窓辺のメランコリック
これはもう宿命なんだろうか?
こんなにも君が好きで
太陽が空の頂点に差し掛かった時分のウォードンは多くの人間が行き交い、賑わいも最高潮を迎える。
そんな街中で知人とばったり出会す確立は、そう多くない。
それが大陸各地を旅する者同士となれば天文学的数値の確立になるのではないだろうか。
ベルナールは新聞記者として、アンジェリークはオーブハンターとして、日々忙しい生活を送っている。
互いに驚いた顔を付き合わせての挨拶を済ませても、まだ驚愕と歓喜は胸の鼓動を高鳴らせていた。
彼女は一人きりで、仲間とは別行動の後に合流するという。
こんなチャンスは滅多にない。自然と声も気分も高揚したまま、浮かれたように言を継ぐ。
「ちょうど昼時だし、どうかな? インタビューついでに美味しいもの食べに行かないかい?」
覗き込むと、そこには赤く染まった頬と伏し目がちの大きな瞳、困ったように寄せられた眉があって、彼女の感情を如実に表していた。
俯き加減に傾げられた首はそれでも小さく縦に動いた。
ほっと息をついて上体を起こすと、安堵の溜息が聞こえて少しだけ切ない。
この一歩半分に空いた距離が、今の精一杯だ。
これ以上近付いたら怖がらせてしまうし、離れたら届かなくなってしまう。
駆け引きは嫌いじゃないけど、それは相互理解と共通認識に基づいた平等な関係の上に成り立つものだ。
今の状況で駆使する技術も技量も勇気さえない。
甘い餌を吊しつつスパイスも用意する。引いたら追い掛けて、押したら逃げて、巧妙に仕掛けた罠へ暗黙のうちに填めていく。
逃がさないように退路を断って、飽きさせないように話術で絡め取る。
プレゼントは財布が許すより少し高めの、けれど決して押し付けがましさを感じさせないものを選ぶ。
そうやって、人並みに恋を経験してきた。
決して華々しい履歴でもなく自慢できるような話もない。思い返せば苦い経験だってあるし、思い出には痛みも伴う。普遍的な恋話で、特別なことなんて何一つとしてない在り来たりで面白みもない一個人の物語。
それは、アルカディア一般市民が送る日常であり、その一部に過ぎない。笑い泣き、誰かを好きになる、そんな営みの一つだった。
ただ、今は少しだけ事情が異なる。
立ち寄ったカフェテラスは、適度な賑わいに溢れている。蓄音機から流れるジャズは軽妙洒脱で、喧噪はそれを掻き消すほどではない。
彼女の素性をおおっぴらにしたくないからこそ選んだ店だった。
それぞれのテーブルについた客は他のテーブルを意識することなく、店員は必要最低限の接触のみで詮索される恐れはどこにもない。
インタビューは軽食の後に、雑談混じりで始まった。
聞きたい項目は幾つか決めてあったが、冗談を交えつつ言葉を選んで投げ掛けてみる。
アンジェリークは誠実だった。慎重に考えながらも、一つ一つの質問に真正面から向き合ってくれた。
小さくて泣き虫だった子供の頃から、なんて素敵なレディに変身したのだろうか。
こんな時、思い出を掘り返してみても眼前の少女と結びつくものがあまりに少ないことに気づかされる。だから、小さなアンジェと、オーブハンター・アンジェリークとが結びつかなかったのだろう。
空白の時間を思う。
両親を失い独りぼっちで世間に放り出された多感な少女は、真っ直ぐに成長していた。今から思えば青臭い青年だった自分は世間に揉まれながら生きていくことに精一杯で、過去を振り返ることもなかった。
その間にも、蛹は麗しい蝶へと変身を遂げようとしている。
純真な眼差しがベルナールを射抜く。きっと、本人は何も知らない。
最後に、彼女はこう付け加えた。
「あのね、ベルナール兄さん」
甘いカフェオレを一口飲んで、徐に顔を上げる。
「『ノーブレス・オブリージュ』だってニクスさんに言われたわ。その通りだと思う。私には力があるのだからそれを行使する責任があるって」
「アンジェ、それは…」
