煉瓦化粧の街角・前編

夕焼け空の街角
連れ立って歩く二人は何に見える?


手渡された封筒を幻でも見るかのような心地で、数秒間仰視する。
理事長室に入り浸るのは日常で、ヴァイオリンを弾くこともあれば世間話のみで時間が経つことも往々にしてよくある事象だ。
今日もそんな何気ない雑談を交わして、ふとマホガニーのデスクから取り出され事務的な手つきで差し出されたから、香穂子自身何の気負いもなく受け取ってしまった。
机の向こう側で吉羅暁彦は目で開けるように催促する。
視線を戻し封筒を開くと、出て来たのはコンサートのチケットだった。

「これ……」
「ソロ・ヴァイオリニストの来日公演だ。君も名前くらいは知ってるだろう?」
「は、はい。彼女のCD、持ってます」

有名な女性ヴァイオリニストのチケットは即日完売の売れ行きだと、友人の天羽から耳にしていた。
報道部所属というだけあって、彼女の情報はいつも新鮮で的確だ。
日野が好きなヴァイオリニストの動向も先回りでチェックし、情報をリークしてくれる。
とはいえ、今回は難しい相手だった。
チケット完売の上、ネットオークションでも現役高校生には厳しい値段に釣り上がって手が出せない。
折角来日しているのに見に行けないのは残念だと思っていた矢先の出来事で、信じられない思いで手の中の紙片を見つめた。
チケットには招待の文字が印字されていて、吉羅の持つ力を思い知る。
何の人脈も権力も金も持たない女子高生とは比べ物にもならない。
感心している日野の耳に、事務的で感情というものを感じさせない吉羅の低い声が流れてきた。

「それなら、一度生で聞いておくのもいいだろう。私も丁度スケジュールが空いているのでね」
「え……えっと、あの」
「日曜、君の予定はどうなっている?」
「あ、はい、空いてます」
「なら、決まりだな」

淡々と粛々と吉羅はスケジュール帳を取り出して、待ち合わせの時間場所を取り決める。
日野香穂子は慌てて携帯電話のカレンダー機能に入力するが、理事室を出てからもいまいち実感が湧かないでいた。
閉じていた携帯を再びパカリと開けてカレンダーを呼び出す。
全くの無意識に選んでいたハートマークが当該の日付でピカピカ光っている。
別に、吉羅はデートのつもりなんてないんだろう。
何度か食事に連れて行かれた時も、同伴者が急に欠席になったからだと言っていた。偶に彼が運転する車に誘われドライブに同伴することはあっても、会話らしい会話も少なくてふと何故自分がそこにいるのか不思議な心地になる。
エンジン音が低く響く車内に、他の音は一切混じらない。
香穂子としても運転の邪魔はできなかったし、窓の外を流れる景色を見ているのは存外楽しいものだった。
当初こそ会話の糸口すら見付からない状況に一人で気を揉んでいたが、彼が静寂を愛する人種だと気付いてからはその沈黙を自然と受け入れるようになっていた。
練習のために下校時間が遅くなったとか丁度顔を合わせたからとか理由は様々だが、厚意は素直に受け取るものだと思っている。
学院の理事長と一介の女子生徒が築く関係の延長というには、少し特殊な例かもしれないが。

「あ……でも」

コンサートに誘われたのは、今回が初めてではないだろうか。
いやいや、でもまた同伴者がいないとかそういう理由がちゃんと付随されてるんだろう。
二枚の招待券を思い出して、頬を抑えた。

────落ち着け、私。
別に深い意味なんて無いし、単に「勉強になる」とか「参考になる」くらいの気遣いだ。
己に向かって言い聞かせてみるものの、いまいち効果がない。
そのまま校門を潜って下校する気にもなれず、気付けば森の広場へと足が向いていた。

