好きと言って、愛してるって囁いて。—01
友達以上恋人未満
以下は無いのに以上になれない
居間でぼんやりしていると、姉が夢中になっているというアメリカのドラマが目に飛び込んできた。
病院に務める若い男女が、医者となるべく激務をこなしながらも人生に迷い、恋に泣き笑う、そんな内容だ。
次々と患者が運ばれ緊迫した治療が行われると思えば、シニカルな笑いがそこかしこに仕込まれていて、軽妙な台詞のやりとりが面白い。
日本語吹き替えなので、画面を見ていなくても耳に入ってくる。ついついぷっと吹き出すと、テレビの前を陣取って食い入るように見つめている姉も同時に吹き出して、こんな時に姉妹だなぁと自らのDNAを再確認する。
けれど、どうしても苦手なのが恋愛模様だ。
くっついた離れただのは序の口で、幸せになったと思えば次の週には昔の恋人が出て来る有様だ。
三角四角の多角関係は当たり前、結婚を決めながら別の相手へとフラフラ流される様など、見ていられないほど生々しい。
その上、日本人には馴染みがないほどラブシーンが濃厚で、居たたまれなくなる。
画面の向こう側にあるフィクションなのだからと言い聞かせても、赤裸々な言葉の数々が神経を摩耗させるのだ。
香穂子にとっては、少女漫画が限度なのだと思う。
最近の少女漫画だって過激な描写はそれなりにあるけれど、まるっきり現実味の無い世界が、かえって妙な安心感を与えてくれた。
身近な所に、その少女漫画から抜け出したような人物が居るだけに。
彼にとって日野香穂子は都合のいい存在、なのだとは自覚している。
それは学院にとっても、理事長が使える手駒としても、ヴァイオリンを奏でる普通科生徒というのは希有で貴重なのだろう。
実際にコンサートを成功させてきたのだから、広告塔として申し分ない。学校案内のパンフレット等色々な媒体に写真が掲載され、様々な行事に引っ張り出された。
学校経営というものがどれほど大変かは、本当はよく判っていない。けれど、普通学科と音楽科が併設された私学という少々特殊な校風に、自分という存在が更なる風を呼び込んでいることは自負していた。
せざるを得ない、というのが本当の所だろうか。
目の前でヴァイオリンを奏でてみせると、吉羅暁彦は目を細めてヴァイオリンを、香穂子を見つめる。
それも一瞬のことで直ぐに手元の書類へ目を落とすが、気配から音に耳を傾けていると解る。
練習室の予約合戦に連敗する香穂子を見かねたのか、理事長室に招かれ練習する許可を貰った。それから随分と日が経つ。
観客は部屋の主たる理事長本人と、この学院に住まう妖精だ。
自分のためという以上に、彼らのために練習するようになったのは自然の成り行きだろう。
そう請われたからというのもあるし、特段に断る理由も無かった。寧ろ、嬉しいという気持ちが大きい。
ミスを容赦なく指摘されるが、細かい技術も的確に指導してくれる。
「これならいい宣伝材料になる」と一言余計に付け加えてくれるけれど、その期待に応えようと努力を積み重ねる。
誉められれば、嬉しい。
帰宅時間が遅くなれば、少々派手な外車で自宅まで送り届けてくれる。
偶に「同伴者が居なくなった」という理由で、値段の張りそうなレストランに連れて行かれる。
半ば餌付けされてると自覚するが、それが練習へのモチベーションの一つとなるのだから、我ながら単純明快だ。
これが「都合のいい存在」以外の何であろうか。
それくらい経験値の低い香穂子にだって判る。
そこに男女の機微が云々と、雑念が入る余地など残っているように思えないのは、自分が未だ子供だからだろうか。
「どうして、好きってだけじゃだめなの」
ドラマが一段落したところで、何の気なしに姉に尋ねてみた。終盤は専ら男女の諍いで、次回予告は更なる泥沼を予感させる台詞が続いた。
好きになって、その相手から好かれたらそれで相思相愛、ハッピーエンドだろう。実際キスシーンからベッドシーンまで、恋人たちの幸せな愛溢れる描写はこれでもかと流れてくる。
しかし、些細な出来事で意見が擦れ違い初め、その亀裂が徐々に大きくなっていく。
ごめんって謝るだけでいいのに、と思う。好きとか愛してるとか、言葉は赤裸々なくらい交わされているというのに。
両者の言い分は、完全な第三者である観客にも理解できる。しかし相互理解には至らない。
その後味の悪さが、疑問となって吹き出した。
「あんたはまだまだ子供ねぇ」
姉はけらけらと笑う。
失礼な!と反抗してみても、「そういう所がよ」とやりこめられてしまって、結局落ち込むだけだった。
昨晩、そんなやりとりをしただけに、理事室へ向かう足取りは重かった。
行きたくないわけではない。けれど、意識してしまうと妙な緊張が手足を縛る。
好きと思うだけではダメなのだろうか。
心で思うくらいは自由にさせてくれたっていいと思う。
別に、今すぐどうこうしたいわけじゃない。
側にいられるだけで幸せと言えば、幸せなのだから。
