春草とて己の性格が万人に褒められるものではないことくらい自覚している。
理不尽に迷惑を被り、黙って泣き寝入りするほどお人好しでもない。
嫌なものは嫌だとはっきり口にするし、相手が女子供でも手心は加えない。
相手が春草に悪感情を抱いたところで痛くも痒くもないと思っていた。
未知なるものへの好奇心はある。
ただしそれは観察者側であること、という前提がある。
自らに降りかかってくる火の粉なら話は別だが、振り払うにしても手段は限られる。
腕力より口の方がよく回るため、知略の限りで守ろうとする。
なるべく荒事とは無縁の、平穏無事な生活を送りたい。
感情を揺さぶられるのなら絵画にまつわる事柄でありたい。
元来騒がしいのは好まないが、騒ぎたいという人間の心理まで否定するつもりもない。
あずかり知らぬ場所へ遠ざけておけるのならそれに越したことはない。
ささやかな春草の願いは踏みにじられることとなる。
鴎外は更にとんでもないことを言い出した。
綾月芽衣を許嫁にして、親戚一同を納得させるために美人コンテストへ出場させると高らかに宣言する。
常日頃の言動が突拍子もないのは慣れていても、さすがに限度というものがあった。
実際、婚約なんてものは端から建前で、しつこく結婚を迫る親戚への牽制だ。それは春草も理解できる。
しかしコンテストに関しては前のめりになるほど真剣だった。
鴎外は本気で優勝させるつもりらしい。
「これからの世の中は女性も先進的な教育を受けさせるべき」と言って憚らず、芽衣にも淑女教育を施す。
驚いたことに芽衣は英語の素養があるという。
鴎外が持ち出した英文学の題を見知っていたし、物語にも馴染みがあるらしい。
既にある程度の基礎は叩き込まれており、すらすらとはいかないまでも耳慣れぬ発音で異国の言葉を吐き出す。
そうしていると本当に異人のようだった。
それで芽衣に対する所感が変化したわけではない。
驚きはしたが、どんな人間にも一つくらい取り柄はあるだろうと、その程度だ。
一度でも嫌いと感じた相手がどうなろうと知ったことではない。
何があっても決して好感をもつなどあり得ないだろう。
普通なら近寄りたくもないと思うはずだ。
同じ屋根の下に暮らしていても、家主に「仲良く」と促されても無視して避けることはできたはず。
道案内してやれだの女性に対して紳士的に振る舞えだのと忠告され、春草は不承不承で付き添った。
心の底から納得したわけではないし、仲良くなりたいわけではない、というのは言い分けだろうか。
春草と芽衣の関係は変わらないはずだった。
同居人だからといって親しくなる必要はないと考えていた。
線引きして距離を保とうとしていたはずだ。
素っ気ない態度で口を開けば可愛げのない皮肉と意地悪ばかり。
嫌われて当然だと春草自身も自覚している。
それでもなお慕って近寄ってくるなど、酔狂にもほどがある。
見た目も為人も教養の偏り方も、何もかもが変だった。
春草の中で綾月芽衣に対する感情が目まぐるしく変化していく。
芽衣が夜半に騒いだ原因が、彼女のもつ能力からもたらされたものだと知らされる。
それも春草の絵から抜け出した化ノ神を芽衣が目撃し探し出そうとしているなんて、予想の斜め上を飛び越えていくかのようだった。
彼女は何をするにしても猪突猛進だ。
興味をひかれると全神経をそちらに向け、周囲などまるで省みない。
面倒事から距離を置きたい春草の性質とは何もかも正反対だった。
悉く相反する似ない者同士で、唯一の共通点は鴎外に拾われて同じ家に住むというだけ。
驚くことにそんな彼女が春草の絵が好きだという。
黒猫の絵が見たいと、ただそれだけの動機でネコを探し出そうと躍起になる。
まるで理解の範疇を越えた言動だった。
騒がしくて図々しくて物知らずなくせに妙に意固地で一所懸命な、変な子。
当初感じていた嫌悪感は薄れつつあっても、全てをひっくり返されるような感情にはならないと思っていた。
高をくくっていたのかもしれない。
そもそも春草の予定には恋愛の一文字も含まれていなかった。
誰かに懸想し夢中になって他を疎かにするなんてあり得ない。
煩悶する暇があるなら絵を描きたい。
線の一本、筆の一払いでも進めていきたい。
余計な感情に囚われる暇なんてないはずだった。
いつの間に入り込まれていたのだろう。
あまりに常識外れで唐突で、目が離せない。
日が落ちた後でも猫を探しに外を出歩くなど、年頃の娘が不用心すぎる。
自らを省みることなく春草のために行動した結果だと言うから、怒るより呆れの気持ちが大きい。
それで当人に恩を売る心算や下心がないというのだから戸惑ってしまう。
いっそ媚びへつらって煽てるためと言われた方がすっきりする。