「どうした? 日野香穂子」
「リリ!」

鬱蒼と茂った木々の間、人気のない空間にキラキラと光の輪が弾ける。
妖精なんていうお伽話の住人が現存すると知った時は心底驚いたものだが、今はもう日常だ。
そうなると、突如現れる光の輪も人形のような小さな存在も背中に生えた羽も何の不思議にも感じなくなるから、慣れというものは怖いと日野香穂子はつくづく思う。

「顔色がコロコロ変わっておったぞ。百面相の練習か?」
「ええー、私そんな顔してない!」
「我が輩、バッチリ見ていたのだ!」

口調は仰々しいくらいなのに、子供のように胸を張る。
顔つきも幼く声も可愛らしいので、言動とのアンバランスについ微笑んでしまう。

「それで、どうしたというのだ?」
「うん、日曜にね、理事長とコンサート見に行くことになったんだ」
「おお! 吉羅暁彦とデートか!」

リリは目をキラキラと輝かせ、興味津々と香穂子の顔を覗き込んできた。
どこからそんな言葉を覚えてくるんだと突っ込みを入れたい所だが、問題はそこではない。

「違う違う、そんなんじゃないよ~」
両手をバタバタと振ってみるが、リリはきゃっきゃと周囲を飛び回る。

「何を言う! コンサートに連れ立って行くというのはデートの範疇なのだろう? めでたいのだ!」

常々思うのは彼らの言語感覚と現代風俗への認知度だ。
どこまで判って言っているのか、香穂子には判断できない。

「仲良き事は美しきかなと言うではないか!」
「……別に仲良しで行くわけではないよ」
「そうなのか?」
「うん。理事長は合理主義でしょう? もっと色んな音を聴いて勉強しろってことなんだと思うよ」

世界的に有名な奏者が舞台で演奏する所を聞きに行くのだ。
得るものは多大にあるだろう。
コンミスを任されて無我夢中で走り抜けた三学期が終わり、日野香穂子の立ち位置は大学受験を控えた高校三年生という立場に切り替わった。
目前には一本の道が延びているが、少し先で幾つも枝分かれしている。
楽器を手にして、一番最初はソロの舞台に立った。次にアンサンブルの楽しさを覚え、コンミスとしてオーケストラを率いる難しさと喜びを知った。
どれが一番自分に向いているのか。
ヴァイオリンと出逢って一年しか経過していない香穂子には見当もつかない。
何れ差し掛かる分かれ道を前にして狼狽えるだろうことは今から予想できていて、吉羅暁彦は難題をふっかけながらも一方で手助けもしてくれていると、香穂子は感じていた。
様々な選択肢と可能性を前にして人は迷う。
結局自分自身が何を経験してきたかによって、何かを選ぶ基準にしていくのだろう。
難問を解きながら自分に合っているものは何か。
手探りで探していけ、と吉羅は言外に投げ掛けてくる。

「確かに、生の演奏は良いぞ。しかし、それだけで吉羅暁彦がコンサートに誘うとは思えぬのだ」
「そ、そう……なのかな」

真剣な表情で腕を組むリリに、香穂子の目が揺らいだ。
真っ正直すぎる反応だと、後から後悔するほど心情が態度に出てしまっていた。

「ふーむ。不安なのか、日野香穂子」
「べ、別にそういうんじゃ。てか、リリ、勘違いしてない?」
「何が勘違いだと言うのだ?」
「だって、私――――
「吉羅暁彦のこと、好きではないのか?」
「そ、そんなこと無いよ!」

妙な方向に話が流れていると察知して、香穂子は色んな意味を込めて否定する。
リリを初めとするファータはとても純粋だ。
けれど、その純粋さだけで推し量れないものがあると、齢一八を迎える香穂子にだって判る。