でも、それも期間限定のサービス品みたいなものだ。
この学院に居られる、今だけの時間限定特売品。
卒業してしまったら何の関係もない二人になってしまう。
一度捕らわれた意識は、やたら低空飛行のまま浮上できずにいる。
のろのろと廊下を進むと、大きく重厚な扉が目に入った。いつも心躍らせて開くそれが、やけに黒々と大きくそびえ立つ壁のように思えた。
難攻不落の城壁だ。
扉の前で、まずは深呼吸。大きく息を吸い込んで、腹の底に至るまでの全てを空にするように吐き出した。
ノックしようと手を持ち上げた所で、少しだけ扉が開いていることに気付く。
細く開いた隙間から、会話が洩れてきた。聞き慣れない女性の声と、吉羅の低い声が交互に飛び交っているようだ。
つい聞き耳を立ててしまったのは、条件反射だったのかもしれない。
「────差し出がましいようですが、ご忠言申し上げておこうと思いまして。学外コンサートのミスコンを立派に勤め上げた生徒さんだそうですが、親御さんからお預かりしたお嬢さんを学院の宣伝道具にされるのも如何かと。ここは教育現場で、N響でも日フィルでもございませんわ」
一方は年配の女性らしい。勿体ぶった口調がやけに耳に障る。
「諫言、痛み入ります。……ですが」
対して吉羅は鷹揚に笑う。
「お言葉を返すようですが、この学院の生徒は皆、優秀です。一人一人が大切な生徒ですよ。宣伝道具などと仰られるのは甚だ心外です」
「理事長がそう仰るのなら、わたくしにも異存はございませんが、しかし」
「星奏の経営を任された以上は、全力を尽くしますよ。ご期待に添えるように」
上品そうなこの女性がどんな立場にあるのか、香穂子には皆目見当がつかない。
しかし、直接対峙する吉羅は何一つ臆することなく、慇懃無礼にあしらうような態度だった。
そっと、物音を立てないように細心の注意を払って後退る。
そのまま回れ右をして、極力静かに廊下を進んだ。気を抜くと走り出しそうになる両脚に力を入れて、不自然にならない速さを保つ。それも階段が見えたあたりでボロボロと崩れてしまうが、これでも努力の結果だった。
走ったら、きっと気付かれる。
この廊下に居たこと。会話を盗み聞きしてしまったこと。全て、部屋の主に悟られたくなかった。
階段の全てを駆け上がると流石に息が切れた。重い非常口を開けて、屋上に出る。吹き込む空気が涼しくて、火照った頬をひんやりと冷ましてくれる。
バイオリンケースを抱えたままベンチに座り込む。
視線を上げるとプランターが見えた。
音楽科棟の屋上は緑豊かで、花の種類も豊富だ。
季節毎に様々な植物が咲きそろい、目を楽しませてくれる。
今はコスモスが咲いている。優しく淡い色合いが並んでいて、少しだけ穏やかな気分になった。
大切な生徒だと言うのなら、きっと卒業の瞬間までそう思ってもらえるのだろう。
それだけで充分だと思わなければいけない。
自分はもう三年で、秋は深まるばかりで、そうなるとつい残りの日を数えてしまう。あと何ヶ月、この学院にいられるだろうかと。
胸に沸き上がるのは、焦りと不安。
告白したところで上手くいくとも思えなかった。
相手は完璧な大人で、小娘程度ではどう足掻いても太刀打ちできない。それを、幾度となく思い知らされてきた。
有名なヴァイオリニストになったら、と仕掛けたこともある。その程度の稚拙な駆け引きに動じる相手でもなく、香穂子は全戦全敗の黒星を積み上げるだけだった。
今日だってそうだ。
盗み聞きした会話の全てが本音だとは思わない。けれど、大人の事情に振り回されるくらいちっぽけな存在なのだ。
好きと思うだけじゃ、ダメなのだろうか。
自問自答の答えはその時々によって異なった。
毎日、同じように元気で朗らかにいられるわけではない。
振り子は左右に振られ、気持ちだって浮上したり下降したりする。
このままでいいと思うこともあれば、振り向いて欲しいと思うこともあった。
好きになってほしいと思うけれど、ドラマにあるような生々しい感情が自分に向くのかと思うと怖ろしくもある。
この気持ちが本当なのか疑うこともあれば、自分が思うのと同じくらい大切に思ってくれるならどんなに幸せだろうとも夢想する。
結論は毎日違って、だからこそ何も言えずに今日まで来てしまった。
そして何もないまま卒業して、いつかは思い出になったりするのだろうか。
身の程知らずの恋をして、言いだせないまま終わったのだと。
振り向いてほしくてみっともないほどじたばたして、背伸びした爪先が痛むくらい無理をして、恥ずかしくてけれども眩しい日々だったと。
────一体、何時になったらそんな達観した境地に辿り着けるというのだろう。
日野香穂子はそっと溜息をついた。
肩の力を抜いて、ヴァイオリンケースを開ける。
何の曲を弾こうかと考えて、結局脳裏を過ぎるのはいつも同じたった一人の面影だと気付いて苦笑した。
【続く】
初出:2009/06/04