好きと言って、愛してるって囁いて。—02

心の全てをさらけ出し、明け渡すことの意味を


陸に打ち上げられた魚のような気分だった。
口をあけても満足に吸い込める酸素が足りなくて窒息しそうになる。
原因は強烈な匂いだ。
空気中に異物が混入し、あっという間に部屋中を汚染した。
無色透明な気体のはずが、どこか暗く重く淀んで見える。
ねっとりと粘着質にまとわりついて離れない。
それを持ち込んだ人間が立ち去るまで、吉羅暁彦は半ば拷問でも受けている気分だった。
精神的にも肉体的にも疲弊して溜息を吐き出すが、濃厚な香水に汚された空気が鼻腔に充満して吐き気がする。
やたら値の張る香水の銘柄を思い浮かべるが、ここまで大量に撒き散らされては公害に等しい。
組んでいた足を解き、椅子の向きを変えて立ち上がる。

窓を開けると新鮮な風が滑り込んで、前髪を揺らした。生き返るような心地だった。
先程まで目に痛いほどの青を貼り付けていた空も、今は赤みが加わって薄い膜を張ったようだ。
一日の終焉を予感させるその朱が、学院の瀟洒な校舎を包む。
どこからか楽器の音が聞こえる。木管・金管・弦・打・鍵盤と種類は実に多種多様だ。
個人がそれぞれの課題曲をこなすため、外へ漏れ出るものは不協和音となって響く。
先程まで理事室に居座った教育委員会事務局長の耳にも、そんな風に届いたことだろう。
言いたいことは山ほどあるだろうに、化粧の濃い顔に居心地の悪さを滲ませていた。
若き理事長の慇懃無礼さにも辟易していたようだが、それは吉羅の意図した術中というものだ。
誰が好きこのんで官僚の小言を拝聴せねばならないというのか。

それも、吉羅にとってある種のウィークポイントとなる生徒について、などと。

ふいに顔を上げた。
時計を見るまでもなく辺りは夕刻を指し示し、学院の下校時刻が近付いている。
そんな時間になっても、一日と間をおかず理事室に顔を出す生徒の顔を見ていない。
いくら来客中とはいえ、何の音沙汰もないのは明らかにおかしい。黙って先に下校してしまうような性格でもないことは熟知している。
内ポケットの携帯は沈黙を守っていた。
互いの電話番号とメールアドレスを交換するようになって、しかしそれらは必要最低限の連絡事項にのみ利用されていた。
私語の一つもないあたり自分でも味気ないだろうかと、少しの迷いが過ぎる。
その逡巡は間違っている。自覚はある。
彼女と関わっていても、互いの立場はあくまで一女子生徒と学院の理事長なのだという自制が真っ先に働く。それは正しい。
けれど後回しにした感情が、捨てきれないまま愚痴を吐くのだ。
もっと大切にしたい、慈しみたいのに、と。

苦笑を漏らしそうになった口元を、改めて引き締めた。
じろりと音を立てそうなほど鋭い視線を宙に放る。
現実には有り得ない事象が空間を歪め、キラキラと光り輝いて具現化した。

「不機嫌そうだな、吉羅暁彦」
「…………」

小さな音楽の妖精が姿を現す。
見たくもないのに見え、聞きたくもないのに聞こえる。いっそ理事室から逃げ出そうかとも思うが、無視を決め込んでも学院内に居る限りは、奴らの呪縛からは逃れられない。
下手をすれば生徒教職員が行き交う廊下であろうと校庭であろうと、構わず周囲を飛び回るのだから面倒だ。

────何の用だ、アルジェント」
「うむ、日野香穂子のことなのだ。キョウイクイインとやらの話は終わったのか?」
「見ての通りだ。……日野君がどうしたと?」

極力、表情筋を動かさないように、声音が変化しないようにと勤めた。

例え相手が非現実の象徴で非常識の塊であろうと、感情の機微を察知されるのはご免被る。
「さっきこの部屋の前まで来たのだが、すぐにいなくなってしまったのだ。────泣きそうな悲しい顔をしていて、我が輩、ちょっと心配なのだ……」
「…………」

保っていた無表情に刃こぼれが生じた。整った眉が微かに動く。

「日野君がどこにいるのかは判っているのか?」
「うむ、音楽科の屋上にいるのだ」

ほんの少しだけ、妖精に感謝したくなった。
闇雲に捜し出す手間が省けたその一点にのみ、という条件つきだが。
青天の霹靂とも言える気分に対し、当人は直ぐにも冷や水を浴びせかける。

────日野香穂子を、ちゃんと見てやったらどうなのだ? 吉羅暁彦」

この辺りはもう根本から相性が悪いのだろう。
力を込めて睨み付けても臆することなくお節介をやくのだから鬱陶しい。

「余計な世話だ。言われるまでもない」
「だったらちゃんと言うのだ、お前の気持ちを。お前は日野香穂子を――
「人の領分に入り込むな、アルジェント。分を弁えろ」
「なっ、こ、この分からず屋! 我が輩は生まれた時からお前を見守っていたのだぞ!」