「なら、問題は吉羅暁彦の気持ちだけと言うわけだな」
「いや、そうじゃなくてね、リリ?」
「我が輩、確認してくるのだ!」
「え、ちょっと!」

パチンと音を立てて、光が弾けた。
キラキラと光の粒子が零れる空間に、リリは既に居ない。

────どうしよう?」

間違いなく、彼は吉羅暁彦の元へ飛んでいったのだろう。
そして、あの空気を読むなんて芸当を最初から放棄した言葉を並べ立てて、吉羅のこめかみに青筋を作ってくるのだろう。
吉羅の事だ。取るに足らないとばかりにリリの台詞など綺麗に黙殺するだろうが、それはそれで悲しい。
数日後の待ち合わせ場所にどんな顔をして行けばいいのか、香穂子は赤く染まった頬を抑えて途方に暮れた。


逆境を前にして尻込みするか、体当たりに立ち向かっていくか。
日野香穂子が選ぶ選択肢はいつだって後者だ。
コンクールもコンサートもそうやってくぐり抜けてきた。
逃げていたら、今の香穂子はここに居ないだろう。
同じ後悔するのなら、何もしないでいるより何かした後の方がマシだ。
立ち止まっていたら何も始まらない。
先に行動して、壁にぶち当たってから悩めばいいと思っている。
例えどんなに明日が恐ろしく思えたとしても、一度でも壁を乗り越えた経験を持つものは強いのだ。
そうして、足を前に一歩踏み出した。
ぐずぐずと立ち往生していても容赦なく約束の日は訪れるし、時間も差し迫る。

洋服は姉から借りた。それはもう、盛大にからかわれたが、精一杯黙って耐えた。
「ははーん、男だな。しかも年上。金持ってそうだね~。んで、肝心の関係は微妙、と」
まるで全部見てきたかのような放言にも、選んだ服が似合わないとの突っ込みにも耐えたのだ。この忍耐力は誉められてもいいと思う。

「あたしもあんたもウチの家系は、いかにもってくらい標準日本人体型だからねぇ。胸とかもっとばーん!ってあれば、胸の谷間で悩殺!ってできるんだろうけどさ。とりあえず、こっちのワンピにしといたら? 十分大人っぽく見えるから」

ついでに靴も貸してあげるとの厚意も受け取って、姉に奨められたコーディネイトで家を出る。
直前には、玄関に立てられた姿見で己を確認した。
そこには、やはり背伸びした女子高生が頼りなげに写っていて、不安は影のようにつきまとう。

さじ加減が難しい。
何分、相手は大人だ。どう立ち向かっても歯がたたないことくらい百も承知だ。
それでも気付けば真っ向から臨む。
例え対等の立場になれなくても、向き合おうとしている。
けれど、向き合って見えてくるのは幼い自分自身だ。

純粋に、コンサートに誘ってくれて嬉しいと思う。
デートだと期待してるし、おめかしもしてきた。少しでも釣り合いがとれるようにと。
だが、同時にもやもやとした気分が晴れないでいる。
子供の頭を撫でてるような扱いや、背伸びした様をあしらうような結果になるだろうと先回りで予測しては、勝手に右往左往と悩んだり苦しんだりしてる。
こんな気持ちになるくらいなら、いっそ嫌いになれたらいいとさえ思ってしまう。


待ち合わせ場所はコンサート会場前の信号だった。
最寄り駅からゆっくり歩いても、十分は早く到着していた。
しかし、そこにはすでに長身の男が立っていて、香穂子の心臓は大きく高鳴る。

吉羅暁彦の横顔は周囲の人間より高い位置にあって小さい。
そして誰よりも冷たくきれいで、声を失ったように見とれていた。
薄手のジャケットはよけいな皺がなく、オーダーメイドの一品ものだと判る。
ネクタイははずしており、綿シャツは第一ボタンがはずされ、珍しく崩した格好をしている。
それがラフでも上品な印象で、別の一面が見えたような気がした。
固まったように動かない足を奮い立たせ、改めて踏み出す。
近寄ると、気配を察して吉羅が振り返った。