邪な下心のない純粋無垢な物言いを目の当たりにして、うっかり絆されたのか。
無鉄砲な行動するから心配なんてしてしまうのか。
何がきっかけなのか、考え出したらキリがない。
あまりにまっすぐな目で「春草の絵が見たい」なんて言うからだ。
女性を伴って展覧会に赴き、そこで恋人なんて誤解された。
春草にとっては寝耳に水であり、噴飯ものだった。
そんな間柄ではないと言い募っても、友人は笑って取り合わない。
彼女を恋人だと決めつけてかかる。
単なる同居人で、今は家主である鴎外の婚約者として美人コンテストの準備中。
そう説明しようとして春草は口をつぐんだ。
何故か言い返す言葉に詰まったまま、催事場を後にした。
建前だとしても鴎外が公言している以上、幾らでも利用可能な肩書きではなかったか。
それを言えば友人も恋人ではないと納得したはずなのに、声が出なかった。
余計な詮索されるのが面倒だった、と一日経過した今なら冷静に分析できる。
家主の婚約者と連れ立って二人きり、催し物見物にやってくるなど邪な関係を疑われるようなものだ。
恋人と誤解されるよりずっと性質が悪い。
人のものに横恋慕なんて唾棄すべき間柄ではないか。
ただでさえ「滅多にない色恋沙汰だ」と好奇心を隠そうともしない相手だ。
余計な餌を与えて騒がれるよりずっと良かったのだ。
しかしそれも言い分けとして弱い気がした。
芽衣の美人コンテストについて考えを巡らせると、胸中に靄がかかる。
腹の底をかき混ぜられるような不快感が湧き上がった。
なぜそんな気持ちになるのか、考えるだけでも不愉快だ。口に出すのも憚られる。
だから心を許した友人にすら言い出せずにいた。
学校から画材店に寄り道して帰ろうとしたら、空はすっかり茜色に染まっていた。
ガス灯に火が灯りはじめ、夕闇が迫りつつある。
人々は足早に通り過ぎて店も戸を畳む。
誰しもが帰り支度を済ませる頃合いだ。
俥の通る大きな通りはまだ人通りもあるが、脇の小道は暗く人気もない。
化ノ神だろうと物の怪だろうと幾らでも沸いて出てくるだろう。
ただし夜の闇に紛れて闊歩するのは物の怪だけではない。
性質の悪い人間だっていくらでも沸いてくる。
嫁入り前の娘が一人で出歩くものではないというのに、春草は袴姿の娘を見つけてしまった。
見慣れた矢絣の着物に海老茶色の袴を身につけた娘が中腰になり、辺りをキョロキョロと伺っている。
明らかに挙動不審だが、春草には思い当たる節がありすぎた。
何をしているのかと問うまでもないが、叱りつける前に説明くらい聞いてやるつもりだった。
つかつかと歩み寄って春草は娘の背後に立つ。
足音や気配を消したつもりはないが、彼女は気付かないらしい。
それほど熱心に失せ物探しでもしているというのか。
「ねぇ、そこで何してんの」
「うひゃあああ?!」
素っ頓狂な声を上げ、娘は傍目にはっきり判るほど肩をびくりと震わせていた。
「うるさい、回りに迷惑だよ」
「あ、しゅ、春草さん、ごめんなさい……」
背後に立つのが春草だとやっと気付いたように綾月芽衣が立ち上がった。
ぺこりと頭を下げる。
こういう時、彼女は驚くほど素直だ。
「で、何してるのかって訊いてるんだけど」
「え、えーとあの、フミさんのお使いで買い物に出てたんです。その帰り道だったんですけど」
「ふーん」
「ほ、ほんとですよ、本当! ほら!」
袂から包み紙を取り出し、芽衣は春草の疑いを晴らそうとする。
「君がフミさんのお使いなのは納得したよ。でも何か探してるようだったよね?」
「べ、別に黒猫探しに来たわけじゃないです。ちょっと何か居るような気がしただけで、春草さんとの約束を破ったわけじゃ」
春草の胡乱な眼差しを受け、芽衣は必死な様子で言い募る。
まるで悪戯が見つかった童のようだ。
春草も幼い頃、そうやって回りの大人たちに抵抗していたと思い返す。
すぐにバレる嘘と判っていても言わずにいられない。
大人が怒ると判っていて、それでも欲求に抗えないのだ。
ただし賢しい子供は学習し、いかに大人を出し抜いて怒りを回避するかを考える。
春草もそうやって成長してきた。
一方の芽衣はどうかといえば、学習能力には欠けるようだ。
その分素直だとも言える。
春草を欺そうなんて魂胆はないようだ。
運が良いということもあるだろう。
今日は春草が通りかかったから良かったものの、たった一人で夕暮れに失せ物探しなど鴨がネギを背負ってうろつくようなものだ。
明日はどうなるか判らない。
だから彼女から目が離せなくなるのだ。
口元まで出かかったお説教は、一旦喉の奥にしまいこむ。
その代わり、大きな嘆息をついた。
