ほんの一歩ずつ

男性に慣れていないと言われたら確かにその通りで、今まで女子校の寮生活だったのだから身近な異性と言えば教員か事務員くらいのものだ。
滅多に会う機会はないが、後見人を務めてくれる外戚もいる。
誰も彼も、比べ者にならないほど人生経験を積み、顔に皺を刻んできた大人ばかりで、異性という意識すら皆無だった。
オーブハンターとなった後は目まぐるしい環境の変化に振り回され、周囲が男性ばかりという状況を認識していなかった。
そもそもアンジェリーク自身「男女」の性差に関する認識が全くの白紙状態だった、という方が正しい。
人間の種類が二つあるだけで、それぞれが色んな個性を持ち、思考し行動する。
少なくとも今まで対峙していたタナトスとは異なり、人には共通の言語があるのだから、コミュニケーションをとる手段はいくらでもあると思っていた。
一人を除いて。

相手は突風のように現れ、周囲を掻き回して居なくなる。いつもそうだった。
忙しない人、というのが第一印象。
実際、情報屋をしているというのだから忙しいのだろう。人にカメラを向けて、軽口を叩いたかと思えばデートに誘い、困っている間にもするりと手を引っ込めて退散してしまう。
次に何をするのかまるで予想がつかない。彼のペースに慣れる間もなく神出鬼没に現れたり、立ち去ったりする。
コミュニケーションはとっているつもりだ。だが質問を投げ掛けても質問で返され、彼自身のことを訊く機会はあまりなかった。

会話は成立しているのに、微妙な所で食い違っている。
けらけら笑っていたかと思うと、真剣な顔をしてじっとアンジェリークを見つめる。
いや、違う。彼の顔は笑っていながら目は笑っていないように見えた。
アンジェリークを品定めするように、何て答えが返ってくるのか待ちかまえている。
答えが意外なのか、驚く顔もよく見た。記憶の中には実に様々な表情をした彼がいて、イメージが定まらない。
ここまで振り回しにかかってくるような男は初めてで、アンジェリークは困惑する。
その困惑がどこから来るのか。逡巡して、気付く。

初めてだった。
他人のパーソナルスペースへ無理にでも入り込もうとする相手は、アンジェにとって初めて接する種類の人間だったのだ。
オーブハンターとして対タナトス戦闘の最前線に身を置くことになっても、陽だまり邸で暮らすようになっても、アンジェリークは変わらなかった。
男性に囲まれ、勉学や学友とのお喋りに熱中していればよかった学院とはまるで異なる環境であっても、アンジェリークはアンジェリークとしてただ泰然と与えられた命題をこなしていく。
その仲間も皆、紳士的で大人だった。歳が一番近いレインはまるで同級生のように接していたが、それでもある一定の距離を保ったままだ。
アンジェの中に踏み込む者は居なかったし、アンジェも誰か一人と深く関わり合うことは無かった。
それもこれも、ロシュと出逢って気付いたこと。


「別に、無理して飛び級する必要ないんじゃねぇ?」
オープンテラスのテーブルに肘をついて、件の彼は面白くなさそうに鼻を鳴らす。
書類から視線を上げると、対面のロシュと視線がぶつかった。
手元のアイスコーヒーはすっかり空になっていて、彼は残った氷をストローで突いている。
アンジェリークは自分が注文したハーブティがすっかり冷めている事に気付いた。
「無理しているわけではないわ。でも、勧めて下さった奨学金の条件に入っているから……」
「その奨学金だって必要ないように思えるけど? ニクスの財産、全部お前のモンになるんだろ?」
どこからその情報を手に入れたのだろうか。
公表されていない情報を当たり前のように言われて、アンジェリークは素直に怪訝な表情を浮かべた。
「ぶはっ、何で知ってんのかって? それくらいちょっと調べりゃ判るんだよ。情報屋舐めんなよ?」
得意げにロシュが笑う。
「でも……ニクスさんの財産はもっと大切なことに使われるべきものだもの。私が個人的に使うわけにはいかないわ」
ロシュの視線が、アンジェリークの顔からテーブルに乗せたその両手に落とされる。軽く組んだ手にぎゅっと力が入っていた。
「何言ってんだよ。医者になりたいって言うお前にニクスが投資したんだろ。それなら、学費だってその投資対象じゃねぇの?」

アンジェの両手にロシュの手が軽く乗った。
すっぽりと包まれてしまう大きな手だ。アンジェは不思議なものを見るような目で観察する。
手の甲は骨と血管が浮き上がってごつごつしていた。
アンジェリークに触れているてのひらは暖かく、指は少し硬かった。
ロシュが何故そんな行動に出たのか、判るようで判らない。
どうしていいのか判らないままぼんやりと重なった手を見つめる。焦れたように動いたのは相手の方だった。
その所作が偶然なのか、それとも故意だったのか。ロシュの人指し指が動いて、アンジェの柔らかな手を撫でた。
まるで、アンジェリークの意識を引き付けるように。ロシュという男を少しでも意識させるように。けれど、事故だったと言われたら納得してしまいそうなほど、それはほんの微かな接触。
アンジェリークにはそれだけで十分だ。
思わず頬がかっと熱くなって、僅かに身を引いた。