「日野くん」
「こんにちは。……あの、お待たせしちゃったでしょうか?」
「いいや、それほどでもない。来たばかりだ。……では、行こうか」
「はい!」

香穂子の背を促すように押して、二人は並んで歩き出す。
その仕草があまりに自然で、しかし慣れていない香穂子は落ち着かない。

「ああ、そうだ」
「はい?」

何かを思いついたように吉羅が声を上げ、香穂子は横を振り仰ぐ。
彼の冷静な態度に変化はなく、声音も口調も普段どおりだった。
しかし、香穂子を見つめる目が細められる。

「よく似合っている」

何のことを言っているのか、俄に判断できなかった。
香穂子の格好と言えば、胸元と肩口にレースのあしらわれたワンピースに、首もとには小さなジルコニアの光るネックレス一つで、ごくごくシンプルなものだ。
制服よりは背伸びしていても、舞台に立つ時のドレスほど凝ったものでもない。
けれど、そんな吉羅の一言で、今の今まで悩み苦慮した思いの全てがかき消えてしまう。
同時に羞恥が背筋から襲ってきて、顔を真っ赤に染める。

「あ、ありがとう……ございま、す」

息がつまるような気がした。
胸の前で両手を握りしめ、俯いた。
後れ毛の垂れるうなじが吉羅の目に晒されていたことにも気づかなかった。

そのまま、足元がふわふわと覚束無いような心地で、会場へと踏み込む。
吉羅のエスコートは完璧で、ドアを潜るときも席に着くときもさり気なく香穂子を促す。
背に当てられた手の感触をはっきりと感じて、その度に跳ね上がりそうになる心臓が憎らしく思えた。
もっと素直にエスコートを受け入れ、堂々と隣に立てるようになりたいのに。

二千人を収容するホールの招待席は広々としていて、柔らかなクッションの座席が体全体を受け止める。
香穂子はパンフレットを眺めながら、ぼんやりしていた。
隣の吉羅を意識せずにいられない。
彼はゆったりと背を預け、長い足を組んでいるが、それがどうしたって視界の端に映り込む。
肘掛けに肘を置こうものなら、彼の体に触れてしまいそうだ。

身動きがとれず、結果としてパンフレットに視線が集中する。
とはいえ、曲順とヴァイオリニストのバイオグラフィとコメント程度の薄い冊子だ。
すでに読み終わってしまって、他に注視すべきところもない。
舞台端にあるデジタル時計は、止まっているかのようだ。
先ほどから目をやってみても、数字が動いているように見えない。

クラシックのコンサートは何もこれが初めてではないし、アンサンブルを組んだ仲間と何度も足を運んでいるはずなのに、妙な緊張が全身を懲り固めていた。
星奏の男子生徒と遊ぶことと、理事長である人と連れだってコンサートを見ることと、そう差は無いはずなのだ。

アンサンブルの仲間たち。
春先に行われたコンクールで出会い、競い、そして親交を持った大切な友人たち。
彼らとて異性であるはずなのに、何が違うというのだろう。
むしろ、アンサンブルの仲間との仲を疑われ噂され冷やかされる事が多いというのに。

────日野くん」
「あ、は、はい」

ぼんやりと思い耽っていた香穂子は、吉羅の呼びかけに夢から覚めたように顔を上げた。

「彼女の演奏テクニックはもちろんだが、一挙一動をよく見ておくといい。いろいろと参考になるだろう」
「は、はい」
「それと、そんなに肩肘を張って演奏全てを勉強と思わなくていい。感じるままに聞く、それが音楽だろう?」

図星を指されたような気がした。思わず吉羅の顔を見つめ返す。
冷静な、音のない深い湖のような目だ。
光も音も吸い込んで底の知れない、深い深い色。
それが、今は香穂子をじっと見つめている。
一方で、好奇心のままに動き回るものを見つめるような悪戯っぽい視線を含み、どこか柔らかい。
狙いすましたかのようにアナウンスが流れ、開場を告げる。
香穂子は詰めていた息をゆるゆると吐き出した。


【続く】

初出:2009/09/30

LastUpdate: