この腕に閉じ込めて

暖かい気持ちは後から後から溢れて止められない


深く吸い込まれそうな緑が折り重なって、闇の色に似た重さを有する。
樹齢百を越えそうな太い幹から右へ左へとうねり押し合い、無秩序に枝が伸びていく。
一つ一つの葉は小さく手のひらにさえ収まるほどなのに、空を覆うほどに繁茂する。
数限りなく敷き詰められて、陽光を粒ほどに砕いてしまう。
森は薄暗く、人の侵入を拒むかのようだ。
足元は湿気て苔生し、木の根が張りだして地面を覆い隠す。
朽ち木や古木なども加わり、平坦な大地など見当たらない。
そこに無数の生物が住み着き、ねぐらとする。
命の生と死を抱えて沈黙を守っていた森が、今は風にならない風に枝を揺らし葉を騒がせていた。

動物の気配はない。差し迫る危険を察知して逃げ出しているのだろう。
黒々とした空間は決して陽光が届かないからではない。
光を吸い込んで蠢く昏闇だ。
触手を伸ばすように枝葉を巻き込み生気を吸い取って移動する。
適度な間合いをとってレインとアンジェリークは「それ」に向かい合った。
闇の中で蠢くもの、ほの暗く光る異形のものこそ、タナトスと呼ばれる存在だ。

「いくぜ!」
レインが銃を構える。アンジェリークはオーブを手に祈りを捧げた。
タナトスと対照をなす清浄な光に包まれたアンジェリークに呼応するように、レインの放った銃弾が同じ輝きを帯びて着弾する。
声にならない声が空気を細かく振動させた。
「……しぶといな」
レインが舌打ちする。
実際、タナトスは手傷を負っているのだろうが、未だ浄化されるほどに弱っていない。

「右よ、レイン!」
アンジェリークが叫んだ。
タナトスのまとう闇が、いつのまにかレインの右後方から迫っていた。
「ちっ」
振り向き様に何発かを打ち込む。
闇がゆらりと後退する。
オーブが輝いてアンジェリークが祈り、白い輝きが辺りを照らす。たじろいだ闇が引き下がっていく。
しかしタナトスを依り代に凝縮された闇がじわりと広がった。
絶え間ない光と闇の攻防に、木々が揺さぶられる。

「アンジェ!」
「……あっ」
目を閉じて集中していたアンジェが気づかぬ間に、左後方から闇の手が迫った。
右へ避けようと重心を変える。踏み出した一歩先に木の根が張り出し、足元を掬う。
そのまま傾いた体はつんのめって横転する。
痛みをこらえ、手をついて上体を起こそうとした。

「アンジェ!」
振り向くと目前にタナトスが迫る。
アンジェリークは思わずぎゅっと目を閉じた。
その耳に届いたのは銃声。そして暖かな気配。

おそるおそる瞼を開けば、見慣れた背中と赤い髪が見えた。
レインがタナトスとアンジェリークの間に身を投げ出し、銃を構えている。
タナトスは女王の卵を消す絶好の機会を失ったばかりか致命傷をうけて打ち震えた。
「レイン!」
「大丈夫か、アンジェ!」
「ええ、平気」
「よし、このままとどめだ!」
座り込んだまま、アンジェリークは胸の前で両手を組む。
途端に身体が淡く光をまとう。アンジェリークの祈りに呼応するかのように膨らみ、それは天に向けて迸った。
清浄な気がアンジェリークを中心に渦を巻き、嵐のように森の木々を揺さぶる。
光はスピードを上げてタナトスへと迫った。断末魔のうめきが白に吸い込まれ、本体をも飲み込んでいく。
きらきらと輝いて、それは小さな球体に収まった。

「……浄化完了、か」
「ええ、終わったわ。────あ、オーブを取りにいかなくちゃ」
「お前は怪我無いか? 大丈夫か?」
「ええ、平気、どこも痛くないわ」
レインが大きく長く息を吐いた。片膝を立ててそれに肘を乗せ、顔を手で被う。
二人、地べたに座り込んだまま動かない。
「レイン?」
どこか傷でも追ったのだろうか。消沈した様子のレインに、アンジェはおそるおそる声をかける。
前髪を乱雑にかきあげ、現れた瞳がまっすぐにアンジェリークをとらえた。
青い青い瞳の輝きに、どきりとアンジェリークの心臓が高鳴る。