「……ま、お前がどうしてもって言うなら仕方ねーけど」
何事もなかったようにアンジェリークから手を外し、ロシュは肩を竦める。
「真面目なのはお前の美徳なんだろうけど、もう少し肩の力抜けって。そうガチガチに考えるばっかりじゃなくてさ」
手が外れた事に気を取られ、安堵の息をついていたアンジェリークは顔を上げた。
ロシュの声音が、真剣な色合いを帯びていた。優しい口調は、決して女の子を甘やかすものではない。

「せっかく女王じゃなくて、こっちで人として生きることを選んだんだろ?」
ロシュは、踏み込むようにまっすぐアンジェリークを見つめる。
蝋燭に揺れる火のような暖かさが胸に灯った。軽口を叩いても人を食った態度でも、人を思いやる優しさを持っている人だ。
だからこそ、こんな風に関わろうと思ったのだろう。
カルディナ大学まで書類を取りに行くと伝えたら、学園都市・カルディナの中でも学生が気軽に立ち寄る食堂やカフェが立ち並ぶ地区に呼び出され、オープンテラスのカフェでこうして顔をつきあわせてお喋りしている。
嫌いな人間ならまず顔を合わせようと思わないだろうし、こんな風に席に着くこともない。
その上、アンジェリークを心配しているのだと、まっすぐな眼差しが訴えていた。

「ありがとう」
「ん?」
「心配してくれて」
「……」
笑顔を向けると、彼は困ったように横を向いた。
頭をがしがしと掻きむしると、ため息をつく。
「ったく、どうしてこう直球っつーか、無防備っつーか」
「え?」
「まぁ、ようするに降参だってこと」
両手をあげてロシュは苦笑する。
状況とロシュの言葉が理解できていないアンジェリークは小首を傾げた。

「よく判らないのだけど、何に対して?」
「そのうち全部説明してやるよ。それより、そろそろ時間なんじゃねぇ?」
ロシュがテーブルに置かれた銀の懐中時計を指さした。
はぐらかされたと思いながらも、蓋をあけて時間を確認する。
「そうね、日が暮れる前にリースに戻らないと」
荷物をまとめて席を立つ。続いてロシュも立ち上がり、カフェを出た。
「送るよ」
「え?」
「リース行きの馬車まで送ってく」
「ありがとう」
「……んじゃ、行くか」
丁寧な謝辞を聞かない振りをしてロシュはアンジェを促す。
アンジェリークからはロシュの背中しか見えない。しかし、垣間見えた耳が赤くなっていることに気付いた。

ああ、また。
胸の辺りがざわつく。
居心地が悪いような、いてもたってもいられない心地に、首から肩にかけて皮膚の表面が粟立つ。
アンジェリークは、両手をぎゅっと握りしめた。

ロシュとお喋りする事が、決して嫌なわけではない。
砕けた世間話は尽きること無く、思わず声を上げて笑ってしまうくらい楽しい。
けれど、時折こんな風に逃げ出したくなる。
嫌じゃない。なのに、なんでこんな気持ちになるのだろう。
無遠慮に触れる手や、踏み込むように見つめる目。それがいけない。
彼の接し方は、今まで出逢った誰とも異なる。
見つめられると、まるで全て見透かされた気持ちになる。
この息苦しいような胸の違和感は何なのだろう。
どうしてこんな気持ちになるのだろう。

同時に、強く思う。
側に居たい。離れたくない────

「……アンジェ?」
ロシュが怪訝な顔をして振り向いた。

「ねぇ、ロシュ」
その言葉を伝えるのに、勇気が必要だった。
今までだって何度も危険な目にあって、勇気を試されてきた。
なのに、今、タナトスと対峙している時以上に、緊張を強いられている。
なんだか、おかしな気分。
そっと微笑んで、アンジェリークは顔を上げた。

「また、こんな風にお喋り……してくれる?」

ロシュは驚いた顔をして隣のアンジェリークを見下ろす。
気恥ずかしさに少し上目遣いになって反応を待っていると、彼は眩しそうに目を眇めた。
ふと口元が緩み、それが顔全体に広がった。
「もちろん。お前の時間が空いてる時は、いつでも連絡しろよ。駆けつけるから」
肯いたロシュは、嬉しそうに笑った。
例えるなら、雲が去った後のからりと晴れた空のよう。吸い込まれそうな青が鮮やかな好天。

アンジェリークは息を呑む。
彼はいつも笑顔だけど、いつもどこか曇り空のようだと思っていた。
曖昧で、真剣みが足りないような。
けれど今は違う。嬉しくて笑う、そんな顔をしていることに気付いた。

頬が熱いような気がして、アンジェは胸の上に両手を当てる。
自分の中で何かが芽生え始めていることを、自覚しはじめていた。


【終わり】

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学院戻るEDでロシュアン。まだ互いに一歩ずつ近寄ろうとしてる最中な感じ。

初出:2011/06/01

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