擦れ違い補正
遠回りして道に迷いながら
朧気に見えたのは本当のスタートライン
出逢ってから今日に至るまでの日々は、決して長くはない。
短くもない。一日一日の密度が濃く、その瞬間生きていくことに精一杯だった。
全力疾走のまま遠距離走させられていたようなもので、苦しみに喘いでも息付く暇もない。
生命を落とす危険と常に隣り合わせで、自分の身を守るのに精一杯だった。
そうやってくぐり抜けた日々を殊更に誇示しようとは思わない。
卑下するつもりもない。
ただ生きたいと足掻いただけだ。
死にたくない、ただそれだけのシンプルな望みだ。人間なら誰しもが抱くであろう、根元的で原始的な願い。
そうやってたどり着いた平穏は、確かに待ち望んでいた。走り抜けた先に勝ち取ったものだ。
次々と沸いて出てくるタナトスという名の恐怖は、地上の生きとし生けるものすべてを蹂躙するかのように襲いかかる。
ただでさえ得体の知れない敵に先手を打つ術もなく、常に後手として対応する際限のない戦いだった。
終止符を打ったのは人類の希望を一身に背負う少女。
タナトスを完全浄化する力を有した、ただ一人の人物だった。ある意味、約束された結果だったのだろう。
思い描いた未来と少しだけ違うのは、一緒に戦ってきた仲間全員がそのままアルカディアへと帰還する姿だった。
悲惨な戦場にも目を背けず、果敢に立ち向かう華奢な背中を追いかけた。
それを何れ失ってしまうものだと心のどこかで予防線を張るようになったのはいつの頃からだろうか。
出会った頃は何も知らず、アンジェリークは可愛らしい女子学生として目の前に現れた。
見ず知らずの男に手を差し伸べ助けようとする、今時珍しいくらいに純朴で素直な少女。
能力者と知って、共に戦うようになってもまだ世間知らずのお嬢さんといった風情が抜けきらず、会話を交わしていると学生に戻った気分だった。
女王の卵と判明した後だって身近な女の子であることに変わりはなかった。
いつからか、じわじわと胸に染み着いて離れなくなったのは、恐れや不安という戦時下にあってはならないもの。
アンジェリークは、見目と異なって強い少女だった。
月下に咲く一輪花のような儚げな印象を周囲に与えながら、芯が強く暴風雨にさえ折れない心根の持ち主だ。
どんな困難な道であろうと、背筋を伸ばして歩みを止めない。
女王の卵という立場をあるがままに受け止め、悲嘆に暮れることも憐憫に浸ることもなく、また自惚れも驕りも一切持たなかった。
対タナトス戦闘要員として能力者を集めた篤志家は「ノーブレス・オブリージュ」と語っていたが、アンジェリークはそれを忠実に実行しているように見えた。素直すぎるとさえ思ったものだ。
力を持つものは持たざるもののためにそれを行使する義務がある、と。
レインにとってそれは正論というには残酷な余韻を残す言葉であったが。
タナトスを浄化し勝利を重ねるうちに、レインの内側に積み重なっていく澱のようなものがあった。
レインの側でアンジェは背筋を伸ばしてまっすぐ前を見ていた。
このままタナトスを倒し続け、滅した先にあるのは宇宙の平定。それは即ち、女王即位への道だ。そして自分たち人間との、恒久的な別れに繋がる。
それを仕方ないことと割り切るには、レインの中でアンジェリークの存在が大きくなりすぎた。
しかし、帰ってきてくれと懇願するには、手掛かりが少ない。
二人の間にある仲間という共通意識と、能力を行使して人々を救う使命と、武器を手にする現実が、肝心な言葉を遮る障壁となった。
アンジェリークが祈る度に、一つこの世の災厄が消える。
褒め讃え激励する裏側で、育ってしまったものを何度となく押さえつけた。
仕方ないという言葉ですり替えた。
それは、タナトスを生み出す元凶・エレボスに相対した時にさえ鎌首を擡げる。
生命を奪われるかもしれない恐怖と、アンジェリークを傷つけられるかもしれない恐怖。
そして何より、彼女を連れ去ってしまうかもしれない恐怖。
その気持ちが何を拠り所に生まれたものなのかを、悟っていたからこそ何も言えず。
黒い黒い闇が霧散した瞬間は、朧気で曖昧な記憶しかなかった。
戦いが終わった安堵より、恋が終わった痛みに気をとられ呆然と空を見つめていた。
だからこそ、ひょこっと飛び跳ねて現れたアンジェリークに、数秒間気づかなかった。
「戻ってきました」
まるで陽だまり邸の周囲をぐるっと散歩に出て帰ってきたかのような、何気ない一言だった。