終いには幼児のごとき癇癪だ。
手に負えない。
さらに何事かを子犬のようにきゃんきゃん吠えるが、聞く耳など端から持ち合わせていない。
意識を遮断するように理事室を出た。重い扉が軋んで閉まる。
追いかけて出てこなかったことに安堵しながら、そのまま音楽科屋上を目指した。
走り出しそうになる足に力を入れて押さえ込む。
彼女の居場所は判明したのだから慌てることはないと言い聞かせる。
それでも歩む歩幅が大股になってしまうのはどうしようもなかった。

何かに急かされるような気分だ。
落ち着かない。
この瞬間にでも確認しなければ彼女が掻き消えてしまうのではないだろうかと、馬鹿な妄想がこびり付いて離れない。
じりじりと胸の端から焦げていくような心地に、眉を寄せる。眉間にはしっかり皺が刻み込まれていることだろう。
幸か不幸かすれ違う人影もなく、吉羅は感情の発露に関して制御を諦めた。


日野香穂子と吉羅暁彦を結ぶ糸はあまりに細くて、手繰り寄せようとすれば今にも切れてしまいそうだ。


学院再建のために理事長という役職に就いた。就任に際しての蟠りは無いと言えば嘘になるが、この学院との繋がりは既に腐れ縁なのだから仕方がないと割り切っている。
任された以上は、役目を全うするだけだ。
そうして経営者として生徒を見回した時、日野香穂子はその特異性故に目立っていた。
そのまま宣伝に利用すれば満足な結果を残すポテンシャルを備え、見事に発揮してきた。
相乗効果というべきなのだろうか。
音楽科と普通科が併設された私学の顔として努力すれば、外に出しても恥ずかしくない技術を蓄えていく。
しかし、目立てば目立つほど今日のように横槍も入る。一歩間違えば攻撃の対象ともなりかねない。
そんな外野の喧噪から彼女を守るのが自分の役目だと自負していても、それ以上にも以下にも立ち位置を動かせずにいた。
それを歯痒く思ってしまうのは、もう感情として彼女を一介の生徒として見ていない何よりの証拠だ。

授業から解放された放課後の長く短い一時を理事室で二人、共有するようになってどれくらいの月日が経っただろう。
会話は一切なく、ヴァイオリンを奏でるだけの日もあった。
大学受験に関するアドバイスを伝えることもあった。
運指に迷いがある時は、その手に触れることさえ。
俯きがちに傾いた彼女の頬が真っ赤に染まっていたのを、見ないふりした。
技術に関して注意すべき所は容赦なく注意するが、誉めるべき所は誉めた。すると彼女は賞賛を受け取って笑顔を見せる。
語らずとも判る、照れたような満面の笑みだった。
ヴァイオリンに関してもその他でも、まるで蕾が色づいて花を咲かせようとしているかのようだ。

細心の注意を払って、不自然にならないように心掛けながら目を逸らす。
見てはいけない。悟ってはいけない。
心の淵から沸き上がってくる感情は、明確な形になる前に廃棄する。

けれど、最近は手が着けられない。
あと何日、こうしてこの場所で彼女のヴァイオリンを聴いていられるのだろうと、数え初めてから抑えが効かなくなってしまった。
繋ぎ止めておくには、何の手立てもないことに気付いて愕然となる。
一つだけ残っていることは判っていても踏み出せないのは、既に倫理観でも社会規範でもない。
それらは言い訳に便利な言葉というだけだ。
エシックだのモラルだのと題目を並べ立てても、表層を滑り落ちるだけで何一つ響かない。

あと数ヶ月。
卒業を待てばいいと自らを諭す。
焦る必要はないと足はブレーキを踏む。
それでもまとわりつく不安を振り払えない。
年甲斐もなく憶病になっている所為だろうか。

人の気持ちなんて不確定なもので、簡単に揺れ動くものだと知っている。
未だ成長途中の、大人と子供の間を不安定に綱渡りしているような状態の少女ならなおのこと、感情なんて簡単に左右どちらにも流されるだろう。
それが判っているからこそ、応えなかった。
無意識にも彼女が伝えようとしたものから、目を瞑った。
────その程度で気持ちをもみ消してしまえるなら、最初から苦労なんてしないだろう。
大人の都合を押し付けている罪悪感は、常に胸の端で燻ったまま煙を上げていた。
鎮火させることもできずに、様々な感情と縺れて飛び火する。
複雑に絡み合った糸のようだ。結び目は固く、解くことは不可能に思えた。
何もかもを元に戻すことはできない。
気持ちが生まれる前に、真っ新な白紙にはもう二度と。





階段を上がりきると、暗い踊り場に非常口のランプが煌々と光を投げ掛ける。
緑色の標識の下に固く閉ざされた重い鉄製の扉があった。
そこを開けたら、もう屋上だ。
手を伸ばしかけて止まった。
彼女がそこにいると思うと、ほんの少しだけ躊躇した。
その迷いは自己保身だったかもしれないし、持て余した感情への怖れかもしれなかった。

ドアノブに指が触れた所で、再び体が硬直する。

扉の向こうから微かに洩れ聞こえてくる音色に聞き覚えがある。
軽やかで明るい春の陽射しのようなそれは、間違いなく日野香穂子のヴァイオリンの音だった。
奏でられている曲目に、軽く目を見張る。

「……サティの」

あなたがほしいと熱烈な歌詞のついた華やかな三拍子が、胸を揺さぶった。


【続く】

初出:2009/06/12

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