好きと言って、愛してるって囁いて。—03

形にならないまま溢れる
この想いを伝える術を教えて


「Je te veux」
この曲を選んだのは、自然な成り行きかもしれない。
本人の前で弾いたことは無い。
けれど、導かれたことならある。この学院に棲む妖精によって。

「かつて、その曲を例えようもなく美しく弾く人がいた」

彼は目を細めて呟いた。
今もその声が耳に残っているようだった。
感情を見せない事務的な話し方をする人が、ほんの少し見せた感情の欠片だ。
身内に関して口を開く時、そうと彼が自覚しているかは知らないが、少しだけ声音が変わる。
おそらく、必要以上に自制しようとしているせいだろう。
押さえ込んだ感情から滲み出るものに、少しだけ胸が軋んだ。

同情も憐憫も必要ないと吉羅は語っていた。
その痛みも喪失感も、経験したことのない香穂子には判らない。想像することはできても、理解は遠いだろう。
それでもそれが彼を形作る要素の一つなのだとしたら、知りたいと思う。
断片的に語られる彼の言葉を掴んで受け止めて、どれ一つとして離したくない。
その声も話し方も目線も全て、記憶に刻み込んでいく。
学院の理事長と一生徒という枠の中で、それが香穂子の精一杯だ。
それがどんなに細く脆い糸だとしても繋がっていられるように。


あの日から、この曲は宝物になった。
密かに練習を重ねた。
添えられた歌詞を知ってからずっと、決して誰かに聴かせることはないままに。
明るくて清らかで元から好きな曲だったけれど、今は違って聞こえる。
切ない哀愁なんてどこにもないはずなのに、胸が締め付けられる。
あなたがほしいと、そんな情熱は微塵も感じさせないのに。
心の中を吹き荒れるこの感情はあまりに似つかわしくなくて、だからふいに泣きたくなる。

誰にも知らせることなく閉じ込められた感情は、曲を弾いて昇華させるしかないのだろう。
どこにも辿り着けないのならせめて、今だけは無心に弓を操り、弦を抑える指を的確に動かし、その音に集中するしかなかった。
余計なことを考えると音が散漫になる。単純なミスをしがちだし、難しい箇所を省略するような悪い癖も出てくる。
何よりも胸の奥にある暗い部分に落ちていくような気がして、だからこそ足を地に付けて踏ん張った。
彼の心に今も響く音色とは、雲泥の差があると判っている。
それでも弾きたいという欲求のままに動く。
頭の中でごちゃごちゃと感情が渦巻いているときは、こうして吐き出した方がいい。
そうしてすっきりしたら、また明日から元気になれる。

だから、気付かなかった。
屋上の扉が開いて人が現れたことも、その顔に浮かぶ表情にも。

波が引くように心が静まり、曲も終焉を迎える。
肩からヴァイオリンを外して、ほっと息を付いた所で名前を呼ばれた。

────日野君」

それが彼にしては遠慮がちな声音だと気付く余裕もなく、体が跳ね上がるほど驚いた。

夕焼けに照らし出された屋上に、長身の人影。
ブランドもののスーツをそつなく着こなし、泰然自若とした態度の若き学院理事長。
吉羅暁彦。
日野香穂子が曲を奏でながら心で思い描いた、まさにその人が立っていた。

「き、吉羅理事長!」

ぽかんと口を開けて、次に誇張でも何でもなく文字通り顔から火が吹き上がった。
慌てた。それはもう盛大に焦って、顔を背ける。
その素振りがわざとらしくても、取り繕う余裕さえなかった。
「ああああ、あの、その、ちょっと待って下さいね」
ベンチに置いたケースに、ヴァイオリンを収める。
彼に背を向ける格好となるので都合が良かった。
吉羅は人並み以上に身長が高く、当然目線も高い。一般的な女子高生の平均身長でしかない香穂子なら、俯いておけば大概の表情は隠せる。
それでもなかなか顔の火照りは収まらない。

恥ずかしいなんてもんじゃない。
こんな心情を吐露するような弾き方を、他人に聴かせたことはなかった。
弾くことが楽しいとか嬉しいとか、そんな感情ならいくらでも見透かされてきた。事実、そう思って弾いてきたし、それが伝わったのなら何より嬉しい。しかし、これは次元が違う。
寄りにも寄って、その当人に聴かれてしまうなんて。
心の全てを暴露するようなものだ。
例えば裸を見られるよりずっと恥ずかしい気がして、今すぐここに穴を掘って埋まりたい心境だった。

パチンと音を立ててケースの金具を留めるけれど、強張ってうまく動かない指を掠めた。

「痛っ……」
「日野君」
「だ、大丈夫です、かすっただけで……」

吉羅が直ぐ傍らまで近付く。視界の端に濃い色のスーツが見えた。
慌てて背を向ける。ほんの僅かでも距離をつくって逃げ込む。
顔を上げられない。
どんな顔をしていいのか判らない。
演奏を聴いて、彼はどう思ったのだろう。
それを知るのが、とてつもなく怖かった。