呆気にとられて二の句も継げないでいる男たちに向かって、にこりと微笑む。
レインは女王即位を辞退したとの説明を聞いても、まだ夢を見ているような心地だった。
アルカディアに帰還し英雄として迎え入れられてからも、平穏無事とは縁遠い日が続く。
陽だまり邸に集った面々は、いつかの夕食会で語り合ったようにそれぞれの道へと進んだ。
ヒュウガは帰郷し、ジェイドは旅に出る。
ニクスは陽だまり邸の主として余生を過ごすつもりだろうが、アルカディア政府高官が放っておくほど無位でも無辜でもないだろう。
レインは財団に戻って研究を続けることになる。
アンジェリークは女学院に戻り、カルディナ大学を目指すと言う。
おそらくは、能力者として目覚める前に希望していた通りに、目指すものをまっすぐに見つめて判断したのだろう。
しかし、すべて元通りというわけではない。ウォードンもリースも壊滅状態で、再建までに時間がかかる。
大陸中に名前と顔が知れ渡ってしまった現状も、喜ばしいとは思えない。
どこへ行っても衆目を集め、評判が評判を呼び、好奇の視線に晒される。
過剰なほど崇め奉られることもあれば、物珍しさに指さされることもしばしばあった。
口さがない者たちの憶測と出鱈目と好奇を煽るだけの風聞も入り交じる。
それでも人間はしぶといものだ。
環境が変化しても地道に何かを為していれば結果は自ずと見えてくる。
人の噂は七十五日と言うが、祭りと熱狂が冷めた後は日常が戻ってくるものだ。
その時にちゃんと地に足をつけていられたらそれでいい。
あの戦闘を繰り返した日々を過去にするには近すぎるが、心穏やかに思い出せるほどに距離を取り始めている。
それは、レインにしても世間にしても同じことで、例えば学園都市カルディナを歩き回っても以前ほど注視されなくなっていた。
一挙手一投足を観察されるような視線をあちこちから感じていたことが嘘のように、街も人も己の生活を取り戻している。
「皆とお別れになってしまったのは、今でも悲しいわ。だからこうして、レインから電報貰ってリースで会えて嬉しかったの」
胸の前で両手を合わせ、アンジェリークは微笑を浮かべる。
午後の穏やかな日差しを浴びた石畳の道を、レインと肩を並べて歩く。
天使の庭リースは赤い三角屋根の家が並び、軒先に花を飾る可愛らしい街並みを再建し、人々の顔に以前の笑顔が戻りつつあった。
同じように被害を受けた首都ウォードンは、歴史と権威の重みに新陳代謝を図って生まれ変わろうとしている。
アンジェリークもまた女学院の学生として、夢への道を歩きだしたばかりだった。
顔を合わせるのも久しぶりで、レインは戸惑いを隠せない。
ふわふわと流れるような髪は緩やかなウェーブに艶を増し、与える印象に変化をもたらした。
「でも、陽だまり邸にはちょくちょく帰っているのよ。私にとって第二の故郷だもの」
「そういえば、ニクスがアンジェの後見人になったそうだな。ニクスも元気か?」
「ええ。最近は篤志家としてのお役目も増えて、色々な町に顔を出しているの。オーブハンターの頃と変わらない生活だってぼやいてるくらいよ」
「相変わらずだな、あいつも」
「レインはどうなの? 財団の理事を引き継ぐって話だそうじゃない」
「……なんで知ってるんだ」
アンジェリークと電報で連絡をとっていたとはいえ、伝えていない情報まで飛び出てくるとは意外だった。その電報にしても陽だまり邸と財団の連絡網であり、私的な内容は極力抑えられている。
レインの苦笑を見て、アンジェリークはいたずらっぽく笑った。
「ここに居ても色んな噂話が聞けるのよ。真偽のほどはともかく、レイン博士の噂くらいは聞きたいもの」
「博士は止めてくれって」
「ごめんなさい」
アンジェリークは素直に謝罪するが、言うほど反省したように見えない。口元を手で押さえて、くすくす笑っている。
「ま、あいつが責任とって辞めちまったからな。順番が回ってきただけだよ」
「それでも凄いことだと思うわ。誰にでもできることではないもの」
「そうだな。でも得手不得手って奴があってさ。俺はどっちかっていうと技術畑の人間なんだ。組織のトップって柄でもないんだがな」
「そうなの?」
普段滅多に愚痴を吐いたりしないレインだが、アンジェリークの前では素直な気持ちが次から次へとこぼれ出す。
彼女の真っ直ぐな性質が、レインの口をなめらかにしているのだろう。
きっとそれはアンジェリークなら受け止めてくれるかもしれないという期待だ。