「大丈夫、無理してません。だって、私が望んだことでもあるんですもの。一人でも困っている人がいたなら、行って助ける人になりたい、って」
悪戯っぽく、どこか照れたように笑った。女王の卵として、これ以上ない意見表明だ。
若干17の女の子が背負うにはあまりにも重すぎる宿命だが、彼女は笑顔を絶やさず受け入れている。
つい先日取り付けたインタビューのメモを眺めて、ベルナールは溜息を吐いた。
重要な情報源という以上に、個人的な思い入れが詰まりすぎておいそれと捨てられないものになってしまった。
半分は取材で、半分はそれを口実にした私用だった。
細心の注意を払ってインタビュアーの私情を排除し、重要な言動だけを抜き出したつもりだったけれど、やっぱりどこか偏っているようにも思えてくる。
どうにも、彼女が関わると客観性が損なわれてしまうような気がしてならない。
職場の窓辺には、誰が置いたのか、幸福の木の鉢植えが置いてある。
気紛れに水を注いでみたら、葉の先に零れた水滴が朝日を浴びてきらきらと輝いた。
新しい恋は、きっとこんな感じなのだろう。キラキラと輝いて、明日への希望に溢れている。
世間一般に語られる色恋沙汰なら、好奇心で眺めることもできた。
記事になると判断したらペンを動かし、下世話と思ったら手放す。そんな客観性を持って眺める事象の一つに彼女が居た。
取材対象だと思っていた。
身内と気付いた時には二人の距離が縮まっていて、後戻り出来ない所まで踏み込んでしまった。
手遅れだと気付いたその瞬間が恋のスタートラインだとしたら、合図を聞き逃して出遅れた陸上走者だ。
フライングを犯してもルール無用の競技は容赦なく続いていく。
しかも競技内容は、難関ハードルと落とし穴の二重トラップが待ちかまえる障害物競走へと変貌を遂げた。
相手は取材対象。しかも超がつく重要参考人で、アルカディア全土を巻き込む歴史的事変の中心人物だ。政府高官さえその足元に及ばない。
浄化能力者であることも女王の卵ということも、始めから知っていたわけじゃないと言い訳してみても遅すぎる。
アンジェリークという名前。
タナトスを打ち消し、人を癒す力の発現。
感覚の奥底で何かが囁いていたにもかかわらず、それを聞き逃していた。
全て繋がっていたと気づくのは、後になってからだ。
それなのに、彼女は再会した時の印象から動かない。
可愛らしくて健気で、一本芯が通るように真っ直ぐで純粋無垢。
この小さな鉢植えに根をはり健気に生きる幸福の木のように、与えられる水をそのまま享受してキラキラと息づく。
好きになる気持ちをコントロールできたらいいと、心底思う。
外戚の可愛い子という現状以上でも以下でもない気持ちのまま、見守っている大人でいたかった。
まだ大丈夫だと、楽観主義が裏目に出た。
可愛いと、好ましいと思う気持ちが折り重なって厚さを増した。
踏みつぶして消してしまおうと思わなかったのは、そこまで本気になるつもりじゃなかったから。
恋になるつもりじゃなかったから。
タイプライターの前で腕組みしたまま、ベルナールは動けずにいた。
コーヒーはすっかり冷めてしまって、飲む気も失せる。
それでも先程から一言も進まない。
記事にすれば人々に希望を与えられると、その重要性をよく解っているつもりだ。
彼女が女王の卵としての自覚を見せれば見せるほど、新聞記者としての使命感は重さを増す。
なのに、感情が追い付いていかない。
気分を入れ替えるつもりで立ち上がった。
締切は容赦なく迫ってくるし、アンジェのインタビュー記事を他人に譲るつもりもない。
窓辺に寄ると、ウォードンの大通りが見下ろせる。
ひっきりなしに人や馬車、オートモービルが通り過ぎる首都は、今日も騒がしい。
青空は綺麗だけど、新聞社からでは建物に埋もれて清々しい気分にはなれなかった。
こんな恋をするつもりじゃなかったのにな。
恨みがましい思いで、もう一度心の中に愚痴を零した。
【終わり】
お題サイト:天球映写機様・「ロマンティックな恋で20のお題」より
初出:2009/07/15