目頭が熱い。
指がかたかたと震え初めて、ぎゅっと拳を握る。
それでも震えは止まらなくてもう片方の手で押さえ込む。
喉の奥に熱くて重いものがつまったようで、声が出ない。
何か言わないと不自然極まりないのに、唇が震えて言葉にならない。
「……っく、ふ……」
吹き上がり始めるものを押さえ込もうとしたら、嗚咽が漏れた。
慌てて口を押さえる。
うまく息が継げなくて苦しい。奥歯を噛み締めるけれど、喉の奥が痛くて苦しくてたまらない。
その手にぽつりと熱いものが落ちた。
堰を切ったようにぽつぽつと降り始めたそれを隠すように、俯いて縮こまった。

────っ」

不意に肩を掴まれてびくりと震えた。
香穂子が作った距離など易々と飛び越えて、吉羅がすぐ側に立っている。
脊髄反射のようにもがくけれど、それより先に彼の大きな手が香穂子の両腕を捕らえた。
そのまま強く引き寄せられ、抱きしめられる。

濡れた頬をその広い胸に押し付けても、目の前に品のいい落ち着いた色のネクタイが見えても、背中に強い腕の感触を感じても、何が起こったのか判断出来ないほど頭の中は真っ白だった。

「……すまない。盗み聞きをするつもりはなかった」
頭の上から囁くような吉羅の声が降ってきた。

「ただ、君の演奏があまりに綺麗で……切なげで。そんな風にこの曲を弾いてくれたことが、嬉しかった……」
少し掠れた低い声音は、今まで聴いたことないほど感情的だ。

「り、理事長……」
顔を上げると、オレンジの光に照らされた端正な顔が見える。
けれど辛そうに眉根を寄せる表情は初めて見るもので、まるで全く知らない男の人のようだった。
確かめようと見つめるけれど、すぐに視界がぼやける。
両目に盛り上がった水滴がぽろりと落ちて、頬を伝って唇を濡らした。

「……君に泣かれるのは、正直、辛い」
長い指が優しく香穂子の頬を撫でて、涙を拭う。
「ご、ごめんなさい、わ、わたし…」
ぎゅっと目を瞑る。嫌われるようなことをしてしまったと、顔を背けようとするが吉羅の両手がそれを阻む。

「……そうではない。理事長という立場を忘れてしまいたくなるのだよ、こんな風に」
ふと閉じた目蓋に吐息が触れた。
続いて目尻に何かが押し付けられる。
「あ……」
暖かくて柔らかい感触に声が漏れた。
目を開けると、至近距離に吉羅の顔があった。

────本当は、せめて高校を卒業するまではと思っていたのだが……。心に嘘はつけないものだね」
吉羅は苦笑していた。参った、降参だと呟く。
そのまま、唇を塞がれた。
顔が近付いて斜めに傾いたと思ったら、優しく柔らかく重ねられる。

香穂子は信じられない気持ちでその温もりを受け入れた。
条件反射で目を閉じてしまったが、唇に感触を感じても睫毛が頬に触れても、まだ疑っている。これは本当に現実なのか、夢か幻なのではないかと。
それが吉羅にも伝わったのだろうか。
硬直した肩を優しく宥めるようにさすられる。そうされると気持ちがいいのだと、初めて知った。

唇が離れたと思ったら、また角度を変えて重なる。柔らかな感触を確かめるように。
いつのまにか後頭部には吉羅の大きな手が回っていて、藻掻くことも振り解くことも出来なくなっていた。
そんなことをしなくても香穂子は拒むこともできない。
ぎゅっと縋るようにスーツを掴む。すると下唇を軽く噛まれて、とろけるような心地に陥る。
キスもハグも、会話みたいなものなのだなぁと、妙に冷静に感心した。
こちらから投げ掛けたら、それに反応して投げ返してくる。
全部、知らずにいたことだった。全部、吉羅がそれを教えてくれるのだと思うと、言いしれぬ幸福感が沸き上がった。

「正式には、卒業まで待ってもらえると嬉しい」
唇を離して、至近距離から視線が絡まる。
吉羅のそれが懇願するような目だと、香穂子にも判った。

────は、はい。私、それまで待ってます」
笑った拍子にまた涙がこぼれて、慌てて手で拭おうとした。
それを制して吉羅の手が優しく涙を拭う。

「やだ、私、こんな顔で……」
今更、涙でぐちゃぐちゃな顔を吉羅の視線に晒しているのだと気付いた。
改めて自らを振り返ると、それはもう穴を掘って埋まりたい気分だ。
同時に吉羅が好きと想う気持ちが溢れて、羞恥と混ざって頭が破裂しそうになる。

「そ、それに吉羅さんのシャツ濡らしてしまって、その……」
「かまわないよ。役得と言ってもいい。それに、女性は男の胸を利用するものだろう」
くすっと吉羅が笑う。
「ただし、こうするのは私だけにしてもらえるかね? こう見えて私は独占欲が強いんだ」
「そ、そうなんですか?」
思わぬ吉羅の告白に、驚いて目を見張った。
まじまじと見つめていると、吉羅はまた口の端を吊り上げる。今度は少しばつの悪いような笑い方だった。

「そうだよ。……だから、約束してくれないか」

もう一度、小さな唇を塞いで。
その感触を堪能してから、吐息混じりに呟いた。




「卒業するまでも、した後もずっと────


【終わり】

Comment

前半で日野さんが見てたドラマは、グレイズ・アナトミーっぽいものかと。ERでもいいかな。足して二で割って、色々付け足した状態です。

初出:2009/07/03

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