愚痴を吐いてもみっともない姿を晒しても、彼女ならあるがままに見守っていてくれる。何一つ態度を変えることなく。
「組織をまとめて率いることと、研究の第一線に立つことは別の話さ。俺は、研究の最前線に身を置きたくて戻ったつもりなんだがな。って言っても、ヨルゴが俺を長として指名しちまったし」
「それは、ヨルゴさんがレインを信頼していたからでしょう? レインならきっとうまくやれると」
「ああ、それは俺もそうだろうとは思う。とりあえず、俺は俺のできることをするつもりだ」
「例えば、どんな?」
「そうだな、今まで財団はヨルゴの独裁体制だったから、それをぶち壊す、かな」
「大丈夫なの?」
「その辺はうまくやるつもりさ。強いカリスマが強権で引っ張る組織はリスクを負う一方でリターンも多い。だが、適材適所に人員を配して動く方がリスクは低いものさ。守りを固めるのなら、後者を選んだ方がベターだ。今、財団は曲がり角に差し掛かっていて、これ以上規模を大きくするより現状維持を優先すべきだろ」
「ふふ、やっぱりヨルゴさんの目算は正しいわ」
「なんだよ、急に」
「だって、レイン、そうやって財団のことを考えて最善をつくしてるもの」
上体を倒して、アンジェリークはレインの顔を下からのぞき込む。
いたずらっぽい瞳と目があって、レインは口元を押さえて横を向いた。
大きくため息をつき、苦笑を浮かべてアンジェリークを見る。
「敵わないな、おまえには」
「そう?」
最初からずっと敵わない。
勝てる見込みなんてゼロにも等しい。
いつだって目で追いかけて、届かないままここまで来た。
戦いが終わり、それぞれの道を歩きだして物理的に離れていくけれど、心の距離は縮まっているのだろうか。
こうやって肩を並べて笑いあえる日が来たことを実感しながら、それもいずれ離れてしまうのだろうかと危惧している。
あともう一歩を踏み出すには、勇気が必要だった。
それも生半可なものでなく、一世一代、体の底から掘り起こして全身を巡るような、渾身の勇気。
レインが立ち止まったので、アンジェリークもつられて立ち止まる。
大きく息を吸い込んで、レインはアンジェリークに向き直った。
ジャケットの内ポケットから一枚の紙片を取り出し、アンジェに差し出す。
「……これ、今、俺が住んでる住所。確定したら教えるって言ってただろ、だから」
「まぁ! それなら、手紙をかいてもいい?」
紙片を受け取るなり、アンジェリークの顔がぱっと華やいだ。
胃が痛くなるほど不安と期待に揺れていたレインの予想以上にアンジェは喜んでいるようだ。
「あ、ああ。もちろん」
「嬉しい、たくさん書くわ。ああでも、レインの仕事のお邪魔はできないから、控えめにしておかないと」
両の手を合わせ、アンジェリークは喜びを隠すことなく頬を染めてあれやこれやとやりたいことを列挙する。
レインとしては照れくささが勝って、どうにも身の置き所がない。
しかし、これで不安はきれいに消え去った。
こんなに喜んでもらえるならもっと早く伝えていたらよかったとさえ思った。
「これからも、こうやって暇な時に会わないか。ああ、もちろんお前は学業優先だし、俺も仕事の優先順位はつけるけど」
「ええ、もちろん。……それと、授業で解らない所があったら、訊いてもいいかしら?」
「ああ、何でも訊いてくれ。大概の科目には答えられるから」
「ふふふ、頼りにしてるわ」
「自分でできる範囲は自分で解けよ。俺は答えまでの道筋を手伝うくらいだからな」
「解ってます」
くすくすとアンジェリークが笑う。
レインの横で、すぐ隣で。
歩調を合わせて歩く。
あと少し進んだら、女学院の門が見える。そこでさよならを言わなければいけない。
しかし、それは今生の別れではない。手紙を送り合い、暇な時に顔を合わせて言葉を繋いでいく。道には先がある。
ああ、今日、この日を迎えるために戦っていたんだ。
暮れ始めの陽はオレンジ色の光を投げかける。青空にそのオレンジがにじみ初めているのを見つめて、レインは心の底からそう思った。
二人共に歩んだ道は岐路にさしかかり、一度は別の路を選んだ。しかし進んだ先で再び交わることもあるのだと、今その運命を選んだのだと、握り締めた手の中に感じている。
隣にお前がいて笑っている。
それ以上に大切なことなどあるだろうか?
【終わり】
Comment
恋愛3段階目をキープしてメインルート、そのままエレボス倒すとEDでレインとアンジェが文通してて萌えました。
初出:2010/05/15