「……お前に、何事もなくてよかった」
レインが手をついてアンジェリークに近づいた。
吐息のような囁きを身近に感じる。そう思った時には既にレインの顔が迫っていた。
レインの指の背がそっとアンジェの頬を撫でる。
体温が上昇していく中、心臓がはち切れそうなほどの速度と高音で鳴り響いていた。

「レ────
アンジェリークの声が遮られ、呼ぼうとした名前の後半は持ち主の服に吸い取られる。
レインの大きな手がアンジェリークの肩をとらえ、そのまま胸の中に閉じこめた。
肩と背中を押さえたレインの腕は強固でびくともしない。アンジェリークの肩口に顎を乗せ、髪に口を寄せる。
アンジェリークは呆然と、レインの赤い髪と耳と肩、その向こうに見える木々と木漏れ日を見ていた。

「……さっきは心臓止まるかと思った」
「ごめんなさい、心配かけて」
苦しげな告白を聴いて、アンジェリークはそっとレインの背中に手を回す。すると、答えるようにレインの手が背を撫でる。
アンジェリークはレインの肩に頬を寄せた。
互いの体温を感じ、匂いを感じ、高まる鼓動を聞く。

身動き一つ取れないほど強く拘束されても、アンジェリークは少しも辛いと思わなかった。
地を這う木の根に腰を下ろし、土の匂いが鼻先を掠める。地に付いた手や服はすっかり泥で汚れていた。
けれど、今この胸に溢れるのは安堵と悦びだった。
禍々しい色に染められていた空は澄んだ青を取り戻し、鳥の歌が響き渡る。
風の息吹で木々がざわめき、闇から解放された生き物の気配が甦った。
ふとアンジェリークが視線を落とすと、片手に小さなてんとう虫が停まっている。赤く小さな虫はアンジェリークの白魚のような手を歩き回り、小さな起伏を冒険している。
例えばレインの手のように骨張ってはおらず平坦に思えても、てんとう虫にとってはアンジェ程度の手の甲でさえ大山に見えるだろう。
その様が健気にさえ見えてアンジェリークはそっと微笑んで行方を見つめる。
程なくして指まで上り詰めたてんとう虫は、鮮やかな赤にくっきりと黒斑点を纏った背を広げ飛び立っていった。

その先に続くのは樹木と空と白い雲。暖かな太陽。
この世界は生命に満ちている。

胸が震えた。
この世を蹂躙し飲み込もうと這い回るタナトスと戦うことは、世界を守ることなのだと改めて思う。
人は世界を回す歯車の一つであり、空も水も木々も動物もてんとう虫さえ何一つ欠けてはならない。
こうしてここに居ることの意味を強く思う。
「レイン、大丈夫。私も貴方もちゃんと生きて、ここに居るわ」
「アンジェ」
身を起こすと、レインの腕から力が抜ける。
真正面からレインの顔を覗き込み、その頬に手を添えた。
レインが驚いたように目を見開く。
その様子がまるで幼い少年のようでアンジェリークはそっと微笑む。

「ちゃんとレインが守ってくれたわ。だから大丈夫。でも、一つ約束してちょうだい」
────何だ?」
表情を改めると、レインも真顔になった。
互いの目を見つめ合いながらアンジェリークは震える喉から絞り出すように言葉を紡いだ。
「レインも無理しないで。私だってレインが傷つくのは嫌なんだから」
「……そうか、そうだな。約束する、アンジェリーク」
「よかった」
ほっとして笑うと、レインも頬を弛めた。
真っ直ぐな視線の中に胸が苦しくなるほどの想いを見てとって、もう一度抱きしめ合う。

手の中には互いの身体が収まる。
レインの腕が長いのもアンジェリークの手が優しいのも、全て互いを受け止めるためにあるようだと、期せずして二人は同じことを感じていた。


【終わり】

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碑文の森で探索中のお話。

初出:2010/02/14

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