センチメンタルの隙間

まるで天が泣きじゃくっているかのような雨だった。
適度な雨量は地上への恵みになるが、過ぎれば毒となる。川が氾濫すれば、地にある全てのものを根こそぎ奪い去っていく。
途中の橋が流されたとの情報を得て、レインとアンジェリークは雷鳴の村オラージュに足止めされていた。
タナトス退治の依頼は済ませたのだから急ぐ旅ではない。
しかし、村唯一の宿屋に泊めてもらうのも、もう二日目だ。
料金は払わなくていいとの宿の主人の厚意も、こう長引いては申し訳なくなる。
窓の外を見上げて、アンジェリークはそっと溜め息をついた。

「雨、止まないな」
「ええ、そうね……」

テーブルの対面にはレインが座り、同じように窓を見ている。
紅茶と茶請けの菓子を持ちレインの部屋を訪れたが、カップは空になって久しい。
会話は枯渇し、空気は停滞していた。
レインは手持ち無沙汰に本をパラパラ捲っている。
宿屋に置かれた本棚のもので、どうやらレインの興味を引くものではないらしい。
アンジェリークは飽きもせず漫然と外を眺めていた。
灰色に染まった空に、縦に流れていく雨の筋。それが窓枠にはめ込まれた風景だった。

暗い雨雲が天を塞ぎ、時間の感覚を狂わせる。
昼間だというのに、もう夜が近付いているかのようだ。
時折、空の一角に光りが走る。継いで、轟音が轟く。
季節の変わり目などに雷を伴う嵐がやってくることはあっても、そう滅多に目にする現象でもない。
オラージュの民にとっては日常でも、アンジェリークには物珍しさを感じさせた。
今回は、それに加えて長引く雨だ。
示し合わせたかのように思ってしまうのは、感傷に過ぎるだろうか。
まるで、雨が嘆きのように思えてしまうのは。
雷鳴が叫びのように聞こえてしまうのは。

「……気にするなよ」
ふと、レインの声が聞こえて、顔を正面に戻した。
足を組んで椅子に肘をついたレインは、本に目を落としたままだ。
アンジェリークは膝に乗せた両手を組み合わせる。
「ええ、気に病んでるわけではないわ」
「そうか、ならいいんだが」

ぺらりと紙を捲る音がやけに大きく響く。

「でも……少し、考えてしまうの」

レインはこちらを向かない。
だから独り言のようにアンジェリークは続ける。

「人を恋しく思う気持ちは、綺麗なものばかりじゃなくて」

例えば誰かに憧れて、胸をときめかせるようなものだって恋と言っていいのかもしれないけれど。
想いが募って自らを破滅に追いやってしまうようなものも恋と呼ぶ。

「あの人は────ただ、恋してただけなのに」

今回の依頼は、アンジェリークの胸を痛めるものだった。

依頼主はオラージュに住む壮年の夫婦だ。
働き者だった長男が日に日に憔悴し、やつれていくのに気付いたのが切っ掛けだった。
気付かれぬよう青年を見張り、夜半に家を抜け出す姿を確認した。後をつけると、彼は夢魂の塔へと向かう。
霧に包まれたそこで、青年は一人の少女と会っていた。
逢瀬の様子を盗み見していた夫婦は、それが一年前亡くなったはずの村娘だと気付いて、オラージュの村長を通じ、オーブハンターへと依頼してきた。
この怪異はタナトスの発生に違いない、と。

青年には内密のまま処理してほしいという夫婦の願いに、レインは難色を示した。
「秘密にしたって、いつかはバレるもんだ。こういうことは、白黒はっきりさせた方がいいんじゃないのか。────本人のためにも」
今から思えば、レインは悪い予感を感じ取っていたのだろう。
思慮深い色を宿した目を光らせ、依頼主を探るように見ていた。
しかし、夫婦は頑として譲らない。これ以上、彼の心身を痛めつけるような真似はしたくない、というのが理由だった。
青年に直接会うことさえできないまま、夢魂の塔へ足を踏み入れる。
現れたのは、やはりタナトスだった。それも、それほど強い個体ではない。
レインもアンジェリークも、決して手こずるような相手ではなかった。

「やめてくれ、消さないでくれ……!」
だが、浄化しようとするアンジェリークを妨害したのは、件の青年だった。
「きゃ……!」
「アンジェ! ────おい、お前っ!」
突き飛ばされてよろめくアンジェリークを抱き留め、レインは青年を睨み付ける。
「もう止めてくれ! 大切な人を、二度も失いたくない……!」
タナトスを庇うように両手を広げ、青年はアンジェたちの前に立ち塞がる。
「僕は幸せだったんだ……! 例え幻であっても、もう一度会えたんだ、彼女に! どれほどそれを願ったことか!」
青年は必死だったが、正気を失ったようには見えなかった。
真っ直ぐな眼差しは、いっそ純粋な光さえ宿しているように見える。
それこそ、狂気の根元なのだろうか。アンジェリークは小さく身震いした。
真面目で人当たりの良さそうな好青年の顔をしながら、背後に忌むべき存在を庇う。
あまりの落差に、理解が追いつかない。