芽衣は棄てられた子犬のような目をして春草を見上げる。
黒目がちの大きな眼がいっそ小憎らしい。
「判った判った。お使いはもう済んだろ」
「は、はい。もちろんです」
「それなら、ほら、帰るよ」
半ば強引に手を掴む。
こうしていれば、逃げ出すことも探し回ることもできない。
そのまま引っ張るように歩き出した。
「あ、あの春草さん……?」
「何?」
「この手は一体」
「罰だよ。約束破るつもりはなくても、うろつく所を見たし」
「う……それは、その、ごめんなさい」
「謝らなくてもいい。こうして罰を与えてるんだから」
「あの……」
「何?」
「罰になるんですか?」
芽衣は小首を傾げる。
「なるよ。少なくとも自由は奪ったから、どこにも行けない」
対して春草は意地悪と自覚した笑みを浮かべてみせた。
「わ、私、逃げたりしませんよ」
「判らないだろ。急に猫を見かけたとか言って飛び出すし」
「う……それは……」
「判ってるなら、大人しく捕まっておけば」
握った手に僅かな力を込める。
すると彼女の手もきゅっと春草の手を握り返してきた。
それだけで春草は前言を撤回したくなる。
胸に湧き上がる感情をなんと言えばいいのか。
春草の中に言語として言い表せるものがなかった。
まるで見えざる手が伸びてきて、心臓あたりをきゅっと掴まれたような気がした。
熱い物がこみ上げてくるけれどそれが何かも判らない。
叫びたいような泣きたいような、これは一体なんなのか。
彼女と手を繋ぐのはこれが初めてというわけではないのに、前と今の何が違うのか。
初めてのことだらけで、何も判らずに翻弄される。
隣を歩く芽衣をちらりと横目で確かめ、春草は気付かれないように息を吐き出した。
赤みの強い髪をリボンでまとめ、矢絣の着物と袴も当初に比べて着慣れてきたように思う。
一見すると流行に敏感な女学生といった出で立ちで、神田の町にもすっかり溶け込んでいる。
出会った当初の異物感は消え失せ、ごくありふれた娘のようでもある。
容貌としては十人並み。
取り立てて美人というほどではないが、可愛らしいと思う。
と、そこまで考えて春草は顔をしかめた。
本当に、どうかしている。
あんなにはた迷惑だと感じていた相手だというのに、今でもそう思っているはずなのに、まるで別の人間に取り憑かれでもしたかのようにおかしな思考が過ぎる。
それも一度や二度ではない。
ここ最近はずっとそうだ。
もう一度、春草は芽衣の顔を見る。
すると彼女は近くの店先をじっと見ていた。
視線を追いかけてみると、水菓子の看板が掲げられている。
ぐうううと何かが鳴ったのもその時だ。
芽衣は顔を真っ赤にして腹部を押さえた。
「まったく、君は図々しいよね」
「ごごごご、ごめんなさい! 別に食べたいとか欲しいとかそんなこと……!」
「いいよ、君にはもう慣れた。とりあえず、イチジクでも買っていこうか。鴎外さんも喜ぶだろ」
「は、はい……」
春草は出会った当初から芽衣に対して辛辣だった。
今も物言いは変わっていいない。
図々しいし騒がしいし、放っておけないし目が離せない。
春草の生活をひっくり返して、全てを変えてしまった。
例え謝られたところで、事態が変わるわけではない。
森家に居候するようになった経緯を考えたら仕方がない。
許嫁という立場にしても、彼女にとっては渡りに船だろう。
身元不明の魂依なんて、妖邏課あたりにつけ込まれる良い口実になる。
芽衣は一度、警部補に刀の切っ先を突きつけられて衆目を集める中、尋問を受けた。
あんな経験は二度としたくないだろう。
それなら建前でも鴎外の庇護を受ける理由付けがあれば、彼女も堂々と森家で暮らしていける。
春草もそこに異論はない。
それでも、やっぱり逆恨みのように思ってしまう。
なんて図々しい子なんだろう。
勝手にずかずかと心に入り込んで居座って、いつの間にかいっぱいになってる。
初めての感情に振り回されて、平常心ではいられない。
そんなこと口が裂けても言えない。
せめてもの見栄を張り、強気を装う。
自分ばかり気になって仕方ないなんて不公平だ。
せめて少しくらい意識してくれたらと願う。
手を繋いで家路を進む。
この瞬間が長く続くようにと、春草は努めてゆっくり足を動かす。
芽衣は知ってか知らずか、春草の歩調に合わせて歩いていた。
二人の頭上にある空は、茜色に沈んでいくようだった。
【終わり】
Comment
ゲーム「明治東亰恋伽 Full Moon」の春草ルート、11日目あたりの話。
10日目に展覧会へ行って横山大観と会う話になるので、その後くらいの二人です。
微妙ではあるけど少しずつ近づいている春草さんの心情を書いてみました。
初出:2020/09/20