「君たちだって、大切な人を亡くしたらどうする? 僕と同じことをするさ!」
────例えそうだとしても、相手はタナトスだ。願った相手が悪かったな」
レインが銃を構える。彼はアンジェリークよりずっと冷静だった。
青年は顔色を変える。銃口を向けられ、迫る危機に恐怖したのだろう。
発射した弾は、髪の毛を掠めて背後のタナトスに着弾した。

声ならぬ声が空気を震わせる。怨嗟。闇の胎動。
そのまがまがしさに、青年もようやく気付いたのか、背後を振り返った。
少女の姿はどこにもない。ただ、ぽっかりと口を開けたように凝縮された闇があるだけだ。

青年が悲鳴を上げる間もなく、アンジェリークの身体から白い光の柱が立ち上った。
清浄なそれが闇を包み込み、悪しき気配を塗りつぶしていく。
闇の消え去った夢魂の塔は、本来の姿を取り戻す。
残ったのはきらりと光るオーブだけ。

「そんな……そんな……!」
崩れ落ちるように青年は昏倒する。アンジェリークが触れても意識は戻らず、だからと言って放置するわけにもいかない。
レインと二人、青年を担いで村に戻った。
夫婦は息子の姿に動揺していたが、気を失っただけと聞いて胸をなで下ろす。
タナトス騒動は収束した。
しかし、レインとアンジェをこの地に留めるように、天候が悪化する。

水底に沈められた箱の中に居るようだ。
自由に外を出歩くこともできず、一つ開いた窓からずぶ濡れの世界を見ている。
光も影もない灰色の閉鎖空間で、ひっそりと息をする。
簡素な椅子と机、化粧台、寝台。目新しいものは何もない部屋に二人きり。

時計だけが唯一、何事もなかったかのように正確に動いてるはずだった。
なのに、永遠に近いくらい時が止まっているかのようだ。

まるで、この一件を忘れるなと釘を刺されているように思えてしまう。
意識が戻った彼も、嘆き悲しんで臥せったままだと聴かされた。
タナトスに生命力を奪われた人間は、その元凶であるタナトスを倒せば元に戻る。
しかし、今の彼は生きる気力を失ってしまったのだろう。
その悲しみを間近に見てしまったアンジェリークは、やりきれない思いでいっぱいになる。
レインの表情も少しだけ生彩を欠いていた。

「アンジェを突き飛ばすような行動は許せるもんじゃないが……確かに、気の毒ではあるな」
「私のことはいいの。怪我したわけでもないし」
「お前はお人好しだな。もっと怒っていいと思うぜ」
「そう言われても、怒れないわ」
アンジェリークが苦笑すると、レインもつられたようにふっと笑う。

「自分に置き換えて考えてしまう気持ちも解るが、お前が暗い顔をしていても仕方ないだろう」
レインは、優しい声で諭すように語りかける。
「悲しみに打ち拉がれたままか、立ち直るか。それはもうあいつが選ぶことで、俺たちにはどうすることもできないさ」
「本当に、そうね」
能力者と言っても、タナトスに立ち向かう力を持っているだけで、他に何が出来るわけでもない。
レインとアンジェリークにできることは、もう終わったのだ。

「それに……考えたくないだろ」
「え?」
「もし、大切な人を亡くして……その後、自分がどうなってしまうか、なんて────
目線を泳がせてレインが呟く。
意外な台詞を聴いた気がしてアンジェがその顔を注視していると、不意にレインと目が合った。

どきりとアンジェリークの鼓動が高鳴る。
真剣な色をした目が、アンジェを絡め取るように見詰める。
切なげに少しだけ細められた目。
その奥に揺らめく炎のようなものを見た気がした。
胸の前で両手を組んだまま、アンジェリークは固まったように動けない。

「……きっと、大丈夫よ」
にこりとアンジェリークが微笑んだ。
「レインは強い人だもの。だから、大丈夫」

アンジェリークの言葉を、レインがどう受け取ったのか。
驚いたように瞠目した後、口元を吊り上げた。そのままアンジェリークから目を逸らし、下を向いた。
指を開いて手の平を見て、何かを掴むようにぎゅっと握りしめる。
────俺は」
それはアンジェリークにも聞き取れないほど小さな呟きだった。表情も窺えず、ただじっと耳を峙てて次の言葉を待つ。
「いや、すまない。気を遣わせてしまったな」
気を取り直したようにレインが顔を上げた。

「ああ、ほら。空が明るくなってきた」
外を指し示すと、アンジェリークも窓を見上げる。
暗く立ちこめていた雲の西側がぼんやりと白く光っていた。
「この調子なら、そのうち雨も上がるさ」
「陽だまり邸に戻れるわね」
「ああ、もう少しの辛抱だろう」
「? 別に、私は辛くはないわ? レインとこうして居られるのは────
アンジェリークが小首を傾げる。
レインは困ったように笑った。

「……あんまり、俺の自制心を試すようなこと、言わないでくれよな」


【終わり】

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架空の依頼をでっち上げつつ、レイアンでシリアスです。ちょっとバッドEDの匂いをさせつつ。

初出:2011/02/21

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